『三景 第二景「流通センター」』著者:へっけ

※前回の『三景 第一景「池袋」』はこちら。


 第二景『流通センター』


 東京モノレール。都心の浜松町から羽田空港を結ぶ、モノレール路線。赤と青色でデザインされた車両は、高架化された線路上を、ビルの谷間を縫い、運河を下に眺めながら進んでいく。

 僕は、車窓から見える海上の景色を、ぼんやりとした眼で見流していたが、突然車両が強く揺れて転びそうになった。

 最初に書いた通り、ビルの谷間を縫うように進む区間があるため、線路にカーブした部分が多く車両の揺れも多いのだ。

 控えめなジェットコースターとも言える、ちょっとしたスリルを味わいながらも隣で文庫本を読んでいる、クールな男は表情を変えない。

「この揺れの中、よく活字を追うことができるね。見てるこっちが酔いそうだ」

「通勤で鍛えているからかな。田園都市線は、乗客の多さも揺れの度合いも一味違うよ」

 彼と出会ってからまだ、半年も経っていないが最近やっと敬語が抜けて、一気に心理的距離が縮んだ気がする。彼とはSNSを介して知り合った『同好の士』なのだが、その詳細についてはこの物語が進むにつれて、明らかになっていくと思う。

 因みに、お互いに本名を知らないため、同好するものから彼を『ウエハラ』と呼び、僕は『チョウフ』と呼ばれている。

 ウエハラが、文庫本をジーンズの尻ポケットにしまった。さっきの発言はただの強がりか、本当は揺れに酔っていたのだなと思ったが、彼の「着くよ」の一言で目的地の最寄駅に着いただけだと気づいた。

 僕たちは、『流通センター』の駅を降りると、駅名の由来にもなっている、地上6階建てのビルに向かう。と言っても駅から徒歩1分なので、すぐに着いてしまうのだが。

 ビルの正面には、長方形の広場が広がっていて、広場を囲むようにカフェやコンビニが軒を連ねている。どのお店も繁盛しているようで、店内は客でいっぱいになっている。また広場の中央には、植木が並んでいて、そこに腰掛けて弁当やコンビニのおにぎりを食べて過ごす人も大勢いる。性別、年齢ともに目立った特徴はないように見える。

 何故、このビルに大勢の人が集まっているのか?それは、もうそろそろ判明するのだが・・・その前に、時間は正午、僕もウエハラも朝食を抜いてきているので、まずは腹ごしらえだ。

 広場を抜けて正面入り口から、ビルの中に足を踏み入れる。近くの案内板には、2階に飲食店があることが書かれていた。同じ階に『イベント会場』もあるので好都合だ。

 エスカレーターを上りながら、ウエハラに何が食べたいか尋ねると、切れ長の目にかかる前髪の位置を気にしながら『パフェが食べたいんだよね。さくらんぼが乗ってるやつ』と僕にとっては予想範囲内の答えが返ってきた。彼は、自他共に認める偏食家で、昼食は基本スイーツしか食べない。因みに、ここ1ヶ月くらいはクジラ肉にはまっているようで、夕食はそれを丼にしたとものしか食べていないらしい。かなり偏った食生活を送っているが、顔色は明るく出会ってから体調を崩したとの話も聞かない。

 今から食べたいというパフェなら、広場のカフェにありそうだがおそらく満席だろう。パフェを食べるために列に並び、今日の貴重な時間を浪費したくない。ダメ元で、2階の飲食店にないか探してみて、なければ残念だがウエハラには別のスイーツで妥協してもらおう。

 エスカレーターを降りて飲食店エリアに向かう。カレー、洋食、中華。定番の店が連なっているが、ひときわ注目したのは蕎麦屋だった。何故なら、入り口に貼ってあるメニューに、「さくらんぼバナナパフェ」と書いてあるのを見つけたからだ。

 ウエハラにメニューを見せると、蕎麦屋にパフェが置いてあるとは予想外だったのか、一瞬、瞠目すると、すぐにはにかんだ笑顔を見せて嬉しそうだ。僕も空腹を満たせれば、どこの店でも構わなかったのでこの蕎麦屋で昼食を摂ることにする。

