この度、特別企画としてリレー小説を書きました。
テーマは『読書会』。7名の参加者でリレーしました。※章の横は担当者の名前です。
1(鋤名彦名)
私は今、ある高層マンションの下にいる。送られてきたDMに書かれた住所を入力したグーグルマップは確かにここを指している。あの人はこのマンションの最上階にいるらしい。じっと最上階の方を見上げていると首が疲れてきた。私はまだにわかには信じられずにいる。もう一度DMに書かれた文面を見た。「・・・つきましては我が家で拙著の読書会を開きます。ぜひご参加頂きたい。」
それは一週間前の事だった。「バベル」の名前で読書感想を主に呟いている私のTwitterアカウント宛にDMが届いた。送り主は小説家「犬神和音」からだった。
「突然のダイレクトメッセージ失礼します。私、犬神和音と申します。先日バベル様の書かれた拙著『天国の夜、地獄の朝』についてのツイートを拝見し、いたく感動しました。つきましては我が家で拙著の読書会を開きます。ぜひご参加頂きたい。なお、このことは他言無用でお願いしたい。日時は・・・」
私は確かに犬神和音の『天国の夜、地獄の朝』の感想を呟いた。しかしそれは無数に呟かれた感想の中でも、取るに足らない感想の一つだったように思う。実際のところ、犬神ファンのフォロワーが呟いた感想の方がいいねの数が多いし、リツイートもされている。そして的確に作品を評しているように思う。
なぜ私の感想が目に留まったのか分からない。偶然エゴサーチして見かけたのかもしれないし、もしかしたら読了した人の中からランダムに選ばれたのかもしれない。犬神ファンのフォロワーにDMについて聞いてみたいが、他言無用と書かれているのが気になる。出版社や編集者に内緒で開いているのだろうか。それにネット上の見ず知らずの人間を自宅に招くというのも不可解ではある。
私はエントランスのインターフォンにDMに記載された部屋番号を入力し呼び出しボタンを押す。ピンポーンと間抜けが音がした後、通話が繋がった時の微かなざわめきが聞こえた。私はマイクに向かって合言葉を言う。
「天国の夜、地獄の朝」
「ようこそ読書会へ。お待ちしてました」
まるであの世へと繋がる門のように開かれた自動ドアを抜け、私はエレベーターに乗り込んだ。
2(Arata.S)
沢木美智雄は逡巡していた。
築四十年の木造アパートは隙間風がたえず通り抜ける。
賃貸面積は約四十平米。
一人で住むには十分すぎる広さである。
その応接間で俺は、仕事相手と対峙している。
ガラス張りのテーブル越し、ソファーに浅く腰掛けた依頼主は若い女性。
おそらくはまだ二十代。
客として珍しい部類ではない。一個人として含むところも、もちろんない。
ただ、要件がいまいち判然としない。
判然としないというよりも釈然としない、どうにも腑に落ちないのだ。
かれこれ十年以上、俗に「便利屋さん」と呼ばれる稼業に従事している。
依頼は多彩多様。
万華鏡のように。
耳障りのいい言葉にすり替えたところで、無意味だ。
つまるところ、この仕事はゲリラ的でかつ、混沌としている。
途方もない守備範囲、埒外なフットワークを要求される日々の連続。
外野から内野、ベースコーチに売り子。
タニマチからサクラ。全てやる。
命に関わらない限り、どんなことだろうとやらねばならない。
必然的に、世の中が嫌厭する依頼ばかりが雪崩れてくる。
汚れを嫌う、無菌遊園地の住人たちに代わって
泥にまみれることが、この仕事の本質であり処世術の肝だ。
俺はそういった悲喜交々なこの仕事を、
"誹忌"交々な生き方を憎んではいなかった。
簡単な理屈だった。
マンホールの下、ヘドロと化した社会通念が仰っている。
人の嫌がる仕事ほど「実入り」がいいと。
