『三景 第三景「町田(前編)」』著者:へっけ

※前回の『三景 第二景「流通センター」』はこちら


 第三景『町田(前編)』

 

 第一節「夏子」

  

 5年前の夏は、例年よりも気温が異常に高く、雨が一度も降らなかった。ニュース番組は、連日のように熱中症で緊急搬送される患者が続出していることを報じていた。そして何故か、蝉の数が多かった気がする。あまりの暑さで正気を失ったのか、蝉の狂ったような鳴き声は、季節が変わってもしばらく止むことはなかった。

 当時の僕は、何事にもやる気が湧かない精神状態で、アルバイトを点々とする不安定な生活を送っていた。幸いなことに実家暮らしであったため、寝食に困ることはなかったが、何となく憂鬱な気分が上向くことはなく、幼少期の頃から自覚していた鬱屈とした人間性をより悪い方へこじらせてしまっていた。

 こんな精神状態であったため、アルバイト先で人間関係を上手く構築することができず、1〜2ヶ月程で退職することを何度となく繰り返していた。全く、堪えることが生きる上で必要なことだと理解していなかった。正確には、理解なんてしたくないと思春期特有の自意識を拗らせていたのだと思う。

この夏に、通算8軒目のアルバイトを退職したばかりで、仕事がなく暇を持て余していた。自室に引きこもり、あまり売れていないマイナーな私小説を読むか、テレビのバラエティ番組を観るか、居眠りをするかの3通りのみで過ごしていたが、それを見かねた母から「近くの高齢者福祉施設でボランティアを募集しているよ。暇つぶしに見学してみたら」と優しく促された。当時、引きこもりに陥った若者(一部は中高年)による凶悪犯罪が、世間を震撼させていたので、母も焦りや不安を覚えていたのだと思う。

強張った表情を見せる母に視線を合わせもしなかったが、いい加減、引きこもり生活から脱出したいと悶々としていたり、気分転換にもなったりするかと軽い気持ちで高齢者福祉施設へ電話をかけることにした。

 

1週間後の午前8時頃、見学とボランティアを兼ねて、自宅から歩いて15分程の所にある高齢者福祉施設を訪れた。受付で名を名乗るとすぐに施設長のいる事務室へ案内してくれた。施設長は、頭髪が薄く中肉中背の40代くらいの男性で、この施設は地域の要介護状態にある高齢者が通所して、入浴や排泄、食事等の生活機能訓練を提供していること、ボランティアのやることとしては利用者の話を聞いたり、入浴後にドライヤーで髪を乾かしたりする簡単な内容だと説明された。

 この内容なら、福祉職の経験がない僕でもできる気がしたし、何よりボランティアというあまり責任を持たなくても良い立場が気楽そうであったため、物は試しとやってみることにした。

 最初は週に1回、午前8時30分から正午までの時間でボランティアをしていたが、慣れていくにつれて日数と時間も増やしていき、施設長から非常勤職員への採用を考えているとの話が出るようになった。

 僕は、引きこもり生活から脱出するという進展だけで、まずは満足していた。積極的に働きたいと訴え出ることは時期尚早と思っていた。しかし夏が終わり、秋の気配を感じてきた頃には再度、施設長と面談して採用について前向きに検討したいと伝えていたが、丁度この時期に新たなボランティアとして伊馬井夏子(いまいなつこ)が施設に訪れたのである。

 

 夏子は、僕の場合と同様、まず施設長から施設やボランティアについての説明を受けて、翌週から正式にボランティアを始めることになった。最初は、週に1回のペースで行っていたが、僕のときと違う点として、最初から時間が午前8時30分から午後3時30分までと長めに設定されていて、それは非常勤職員の勤務時間と変わらないものであった。

 夏子の初めてのボランティアが終わった翌週、いつもの時間に施設に到着すると、夏子が受付横に置いてあるマガジンラックからチラシを取り出し、ベンチに座って読んでいた。利用者の通所が開始されるまで、しばらく時間があるのだが、いったい何時から来ていたのだろうか。眠たげな表情を見せていて、いつ寝落ちしてもおかしくない。夏子の目を覚ます意味も込めて「おはようございます」と初めて僕の方から挨拶をすると、意表を突かれて驚いたのか目を見開いてお辞儀を返してくれたが、声を聞かせてくれることはなかった。

