夜勤明けで疲れて帰ってきて、何を考えていたのかコーヒーを作った。捨てるのもためらわれたので、牛乳を多く入れて飲むことにした。
コーヒーを冷蔵庫の上に置いた。独り暮らし用の冷蔵庫は高さが鳩尾辺りになるので上で作業するのにちょうど良い。
牛乳は使いさしのものがなく新品を取り出した。開け口を開いてマグカップに注ぎ込む。
「うわっ」
小さな叫び声が聞こえた。隣の部屋からではない。おかしなことに確かに目の前から聞こえてきた。一人暮らしで他に人はいない。何か奇妙なことが起きている。
手を止めて静かにしていると、
「やっと出られたぜ」
もう一度同じ太い声が聞こえてきた。
「おい、どこ見てんだよ。こっちだよ、コップの中だ」
声に従いコップの中を覗き込む。しかしそこにあるのはコーヒーと牛乳が混ざり合った普通のカフェオレがあるだけだ。
「まったく人間はどうして俺らとコーヒーを混ぜるのかね。こいつら臭ぇんだよ。わかんねぇかな、コーヒーの臭いって馬のクソみたいな臭いするだろ。牧場でも臭いのは馬なんだよ」
「コーヒーが喋った」
驚いて声を上げた。コーヒーにゆらぎはなく、どういうことなのか声だけが水面あたりから聞こえてくるのだ。
「お前の頭は空っぽか。それとも狂牛病? どう見ても牛乳が喋ってんだろ」
確かにその通りなのだ。牛乳を入れてから喋り始めたのだ。どうしてコーヒーが喋ったなんて思ったんだろうか。
疲れているのは確かにそうだが、判断力の低下を実感するのがまさかコーヒー、もとい牛乳と喋っているときだとは思わなかった。
「コーヒーは嫌いなんだよ。こいつら黒だろ。なんか汚ねぇんだよ。俺は真っ白。乳白色。女性が化粧で目指すのは俺たちみたいな綺麗な色よ。紅茶はいい。ホットケーキもまあ許せる。おい、それと間違っても牛肉と俺を合わせようとするなよ。ヒトは卵と鶏肉合わせるだろ。狂ってやがるぜ。とにかくコーヒーはだめだ」
「君は黒が嫌いって、差別主義者なのかい」
ぼくは当たり前のように牛乳と会話を続けていた。
「すぐにそうやって差別主義者を作ろうとする。お前みたいなやつのほうがよっぽど危ないぜ。この間も地元の牛がな。乳の出る量でグダグダ言ってきやがったんだ。俺は自慢じゃないがかなりの量が出るんだよ。ハッハッハ」
君が出してるんじゃなくて、君は出された側なんじゃないか? と思ったが、もしかしたら牛の魂が乳から絞り出されたんじゃないかと考えることもできた。
あるいは、乳牛と牛乳は共有意識を持っているのかもしれない。ということは、今乳牛が草を食んでいたら、牛乳も草の味を感じることに違いない。
「その不細工がな、俺に文句を言うわけよ」
「それよりも、牧草って美味しいの」
牛乳の話を遮って聞いてみた。
「は? 俺が知るわけねえだろ。牛に聞けよタコ! どこまで話したかな、そうだ。それでその文句ってのがな」
乳牛だから雌牛なのに、喋り方が男っぽいと気が付いたのは今更だ。
「あなたがそんなに乳を出したら量の少ない私たちが処分されちゃうでしょ。だってよ。知らねぇよ。で、俺は言ってやったのよ。模様が不細工だから出ねぇんだよ。ったく女はギャーギャー喚けばいいと思ってやがるってな」
「君も女じゃないのかい」
「黒人同士でニガって呼び合うだろ、それと一緒だよ。お前はあいつと同じこと言うな。お前の母ちゃん牛?」
まだしつこく言っていたが、試しにコーヒーをかき混ぜようと中に指を入れてみた。すると何か異物が指先に当たった。コヒーと牛乳だけなので固形物があるはずがない。
「おい、やめろ」
人差し指と親指を突っ込み、何かをつまみ上げる。それをカップの上で上下に振ってコーヒーを落とす。
顔を近づけると小指の爪ほどの牛だった。
「おい、やめろ。今すぐカップに戻せ」
牛から声が聞こえた。やめろと言われると反対のことをしたくなる。
ティッシュで水分をとって部屋の床においてみた。