懐が暖まれば、明日の不安もどこ吹く風となる。
家賃が払える。
依頼主から詳細を聞く。
端的に言うと、
もしも「何か」が起こった際に、あなたが人身御供になってくれないか、
そんな要件だった。
依頼内容を頭で反芻し、クライアントに応答する。平易な言葉遣いで。
滑り降りてくるを声を咀嚼しては吐き出す。
その過程で、耳元で漣のような音の粒が飛び交う。
引き返せという、響きに似ていた。
巷で静かに流行っているという読書会だが、
参加したことがないため実態は謎だ。
秘匿性を加える意味も。
セミナー、宗教、オンラインサロンの類ならば、わかりやすい。
金が絡んでくるため、兎にも角にも欲望に正直なのだ。
今回のケースはどれに当て嵌めていいのか、見当がつかない。
見落としはないか。異物が混ざりこんでないか。
世の中、うまい話ほど一段飛ばしで事は進むものだ。
道端で拾い上げた石ころがあるとする。
最初は、掌に収まる程度の体積しかない。
気まぐれからなのだ、最初なんてものは。
懐にしまいこんで日常を過ごすと、これが手放せなくなる。
些細な日常の幸運を、石ころに紐付ける。
ただのゲン担ぎが、運命共同体に成り変わる。
ポケット大の石ころはボーリング球のように、ずしりと重くなる。
差し込んだ指は、エンゲージリングよろしく外せなくなる。
石ころは際限なく膨張していく。
しがみ付かなければ身動きが取れなくなる。
持ち主であったはずの人間は、やがて石の模様の一部になる。
転げることしかできないとしても、座標が動くならばそれでいいのだ、と。
結果的に、人間だったものは石ころとして、どこまでも滑落していく。
俺にできることはピックアップすることではない。
ザイルを依頼主に手渡しハーケンに結び付け、適切な強度の岩肌に打ち込む。
それで終いである。
俺自身が巻き込まれては元も子もない。
「人気作家である犬神和音から突然DMが来たと。内容は主催する読書会に参加してほしい、そしてそれは他言無用」
「…はい」
「仮に、あなたのプライベートを詮索した上で、招待をしているとするならば、俺にも何らかの影響があるかもしれませんね」
「それは、どういった意味でしょうか」
「セミナー、宗教、オンラインサロンの類に代理で潜り込んだことはあります。真っ当な疑問を真っ当に繰り返すだけで、あっさりガワが剥がれる。あとは録音した内容をお客さんに聞かせてあげれば、それ以上首を突っ込むこともなくなる。金にならないと判断したら、アフターでどうのこうのありません。ただ、秘密の読書会ってのはまるでタチがわからんのですよ。なんと言いますか、あなた個人に狙いを定めてるってことも考えられる。金銭が絡んでないからこそ不穏、と言いますか、リスクとリターンがつり合わないんじゃないかなと」
「引き受けていただけない、わけですね」
「俺があなたの代理で行く、という件に関しては、その通りです。ですが、俺も一緒に参加する、ということであれば、依頼を受けます」
「すいません。ちょっと…何言ってるかわからないです。あなたにDMは届いていないのに、どうやって参加するんでしょうか?」
「それはまあ、色々とやりようがありまして。非合法、わからなければ、ゴーホームって詠まれてますし。あ、ゴーホームってまずい意味だったかな。まあいいか。幸いあと数日、読書会までに時間があります。開催場所もわかっていますし、シレっと参加するくらいなら、造作もないと思っています。聞いた限り特別キツいハードルはありませんし、大丈夫です」
「あの、今回の相談料は…お支払いします。申し訳ないのですが、依頼は、撤回させていただきたいです。読書会自体に不安はありますが、やっぱり、第三者にどうこうしてもらうというのは、その、発想が飛躍しすぎていたかもしれません。すいません。」