 ロッカーに荷物をしまって準備を終えた僕は、夏子が再び眠ってやいなか気になり、先程は聞けなかった声を聞いてみたいとも思ったため受付に向かう。

 夏子は、ベンチに座って文庫本を読んでいた。どうやら覚醒したようだ。何を読んでいるのか尋ねてみると、今度はまっすぐに僕の眼を見て「三島由紀夫です。『音楽』という作品なのですが、ご存知ないですよね?」と小さくも透き通った声で答えてくれた。

 その時、僕が夏子へすぐに返答することができなかったのは、三島由紀夫を読んだことがなかったからという理由よりも、夏子の声が聞けたことへの驚きと同時に、その声から深い悲しみのようなものを感じ取ってしまったからだ。まるで、この地球上で独りぼっちになって涙を堪えているような、言葉にならない悲しみ。

 夏子はいったい何処から来たのだろう。どんな人生を歩んできたのだろう。そして、何処に行ってみたいのだろう。夏子と僕は、今日、初めて言葉を交わしたばかりだ。お互いに、何も知らない。それなのに僕は、夏子という人間に強く惹かれている。僕は、自分でも理解しきれない精神状態に戸惑いながらも、なるべく冷静に夏子からの質問に返答することに努める。

「三島由紀夫ですか。読んだことはないですね。僕が読むのは、売れない私小説か本屋で平積みされている小説が大半です。いやでも、三島も平積みにされていますかね」と普段よりも一層、低めの声で答えた。

 すると夏子は、「両極端ですね。そんな読書傾向の人って、結構、珍しいと思いますよ」と少し微笑んだ。初めて見た夏子の笑顔だ。三日月のように細くなる瞳と笑窪。僕は、一生、この笑顔を忘れないのだと思う。

 利用者が通所するまで残り僅かな時間になっていたが、その後も互いに好きな読書の話が止むことはなく、僕の鬱屈していた気持ちが癒されていく実感がある。

 あっという間に、時間が過ぎていき、利用者を乗せた送迎車が続々と到着してきた。話を中断して、名残惜しさに後ろ髪を引かれながら、ボランティアの開始時間を迎えた。

 僕はいつもと変わりなく、利用者と他愛もない会話をしたり、将棋を指したりしていたが、頭の中は砂嵐だ。別フロアでボランティアをしている夏子のことが気になって仕方ない。何処か上の空といった感じでその日のボランティアを何となくこなした。

 利用者が帰った後、ロッカーから荷物を出して帰宅しようとしたところ、受付の前で同じく帰り支度を済ませた夏子とばったり出くわした。

 この偶然が可笑しかったのか、夏子は恥ずかしそうに笑っている。艶のある長い黒髪の中に浮かぶ、再びの笑窪。僕も今朝の夢見心地な会話を思い出して笑う。また今から話ができるのだと、嬉しくて笑う。

 夏子は、横浜線を使って帰宅するとのことだったので、施設の最寄り駅である成瀬駅の改札前まで見送ることにした。その道中は、互いのお気に入り小説の感想で盛り上がり、さらに心理的な距離が近づいた気がした。僕はまた、夏子に会えることを楽しみにしながら、駅とは真逆の方向にある自宅へと歩いて帰った。

 

 翌週になると早速、夏子はボランティアを週に3回のペースで行うことにしていた。僕としては、夏子に会える頻度が増えるので嬉しいことではあるのだが、深い悲しみを表情や声に滲ませている感じが気がかりで、少々ハイペース過ぎやしないかと思った。何を目的に、夏子がボランティアを始めたのかも気になるところだ。しかし、僕が同じ質問を投げかけられた際に「引きこもりからの脱却」とは言いづらかったこともあり、夏子の繊細な部分を刺激しないように深く追求することは控えた。

 その後も夏子とボランティアの日が重なると、利用者が通所してくる前の時間や夕方の帰路で互いに好きなことの話をすることを続けた。読書傾向は全く非なるものではあったが、聴いている音楽の趣味は近かった。特に例年より異常な暑さが続いていることもあり、夏の歌の話題で盛り上がり、これまた偶然にもはっぴいえんどの『夏なんです』を繰り返し聴いているという共通点もあった。脳裏に田園風景が広がる、牧歌的な歌だ。施設のある地域も近代的な建築物が少なく、築年数の古い日本家屋やアパートの合間を川が流れる落ち着いた街並みで、曲の雰囲気と非常によく合っていた。