 入店すると、ここも繁盛していたが、2名用のテーブル席は空いていた。席に着くとウエハラが間髪入れずに「さくらんぼバナナパフェで」と店員に伝えた。僕にもメニューを選ぶ時間が欲しいと少し業腹ではあったが、入り口で見たのメニューを思い出して「肉そば」と咄嗟に伝えた。

 店員が注文したものをメモして去っていくと、ウエハラが唐突に質問を投げかけてくる。

「君は、失業中の身で、精神科にも通っているのだろう?今日の会場には、熱病にうなされるように脳内がやられている人間ばかりだぞ。今の君には刺激的過ぎると言ってもいい。憂鬱が悪化するかもしれない」

 ウエハラは、僕の顔色など伺わずに、自分が聞きたいと思ったら素直に訪ねる。失業中であり精神を病んでいる現実に引き戻されてしまうが、腫れ物を扱うかのように気を使われるのも居心地が悪いので、これぐらいの態度でいてくれた方が気が楽だ。

「確かに僕は、精神を病んで仕事を失った。だからと言って、自宅周辺だけで過ごすのも気が参ってくるんだ。たまには気分転換に外に出ないとな」

「なるほどね。それは前向きで良い兆候だ。確か睡眠薬の減量に成功したんだっけ。リハビリに、週3くらいでバイトでも初めてみたらどうかな?」

「考えておくよ。まずは主治医に相談かな」

 僕がこのような状態になったのは、激務と失恋が重なったことが理由だが、1年の服薬治療と休養によって大分、体調が整ってきた。再就職もそう遠くないのかもしれない。

 ウエハラとテンポ良く会話をしていると、先に僕の肉そば、その後にウエハラのさくらんぼバナナパフェを店員が持ってきた。

 僕は腹を空かせていたので、冷めるのを待たずに蕎麦をかけこむように食べる。ウエハラは、さくらんぼとバナナを交互に食べながら、パフェを少しずつ崩していく。貴族のように上品な雰囲気を感じたが食べ方が丁寧というよりも、彼が太宰治の『斜陽』を非常に好んでいて、何故か没落貴族の立場に共感するとよく聞かされていたことも理由のひとつだ。

 昼食を終えて、店を出る。肉そばの味も量も申し分なく、僕は大満足だ。パフェしか口にしていないウエハラは大丈夫なのだろうか・・・

「ウエハラ君は、パフェだけで本当に大丈夫?これからが本番だよ。体力がもたないぜ」

「心配無用だ。俺は人一倍、低燃費に出来ている。昨日は興奮して2時間くらいしか眠れなかったが、頭は冴えているし眠気も残っていない。元気に満ち溢れているよ」

 また強がっているのだろうか。それとも素で、調子の良い発言をしているのか。どちらとも判断がつかないが、相変わらず表情が明るいので大丈夫なのだろう。

 飲食エリアから離れて、同じ階にあるイベント会場へ向かう。会場の入り口前では、壁に寄りかかったり、床にしゃがみ込んでいる参加者らしき人達が20〜30人程いる。彼、彼女らのほとんどは、無料配布されているパンフレットを開いて「お目当て」のブースを確認しているようだ。パンフレットがあっても、何が何処にあるのかすぐには確認出来ない。そもそも、自分が「何を買いたいのかもはっきりしない」状態で、会場に足を踏み込むのは、作戦も立てずに戦争に踏み切るようなものだ。戦争を始めるにはまず、斥候を立てて信用できる情報を集める必要がある。その情報を基に、目標達成に向けて兵を動かす作戦を立てるのだ。

 このイベントにとっての斥候(事前に情報を得る)とは何なのか?会場入り口から少し離れたところに矢印と『見本誌コーナー』と書かれたホワイトボードを見つける。矢印の方向に従って進むと、本会場の1/3にも足りないような広めの会議室がある。その室内に入ると、大型の机がいくつも並び、机上には様々なサイズの本が見本として置かれている。1000冊とはいかないまでも、それに近い数の本がありそうだ。また、全ての本には小さな用紙が貼られ、作者名、サークル名、ブースの場所が記入されている。ここまでくると、どのようなイベントなのか予想できると思う。

 そう、この見本誌コーナーに置かれた本は全て、自費出版されたもの。僕がたまの外出と気軽に訪れたイベントには、アマチュア作家から大学のサークル、果てはプロの作家まで参加して、文学で自らを表現している。その名称を『文学フリマ』と言う。

 文学フリマとは何なのか?