彼女の返答に、俺は満足していた。
満足しているはずだった。
そもそも、彼女に断らせるために非合法だのなんだのと話を膨らませ続けたのだ。
にも関わらず、どうしてなのか。
嫌な予感が後から後から背筋をなぞる。
取り返しのつかないことが起きそうな、そんな気がしてならない。
ここで手間賃だけを受け取って、彼女を読書会に行かせて本当にいいのだろうか。
漣のように響く、「引き返せ」という声を無視して、
俺は彼女を、あの手この手で引き止めていた。
彼女こと「バベル」がマンションへ入っていく。
数分の間を置いて、俺はインターフォンを鳴らした。
今の俺は「沢木」ではなく、熱心な犬神作品読者の「ミチル」。
合言葉を言い、あえて緊張した面持ちでエレベーターに乗り込んだ。
そそり立つ高層マンションの姿とは裏腹に、エレベーターは地下へと降りていく。
地獄に太陽が昇るとしたら、似たような軌道なのかもしれない。
そんなことを考えていた。
3(サクライ)
犬神和音・・・「天国の夜、地獄の朝」の著者から、アカウント名「コウタ」の(無論本名ではない)Twitter宛に読書会の招待DMが届いたのはつい一週間程前の話だ。
他言無用・・・このフレーズに興味を惹かれた。
秘密の読書会とは心が踊る。会ったこともない人間の元に向かう懸念よりも、このうんざりした日常をぶち壊してくれそうな誘いに対する希望のほうが勝った。
合言葉を伝え入った部屋には先客がいた。
そうこなくっちゃ。読書『会』というからには複数の人間がいるはずだ。自分のように抗えない何かに操られた者たちが。
スタッフなのか、執事めいた男がうやうやしく席に案内してくれた。
主催の犬神和音はまだ登場していないらしい。
お得意の愛想笑いで、その場にいた2人と挨拶と雑談を交わす。バベルとミチル。覚えやすい。
さて、今日はどんな非日常を見せてもらえるのか。
そして・・・この部屋を果たして出ることはできるのか・・・
っていうのは、いくらなんでもミステリーの読みすぎか。注がれたワインは濃厚で美味しく、まるで血のように赤い。美女の血を啜る吸血鬼のような気持ちになる。
ネットで読んだ本をああだこうだと好き勝手な感想を書いている時間はとても楽しい。そのひと時だけは一丁前に評論家気取りだ。あそこが良かった、ここはいまいち。作品を生み出す苦労も知らないくせに、匿名で書き殴った後は妙な虚無感だけが残る。その虚無感を取り除こうとまた書いて書いて書いて書いて・・・・・・
誰か止めてくれないかもううんざりなんだ。
自分以外の誰かが書いたものを必死に読むようなそんな人間にはなりたくなかった筈なのに。物語を紡ぐ側の方の人間になる筈だったのに。
そんな屈折した気持ちで殴り書きしたTwitterのどこが犬神和音に響いたのか、誰の心にも届かないと思っていた小さな呟きが、まさか御本人に届くとは。
天国があるのかなんて俺は知らない。
ただ、あるとしたら今ここだ。
この場所がきっとそうだ。
俺を地獄から救ってくれ。
4(ちあき)
旧約聖書創世記第11章が、いわゆる「バベルの塔」の物語だ。自分たちの名を知らしめる為、人々は町に天まで届く高い塔を作ろうとしたが、人々を戒めようとした神によって、互いに言葉が通じなくなり、人は各地へ散り、塔の建設を取り止めた。そのため、「バベル」には「乱れ、混乱」という意味がある。もし今、その神がこの高層ビルを見たらどうするだろう?あの手この手を使って、人間の邪魔をするのだろうか。
ビルの最上階からは東京の街を見渡せる。真下では、多種多様な人々が暮らしていて、その思いも様々だ。良い人間、悪い人間が混じり合って、多彩な出来事が起きているが、誰もが平等に朝と夜を迎える。