 そんなある日、ボランティアが終わった後、普段通りに夏子を成瀬駅の改札前まで見送ったが、気心の知れた関係になりつつある段階にきていたということもあり、勇気を振り絞って連絡先を交換しないか尋ねた。夏子は、初めて会話を交わした時のように照れ笑いを見せながらも、言葉を返してくれない。しかし、スマートフォンの液晶画面に自身のメールアドレスを映し出して僕に見せてくれた。夏子の精一杯の答えだった。


 第二節「沈黙を流す」

 

 蝉の叫声が、僕を不安にする。暦の上では秋が深まっているはずなのに、茹だるような暑さも相変わらずなのだ。早く夏が終わって欲しい。秋には、秋の風を感じたい。蝉の死骸は見たくない。

 1ヶ月以上、ボランティアを続けていた僕は、施設長と面談をした上で正式に非常勤職員として採用された。ボランティアで支援の経験を重ねていたこともあってか、施設長から「職員になったら安心して任せられる」と信頼されていたり、また僕としてもボランティアの経験は就労への自信に繋がっていたため、最初からフルタイムの契約だった。つい1、2ヶ月前まで部屋に引きこもっていた人間にとって、フルタイムの労働はハードルが高く、一歩間違えれば引きこもりへ逆戻りしてしまう危険もあるのだが、これから出費がかさむことが予想されるので、僕は決断したのだった。

 夏子と連絡先を交換したあと、早速、メールを送ったのだが、ここでも僕の話すことができることは本と音楽のことだけだった。しかし、夏子も一番の趣味が読書であり、その知識は僕とは比べようもない量だったので、僕から文豪や今話題の小説について尋ねると、その知識が長文となって披露されるのであった。このやり取りの流れで、町田に大型の古書店があるので一緒に行かないか誘ってみたところ、すぐに返信があり、次の週末に会う約束をした。

 週末の正午、JR町田駅の改札前で待ち合わせをしたのだが、ランチ時ということもあって通勤ラッシュ時と同等の混雑をしていた。僕が先に着いて改札から出てくる人の流れを見ていたが、とてもじゃないが夏子1人を視認できそうにない。

 諦めて読みかけの文庫本を出そうと思ったと同時に、「こんにちは」と聞き覚えのある透き通った声が聞こえた。

 いつものストレートの長髪、白色のブラウスに黒のスキニーという、これ以上のないシンプルな服装の夏子は、施設での服装とは全く印象が異なり、また知らない一面を知れたようで嬉しい。また恥ずかしげに笑っている夏子。僕もつられて笑ってしまう。

 北口の繁華街にあるイタリアンレストランでランチを食べたあと、小田急線町田駅付近にある目的の古書店へ向かう。事前に、その古書店へ趣き場所を確認していたため、迷うことなく10分ほどでたどり着くことができた。

 『鷹橋書店』と看板を掲げた古書店は、築30〜40年ほどは経過していそうな4階建ての雑居ビルに入っていた。全ての階が鷹橋書店のもので、古書店としては非常に大型な店舗と言える。少なくとも僕は、鷹橋書店以上の規模を有する古書店を見たことがない。

 下見に来た時は店内に入ることはなかったため、夏子と一緒に未開拓の土地に足を踏み入れるような緊張感を覚えながら恐る恐る店内へ足を踏み入れると、小説、雑誌、漫画などのありとあらゆる本の山が店内を埋め尽くしていた。本好きにはたまらない光景なのだが、本の山は通路を狭くしており、店内を回るにはその山を崩さないよう細心の注意を払わなければならない。神経が磨り減りそうだ。また本は、どれも埃をかぶっていたり、変色していたりして、発刊から数十年は経過していそうなものばかりだ。でもこの中に、誰かにとってはかけがえのない価値を見出せる1冊があるのだと思うと、美麗な宝の山にも見えなくもない。

 何かの本を手に取るでもなく店内を奥に進むと階段がある。その脇の壁には、しわのよった紙にビル内の案内が書かれている。どうやら1階が『文学・漫画』、2階が『古典・海外文学』、3階が『専門書』、4階が『映画・アイドル』と階層ごとにジャンルが分かれているようだ。夏子が、2階に行きたい様子であったため、1階を充分に散策しないまま2階へ上がる。