トコトコと歩くところを想像していたが、案に相違して牛は巨大化し始めた。ものすごい勢いで成長して牛のアスホールが胸元にまで迫る。思わず後ずさりして壁際に追いやられる。これ以上大きくなったら牛のアスホールに押しつぶされる。臭そうだ。恐怖を覚えるも、成長はそこで止まった。
「ヤバいヤバいヤバい」
牛は一見ホルスタインに見える。よくよくちゃんと見ればホルスタインに見えた。ブルではなくカウだ。
好奇心からかがんでみると、しっかり乳がついている。絞れそうだ。だが臭かった。
「んもー」
太く響く声で牛が鳴いた。うるさいと思った。
壁がドンとなる。やはりうるさかったのだ。
「んもー」
牛が鳴く。焦りを覚える。壁を叩かれる。
マンションの部屋を飛び出した。廊下の両サイドには扉が並ぶ。見たことのない廊下だった。ここはどこなのか。開いた玄関から部屋を見る。確かに自分の部屋で、異物もいる。
もう一度廊下を見る。緑の絨毯が敷いてあり、壁は青空のような透き通った青でじっと見ていると遠近感がおかしくなる。
壁には部屋と部屋の間に絵が飾ってある。
砂漠で雪だるまがテーブルを囲んでカレーライスを食べている絵。
鮭が口を大きく開けて小さいシロナガスクジラを丸呑みしようとしている絵。
廊下の一番奥には格式張った席についた人々の前の皿に地球が乗っており、それをナイフとフォークで構えている絵だった。
「大変だ! 部屋に牛がいる!」
大声で叫んだ。誰かが出てくる気配はない。とにかく人間に会わなければ。そう思って焦った。
「みんな見てくれ! 牛がいるんだ!」
もう一度叫んだ。学校で授業を受けているときに虹が見えたときのように、みんなに知らせなければならない衝動だった。
扉が次々に空いて住人が出てきたが、皆興味がなさそうな顔だ。言われたから渋々出てきた感じを隠そうともしない。
「んもー」
開けていた玄関から牛の声が響く。「ほら」と声には出さないが、玄関を指差してオオカミ少年でないことを主張した。嬉しそうな表情だったと思う。
「だから何だよ」
近くにいた男がバカバカしいといったふうに答えた。
「うちは馬だよ」
そう言った直後に馬が玄関から首を出してブルブルと震える。こちらを見て歯をむき出しにして嘲笑った。
そう見えた。
「私は鶏」
「俺は豚」
「うちはカジキマグロ」
そう言った男の部屋でビタンという水分のある何かがぶつかる音がした。
「俺の部屋には象がいる」
グララアガァ。象の鳴き声が聞こえた。
「君は、牛肉から牛を取り出したんだな」
「いや、牛乳だけど」
「牛乳? これは傑作だ」
廊下に出てきた人たちは何が面白いのか腹をよじって笑う。
「君はなかなか笑いのセンスがあるね。ちょっと勘弁してくれ」
「ちょっと待ってくれ。牛肉から牛を取り出すことができるのかい」
「今更何を言ってるんだ! そうでなけりゃ、どうやって牛が生まれるっていうんだ。いつも何を食べてるんだ君は。ハッハッハ」
「それじゃあ、君は象を食べようとしたのか」
「象を食べるだってよ! 君はどこで笑いのセンスを身に着けたんだ!」
するとまたみんなが笑い声を大きくする。中には呼吸がおかしくなって転げ回る人もいる。
何が面白いのかさっぱりわからないが、他人が笑っているのをみると、自分も面白くなり笑い出した。愉快な気分だ。
みんながこっちを見る。すると笑うのを止めてつまらなさそうな顔をして、「あー面白くねぇ」「全部ぶち壊しだぜ」「牛野郎が」と文句を言いながら、三々五々それぞれの部屋に帰っていく。
部屋に戻って玄関の鍵をかける。さっきまでの興奮は一体何だったのだろうか。恥ずかしさと悲しさと混乱と虚無感のようなものが胸中に溢れた。
牛は相変わらずそこにいた。しっぽがパタパタと動いている。
コーヒーのカップが危ないと思ってとりあえずコーヒーを飲み干した。
牛が消えた。
目が覚めた感じだ。コーヒーだから当たり前か。
(了)
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