僕の『天国の夜、地獄の朝』の主人公は内に混沌を抱え込んでいる。この混沌をどうにかして治めたい、その為に主人公は奔走する。果たしてその結末やいかに。これが、この作品の筋書きだ。
読者のツイートを拝見して、僕が気づいて欲しかったことに感づいた者の内、特に気になった者にDMを送った。作家直々の読書会のお誘いだ。熱心なファンなら受けないことはないだろう。
混沌に魅入られた者たちが何を感じ、何を考えたのか、僕は聞きたい。
僕も地下室へ行こう。
5(けんとん)
地下室は独特な空気感が漂い、たわいもない会話が参加者たちを緊張させているように見えた。真っ白な壁と真っ黒な家具達の空間、地下のために部屋に光は差し込まない。それでいて部屋は何故か明るく感じるアンバランスな空間。空間を漂う埃たちが輝き落ちていく姿が時々見える。
読書会を開くと聞いた時、私は反対した。誰かと話をする事によって彼の作品性や文体などが大きく変わってしまうと思ったのだ。しかもやってくるのは彼の作品を深く愛している、通称ワオナー。ファンと言うのは危険だ。愛しすぎるが故に暴走し破壊する。ワオナーの中から自分が選ぶと言っていたが、非常に危険なことだと思った。彼はとても弱い。この世界から彼を救うため私は彼に作家になることを勧め、そして彼の秘書となった。元々、彼の家の執事を務めていたのでその流れはとても自然でとても正しいことだと思った。そして彼に素顔を隠して執筆するように勧めた。素顔を隠した作家という肩書は話題を呼び、私の言うことを聞いた彼は瞬く間に人気作家になっていった。
そんな彼が私の反対を受け入れなかった。まるで今まで私の言うことを聞いていた自分を否定するかのように。彼を見て私は引き下がった。彼に対する今までの罪悪感があったからかもしれない。何故なら自分が彼の一番のファンであったから。彼を苦しめていたのは世界ではなく自分だったのかもしれない。
参加者たちは3人だった。バベル、ミチル、ユウタ。彼は参加者の選ぶ基準を言っていた。ペンネームではなく自分の本名「沢木優太」もしくは読書会の課題本「天国の夜、地獄の朝」に関係する名前の人間を選ぶと。彼がどうやって参加者の情報を手に入れたのか分からない。しかし巷には便利屋という人間が存在している。多分便利屋に依頼したのだろう。そして気のせいだろうか、参加者の中に便利屋がいるような気がした。何の根拠もない考えに思わず笑いそうになり、私は胸元に手を伸ばした。その瞬間、地下室にエレベーターが到着した音が聞こえた。
6(へっけ)
「ワオナー」のバベル、ミチル、ユウタは、部屋の中心部にある円卓の席に着く。3人に遅れて、どこか緊張した足取りで現れた人物は、仮面をかぶっていた。白地に目口が笑っている、ハロウィンの仮装でよく使われているデザインだ。周囲の壁や家具のモノクロがの色彩が、より仮面の不気味さを引き立てている。また衣服は細身のスーツを着ているが、性別は男とも女とも言い切れない。彼、または彼女が『天国の夜、地獄の朝』の作者、犬神和音なのだろうか。
仮面の人物が、円卓の席に着くと同時に、ワオナーの3人は奇妙な感覚に襲われる。
「赤の臭いがする」。色覚と嗅覚が同調した。いや、それは日本語として不正確で、錯覚を起こしているという証拠でもある。色を嗅いで知覚できる道理は無い。でもその現実にはありえないことを、この部屋にいる誰もが疑いもなく信じていた。その理由は、3つ目の色が出現したことにある。
席に着いた4人の前に置かれた4つのワイングラス。しかしワインなど、卓上には見当たらない。これから給仕でも現われるのだろうか、と思考の速度が追いつかない内にまたひとり現れたのが気品ある秘書といった感じの男だ。年齢は、40歳には届かないくらいだろうか。切り揃えられた髭が年齢を不確かなものにする。彼が、4人のグラスに赤ワインを注いでいくが、モノクロの世界の赤は強烈に映える。人間の五感を狂わせる程に映える。ただでさえ非現実的な環境が整えられた部屋だ。色に嗅覚が反応しても不思議はなかった。