 2階に着くと、吹き出してきた汗や身体の熱がいつまでも収まらないことに気づいた。室温が、外気温の異常な暑さと変わらないのではないか。周囲を見渡すと、店内の窓という窓が全て全開にされてる。このビルには、空調設備が備わっていないようだ。残暑の厳しい時期に来るのではなかったと、頭を項垂れる思いだ。

 落ち着いて本を物色する余裕がない。横にいる夏子は、何処か涼しげに見える表情だ。1階だけでも相当な数の古書を所蔵していたので、2階にある夏子お目当ての古典にも期待が膨らんでいるのだろう。夏子の首筋に、滝のように汗が流れている。

 2階では、古典と海外文学にそれぞれに、独立した入り口があり、左右に分かれている。いつもは切れ長の大きな瞳は柔らかい印象を持たせている夏子も、鋭い目つきを見せている。そそくさと古典フロアに入って行ってしまったので、僕も遅れて古典フロアに足を踏み入れると、高さ2メートルくらいの書棚が整然と並び、1階のように本の山が積まれていることはなかった。

 夏子は既に、気になった古典を手に取り裏表紙のあらすじを読んでいるようだ。何が気になったのかとその古典のタイトルを確認すると尾崎翠の『第七官界彷徨』だった。詳しくは知らないが確か、大正から昭和にかけて活動していた女性作家だ。夏子が持っている作品が、代表作のひとつで、確か一風変わった恋愛を描いている小説だ。その時に僕が思ったことは、100年程前の作家も古典に分類されてしまうのかということだ。僕自身がまだ20年と少ししか生きていないので、確かに100年という年月は非常に長い印象もあるのだが、同時に近代国家が成立している当時と現代は地続きにあるので、古典という厳かな字面との相性が良いとも思えない。

 そんな疑問を頭に巡らせていると、夏子は本を持ちながら別の書棚へと移動した。どうやら尾崎翠を購入することは決定したようだ。その後もしばらくは、古書の物色に夢中の様子だったため、僕は興味本位で4階の映画やアイドル関係の古書を見に行こうと階段を上がった。

 4階に到着すると息を上げながらさらに汗が吹き出してきて、これはもう帰宅したら家族にバケツで水でもかけられたのかと心配されるかもしれない。

 息を整えるために少し休憩したあと、古書を物色することにする。他の階層と違って、ポップな雰囲気がある。というのも、かつて上映されていた映画や往年のアイドルのポスターが壁に貼ってあり色彩が豊かなのだ。しかし、掃除が行き届いていないようで床が黒く染みていたり、書棚や天井などに埃がたまっていて、あまり長居はしたくない印象だ。持病の喘息が悪化しそうで気分が良くない。

 急いで古書を確認しようとフロア奥手にある書棚に向かおうとするが、その手前に置いてあるものに興味が移る。それは、薄汚いプラスチック製の籠だった。中には、邦画や洋画の区別なくパンフレットが入っている。ジブリアニメのパンフレットも見つけた。何か観たことのある映画のものはないかと適当に何冊か取ってみたが、視界を覆う程の埃が舞い上がり少し吸ってしまった。咳が止まらなくなり、息がうまくできない。古書を探しにきただけ、夏子と時間を共有したいだけなのに、何故こんな死ぬ思いまでしなければならないのかただし、古書店への誘いから今日、夏子と会うことができているので、僕の思いは複雑だ。気持ちを無理矢理、切り替えて、フロアの奥に向かうことにする。

 そこには、2階にあるものと同じ書棚がいくつかあり、主に80年代に活躍した往年のアイドルの写真集が綺麗に収納されていた。

 80年代というと、自分の母親と同世代かと妙な感慨を抱く。試し読みをしようと物色し始めるその時、背後に人の気配を感じて振り返ると、そこにいるのは伊馬井夏子だ。

 一番見られたくないところを見られてしまった。夏子と一緒に来ているというのに、興味本位でアイドルの写真集にうつつを抜かしているからだ。

 自分の不甲斐なさを恥じながら夏子の表情を伺うと、何故か口を半開きにさせて驚嘆したように目を見開いている。いったい、どんな感情でいるのか想像がつかない。夏子の反応の続きを待っていると突然、僕を押しのけて書棚を物色し始めた。さらに『小泉今日子、岡田有希子、原田知世』と独り言をブツブツと呟いている。