今、役者が揃った。バベル、ミチル、ユウタ、犬神和音とおぼしき仮面の人物、犬神の秘書。
彼、彼女らは、それぞれの感情と目的を持ってここにいる。しかし5人ともそのことを刹那にも忘れかけてしまっているのは、色が3つに制限された空間だからだ。いや空間というよりも、正確には古き良きモノクロ映画の中の世界だ。私達は、架空の存在である映画の登場人物であり、脚本に沿って演じなければいけない。そんな意識に支配されてしまうが、1冊の本がその状況を急変させる。
仮面の人物が円卓の下から取り出した『天国の夜、地獄の朝』。卓上にその1冊が置かれると、バベル、ミチル、ユウタも刹那に持参した同名の本を取り出して並べる。ここに、舞台が完成した。
厳かな低い声で仮面の人物が言う。声を聞いても年齢、性別の判断は難しい。しかし、地上の世界の価値観が意味をなさない、深淵なる地下室だ。ここにいる誰もが、同席者の社会的な概念など露ほども意識していなかった。
「バベル氏、ミチル氏、ユウタ氏。お忙しい中、地上から遥か遠い地下の世界まで来ていただき、感謝いたします。拙作にご興味を持っていただけたようで、作家としてこれ以上ない幸せです。」
仮面の人物は、拙作と自虐する本を手に取ってその表紙を見せながら続ける。
「さて前置きはここまでにして、本題に移りましょう。まずは、お一人ずつ拙作の感想を聞かせてください。正直に思ったことを。うまく話そうとかあまり気にせず、プレゼンの優劣を決める訳ではないので肩の力を抜いてお話しください。順番はそうですね・・・ミチルさんからお願いいたします」
ミチルは思った。こいつは、性格がねじ曲がった憎むべき作家だと。俺が正式に招待されていない、本を読み込まずに参加していることを知った上で先頭に指定してきやがった。
指示通りに、参加者の詳細な情報も提供したというのに。不信感を募らせながら、平静を装ってミチルは感想を口にする。
「こんな小説は初めて読みました。混沌が渦を巻いていると言いますか・・・悲劇とも言えますし、人間の救いにもなるような、なんとも形容するのが難しい内容です」
「なるほど、確かに私は読者によっては、どちらにも取れる物語になるよう意識して書いていました。その私の思いを正確に汲み取っていただき、非常に嬉しく思います」
ミチルは、額から冷や汗を流しながら、なんとか体裁は維持できたと息をついた。喉がカラカラに乾いていたので、鮮血色のワインを手にしてひとくちだけ飲んで喉を潤した。
「それでは2番目ですね・・・ユウタさんお願いします」
ユウタは笑われた気がした。仮面の人物はもちろん、その表情は見えない。にも関わらず、軽蔑されたように笑われた気がしたのである。ユウタは、【事前に仮面の人物と打ち合わせをしていた】のだが、その時に話した時の印象とはまるで別人だと思った。
「僕ですか・・・これまでの人生の中で、多くの書籍を読んできましたが、本当に僕にとって思い入れのある作品です」
ユウタはワインを飲んで息を整えてから、参加者によく聞こえるような声音で言葉を紡ぐ。
「主人公バベルがその精神に抱える混沌、最も親しき友人であるミチルは希望と同義の存在。この交わり難い2つの要素が共鳴に至る奇跡。偉そうな物言いになるかもしれませんが、見事としか言えません。先程、ミチルさんが救いとも悲劇とも取れると仰っていましたが、私はこれ以上ない救いの物語だと思いました。少なくとも私は、読み終わった時にこれまでの人生を救われた思いを持ちました」
仮面の人物の表情は窺い知れない。ただ静かに首を縦に振って、感想は最後まで聞いたとアピールするのみだ。ユウタの感想が終わり、残るは主人公と同名のバベルのみ。
「残るは私だけですね。それにしても、『天国の夜、地獄の朝』に関係する名前をお持ちの方が偶然にも集まっているのですね。いや偶然ではなく、犬神先生が選んだのでしょうが。高層マンションの地下にこんな部屋が存在しているというのも作中の世界を投影されているようです。先生はユーモアのあるお方なのですね」
この女、先日依頼を受けたときと同一人物なのか?とミチルは疑問に思う。あの時は、突然来た読書会の誘いに戸惑い、不安を覚えている様子だったが、今の彼女は全く動揺を見せずに何かに確信を持つ、自信に溢れた声と顔つきだ。女子三日会わざれば刮目して見よ。性別を入れ替えた慣用句になってしまうが、むしろこちらの方が今は正しい。
バベルは、仮面の人物と何故かユウタに視線を流してから自らの感想を言う。
「一言で表すなら、この本は人類の悲劇だと思いました。バベルの報われぬ思い、死後の世界、信じるに足る宗教とは。この本は、私達の歴史をあくまでもフィクションとして辿っていきます。人類は残酷だなと思う。歴史は悲劇だったんだなと思う。希望を反映したミチルの光は、地下深くには届かない。この世界、苦しいです。でも私は、この本のことが毎日、毎日、考えずにはいられないんです。なんて言ったら伝わるか分からないけど、うまく言葉にできないことが歯痒いですね」
バベルは瞳を潤わせながら、正直な思いを叫んだ。実際には、叫ぶような荒々しさはなく、冷静に喋ろうと努めている様子であったが、ここにいる誰もが彼女が叫んでいる姿を見た気がした。
そしてバベルは、何故か犬神とおぼしき仮面の人物ではなく、ユウタに向けて叫んでいた。一粒の涙を頬に流した後、彼女は再び言葉を口にする。
「ユウタさん。あなたですよね。私の一番大切な本を生んでくれたのは。何故、参加者に混じっているのか分からないけど、ユーモアのあるあなたのことだから、ちょっとしたお遊びのつもりなのかな」
ユウタは、何か諦めたように笑みをこぼす。
「ミチルさんがここにいることも不思議です。正式に招待をされていないあなたが何故、この読書会に同席できるのか。あなたもユウタさん。いや犬神先生と深い関わりがあるんですよね。何となく想像がついています。おふたりの容姿、雰囲気には似たものを感じます。同じ家庭で生活してきたのでしょうね」
ミチルも苦笑するが、何も返答せずに沈黙するばかりだ。
「仮面のあなた。あなただけは、何も分からないです。いったい何者なのですか」
「彼のことは、僕が説明しますよ」
ユウタがそう言いながら席から立ち上がると、それを追うように仮面の人物も席を立った。
「彼もバベルさんと同じ参加者のひとり『コウタ』さんです。バベルさん、ミチルさん、コウタさんがこの部屋で初めて顔を合わせたと時に、雑談をしながら楽しまれていました。その前に、コウタさんと僕は打ち合わせをしていたのです。私とコウタさんが【入れ替わって】今日の読書会を始めようと。コウタさんには、私そっくりの特殊メイクをしていただいた上で、皆さんの輪に入っていただきました。先程、話した雑談による交流が終わった後、皆様に気づかれないように僕とコウタさんは入れ替わり、円卓の席に着いていったのです」
バベルは、ユウタ・・・いや犬神和音が詳細に説明した内容まで推測することはできていなかったので、思わず瞠目した。しかし、何故そんなことをしたのか理解できなかったが、すぐに彼の性格ならやりかねないと思い直す。彼は、そのシリアスな作品世界とは裏原に、ユーモアにこだわりを見せる人だ。故におそらくは・・・