 普段と目の色が全く違う。それはまるで、アフリカの草原で獲物を全力で追い込む肉食動物のような、狩猟者のような緊張感を伴う。僕は、ちょっと怖いなと思う。

 早速、夏子はお目当てを見つけたようで、小泉今日子の若かりし日の写真集を持って1階に戻る。階段を降りる速度が人間のそれではなく、狩猟者として覚醒しているようだ。会計をする際に夏子が出した財布には、黒猫の刺繍がされていて何年も大事に使っているような使用感があった。思い入れのあるものなのだろう。

 夏子は財布からお金を出そうとしているが、小銭が奥の方に入り込んでしまったのか会計するのに手間取っている。焦りで手の震えが止まらないようだ。その時、財布の中から、小さな銀紙のようなものが床に落ちていった。よく見ると錠剤の薬であったため僕が拾って、落としたことに気づいていない夏子に渡そうと声をかける。するとまだ小銭が取り出せずに焦っていた夏子は、途端に表情を曇らせて僕に目を合わせようともしない。服薬というものは、個人のデリケートな部分でもあるので、見てはいけなものを見てしまったのかもしれない。薬の包装には『エビリファイ』と書かれているように見えたが、何の疾患に用いるものなのだろう。あとで調べてみたい気もするが、果たしてその結果は、夏子と僕の関係に良い影響を与えるのだろうか。

 夏子は、一度深い深呼吸をすると、1万円札を店員に渡して会計を済ませる。『第七官界彷徨』と『小泉今日子の写真集』。20歳前後の女性が買う物とは思えないが、その感性に惹かれる。僕は、田中英光の『オリンポスの果実』『痴人の愛』を購入して、鷹橋書店を後にする。

 外気温と変わらない店内で、気力も体力も著しく消耗していた僕等は、近くでたまたま見つけたレトロな喫茶店に入り休憩をした。やはり薬を見てしまったことは、夏子にとっては致命的な出来事だったようで、喫茶店を出てからも浮かない表情のままでいる。時折、僕から声をかけるが、『そうだね』とか『うん』とか短い返事しかしてくれない。会話が続かずに、沈黙している時間の方が、全然長いのだ。もう空は夕暮れ色に染まって別れの時間が近づいてきた。特にこれからの予定もなく、何となく帰路につこうとJR町田駅の改札前まで来た。

 この沈黙は、永遠に終わらないのかもしれない、なんて思う。今日の夏子も、何か悲しみを背負っている感じで、どんなことを経験したのかな、してしまったのかなととても気がかりだ。僕は、夏子のことをもっと知りたいと思うのだけれど、同時に知りたくないとも思う。いつまでも、本とか音楽の話だけをしていたい。それだけで充分、幸福なことなのだ。それに、僕はどうも感受性が強い自覚がある。悲しみって、感情の中で一番、感じやすいもので、夏子の抱える悲しみに僕が共鳴してしまった場合、何か良くないことが起きそうな気もする。でも当時の僕は、冷静ではなかった。完全に夏子に吸い込まれていた。だから、僕は言う。

 『今日は、夏子さんと一緒にいることができて幸せだった。珍しい古書も買えたし、これ以上なく満足って感じ。ありがとう。外に出てきてくれて。』

 心細く俯いていた夏子が、僕の瞳を真っ直ぐ見る。大きな切れ長の瞳。潤んでいる。悲しいのかな。この瞳を持つ夏子を癒せないかと思うけれど、それは僕の思い上がりではないかと疑う。そもそも僕みたいな自信のない人間に何ができるというのだとも思うけど、この地球で、銀河で、宇宙の果てで、夏子を一人にさせないことはできる。

 『夏子さん、また本屋へ行きませんか。電車に乗っかって、夏子さんの行きたいところに一緒に行きたいです。僕は、夏子さんのことが好きになりました。』

 夏子は、笑っている。でもちょっと泣いているようにも見える。また言葉にならないことを思っているみたいだ。僕も余計なことは言わずに、そっと沈黙を流す。何分くらい経ったのだろう。夏子が僕の手を握ってくれるまでに、緑色の電車が3回くらい、僕の視界を横切っていた。

(続)

※続編の『三景 第三景「町田(中編)」』はこちら

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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