「何故、私がこんな手のかかることをしたのかと疑問に思われていますね?遊びなんですよ、こんなものは。ただ皆さんを驚かせたかった。実は、参加者とひとりに過ぎないと思っていたファンが犬神和音だった。それに驚いた皆さんの反応を肴に、ワインの味を楽しみたかったのです。僕の自己満足以外の何物でもありません。ごめんなさい。嫌われてしまうかもしれませんね」
犬神はこう言うが、3人とも彼を真に嫌うことは出来なかった。その子供のように無邪気で純粋な思いは、混沌とした思いを抱える参加者の精神をむしろ癒していなのかもしれない。
「バベルさん。あなたが一途に伝えてくれた思いが。今の僕が最も必要としている、かけがえのないものなのだと思います。感想の優劣をつけたくはありませんが、僕の人生が救われたように思えました。本当に、感謝してもしきれません。そして、コウタさん私の稚拙な遊びに付き合っていただき、ありがとうございます」
コウタは、そのぶきみな笑顔の仮面を外して素顔を見せた。整った顔立ちではあるのだが、表情に強張りを見せている。彼もきっと、複雑な思いを抱えながらこのモノクロの部屋に足を踏み入れたのだろう。
「犬神和音先生。私は、嬉しかった。あなたのような書き手になりたくてもなれなかった私は、あなたに嫉妬してしまうような醜さを晒している。そんな私と繋がってくれた。あなたの遊びに協力できた。地獄を見た経験があったから、ここにいることができる」
コウタは全身に力を込めながら、少し震わせた声ではっきりと言った。その言葉を聞いた犬神は、コウタに視線を合わせずにか細い声で「ありがとう」と呟いていた。役者達の発言が止み、部屋を沈黙が支配する。犬神は、秘書を傍に呼び、秘書の耳に口を当てながら何かを伝えているようだ。犬神が耳から口を離すと、秘書は落ち着いた足取りでエレベーターの方へ向かう。犬神は、バベルを視線を移してひとつ深い息を吸ってから言う。
「バベルさん。繰り返しになりますが、あなたの飾らない思いに僕は救われました。あなたには特別に、バベルの塔の模した建物の最上階へお連れしましょう。絶対なんて言葉は嫌いですが、損はさせません」
バベルは、緊張のあまり唾を飲み込むが、それで決心がついたのか首肯した。
「兄さんも来るかい。今回ばかりは、色々と頼んでばかりだったからね。本当に悪いと思っているんだよ。面白いものをみせてやるよ」
ミチルは、散々いいように使われたことが業腹ではあったが、根が病的なほど忘れっぽく、奮起に燃える性質でもあったため。迷わず同行することにした。
秘書が先にエレベーターに乗っている。続いて犬神、バベル、ミチルも乗り込むが、コウタは円卓の席に座ったままだ。彼の思いはすでに報われていたのである。もう生きる術に迷うような虚無感は霧消していた。
コウタを、地下に残しながら、犬神、バベル、ミチル、秘書はバベルの塔を昇る。エレベーターの窓ガラスから見える夜空に、一等星が輝いていた。天の川銀河内の恒星か、それとも銀河を超えた数億光年先の光なのかもしれない。エレベーターは最上階で停止すると、不吉な音を立てながら、ゆっくりと扉が開いていく。
7(shikada)
エレベーターの扉が開いた。
風が吹いている。
平凡なマンションの最上階を予想していたバベルは、予想を裏切られる。
「工事現場」という言葉がまず頭に浮かんだ。
そこでは工事用の足場が組まれ、屈強な男たちが上半身裸で作業をしている。ある男は煉瓦を運び、ある男はその煉瓦を敷き詰め、積み上げ、ある男は大釜で瀝青を溶かしている。
広大な円形のフロアだった。足元には深い赤茶色の煉瓦が敷き詰められ、壁や柱にも同じ煉瓦が使われている。壁は煉瓦が人の背丈ほどまで積み上がっている部分と、まだ膝ほどの丈までしかない部分がある。煉瓦の隙間からは、青空が見える。下を覗き込むと、煉瓦が延々と積み重ねされ、建物の裾の部分が徐々に広がっているのがわかる。どうやらこの建物は、地面に近い部分が太く、高層階ほど細い円柱の形をしているようだ。
屋根はなく、視界はどこまでも開けている。
鉄もなければコンクリートもない。およそ現代建築物に用いられている素材はまったく見当たらない。
そこには、まさしく建築当時のバベルの塔の最上階が再現されていた。未完の塔は、不断の積み重ねによって、貪欲に伸び続け、空に突き刺さろうとしている。
その風景に、ミチルはまず圧倒され、それから違和感に襲われた。この建物はいったいなんだ?ここは都心のマンションの中のはずなのに、壁の向こうを見ると、大地と森と川がどこまでも広がっている。マンションの周囲にあった建物はひとつもない。
あたりを見渡すうちに、さらにおかしなことに気づいた。今は夜だったはずだ。それなのに、昼の青空が広がっている。
あっけにとられる参加者たちを見て、犬神は満足そうに説明する。
「プロジェクションマッピングというものです。マンションの最上階のフロアーに、精巧な映像を投影しています。この建物もあの男たちもあの空も、すべて映像です。私はバベルの塔というモチーフに強い愛着を持っているのです。かの未完の建造物を、限りなく建造当時に近く再現したかったのですよ。外部の方にお見せしたのは、あなた方がはじめてです」
「これは…」
バベルは、開いた口が塞がらなかった。手が込んでいる、なんて言葉では表現しきれない。
本物にしか見えない風景だ。この風景を作り出すために印税が使われているかと思うと、なんだか可笑しかった。
「まったくの異空間に迷い込んでしまったかと思いました。ああ、驚いた」
「この空間を、ここまで作り上げるのにはだいぶ骨が折れました。皆様、お楽しみいただけたようで、なによりです」
満足げに犬神は笑う。
最上階を満足するまで見学した後、一同は地下室に戻ってきた。
全員の前に犬神が立つ。
「それではーーおまけの時間が長くなりましたがーー今回の読書会はこれでお開きとさせていただきます。最後に、主催としてご挨拶を」
犬神はお辞儀をする。
「唐突な、また不審なお誘いにも関わらず、読書会にご参加いただき、まことにありがとうございました。読書の方のご感想を直接お聞きできて、非常に嬉しいです。また、仮面の趣向もうまくいき、最上階をご覧いただくこともできて、私自身、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。本日はまことにありがとうございました」
一同が拍手する。地下室にはじめて入った時の緊張感はもうない。風変わりではあったが、心動かされる読書会をともに体験したことで、不思議な連帯感が一同をつなげていた。
最後に、なにか質問などはございますか、と犬神。
ミチルが、質問を投げつける。
「この読書会、次回の予定は?」
「私が主催する読書会は不定期の開催となっております。新刊を書き上げて、その感想を頂いてからのタイミングですからね。ただ、今回お集まりいただいた皆様には、ぜひまたお目にかかりたいものです」
続いて、バベルが控えめに手を挙げる。
「犬神さん、その、差し支えがなければですが…次回作の構想がすでに出来上がっていれば、概要だけでも教えていただけませんか?」
「次回作。そうですね…。実を言うと、次回作の題材は未定だったのですが、今日の体験で、着想が湧きましたよ」
犬神は、バベルをじっとみつめる。
「『読書会』をテーマにした小説…なんてものを書いてみようかと思っているんですよ」
言って、犬神はにっこりと笑った。
(了)
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