 ホームページを参考に説明すると、プロアマ問わず、自らが『文学』と信じる本を出版して、広く一般に手に取ることが出来る展示即売会のことだ。小説、ノンフィクション、エッセイ、詩など、ジャンルを問わず様々な文学作品に触れることが出来る。

 2002年から東京で始まった文学フリマだが、現在では大阪、福岡、札幌など、全国の都市へと広がっている。

 既成の枠にとらわれない、新たな文学の可能性を生み出す場として期待されている。

 最初に、僕とウエハラは、同好の士であることに少し触れたが、同好するものは文学のことだ。ウエハラが最も好きな作家が太宰治で、僕が最も好きな作家が舞城王太郎。僕たちのニックネームは、その小説世界の登場人物や地名から取っている。

 僕とウエハラは、何も言わずに離れ、何か感性の琴線に触れるものはないか見本を確認していくことにする。

 アマチュア作家が多数参加していることもあり、どの同人誌も商業商品と比べると、デザインや紙質に荒さや安っぽさがあるが、文庫本のような無線綴じのものも少なくない。中綴じの同人誌も見つけたが、値段は100円程度なので気軽に購入できる。

 僕が見本誌で気になったのは、女性の性体験を書いた私小説、東京の風景と著者の生活を切り取ったエッセイ、真っ黒の猫が表紙を飾る猫の写真集とエッセイが併録されたものの3冊だった。不思議なことに、黒猫には何かと縁がある。

 以上の3冊を選ぶのに小一時間ほどかかってしまった。ウエハラとは事前に待ち合わせの時間など決めていなかったが、見本誌会場の出入り口に向かうと、ウエハラが若い女性と何か話しているのが見えた。会話に割り込むのを申し訳なく思いながら、ウエハラに声をかけると目を見開いて不味いところでも見られたような表情を見せる。僕が一年前に失恋したことを知っているくせに、わざわざ文学フリマで見せつけてくるとは思わなかった。こんな失恋した男の惨めな気持ちも分からない、非道な奴だとは思っていなかった。業腹だ。怒りに任せて僕はウエハラに迫る。

 「恋人を連れてきやがったのか?見せつけるなよ。今日1日くらい、文学に集中したらどうだ?貴様の性欲は人一倍、醜いんだ。連れの女は口が臭そうだ。一刻も早く、この会場から出て行き、障害者トイレにでも篭って思う存分、その醜い欲を満たすが良いさ。お前らみたいな低俗な猿に、文学を語る資格はない!」

 そんな暴言を脳内で紡いでいたが、性根が野うさぎのように臆病にできている僕は、彼との関係に溝ができないよう、自分の不満を押さえ込んで他愛もない疑問を投げかける。

「ウエハラ君、お待たせしてごめんよ。それにしても、楽しそうに話しているこの子は誰?」

「彼女もSNSで知り合った同好の士さ。偶然、見かけたから声をかけてしまった。彼女は、谷崎潤一郎を全作読破するほどの文学少女だ。『痴人の愛』にちなんで、【ナオミ】と読んでいるよ」

 背の低いナオミは、メガネをかけ、髪型は黒髪ボブカット、人見知りなのか少し俯いているところなど、如何にも文学少女といった雰囲気だ。

 僕から、はじめましてと挨拶すると、彼女は恥ずかしそうに顔を上げるな視線は定まらず、キョロキョロと周りを見渡している。極度の人見知りのようだ。どう言葉を紡いだら良いかと言葉に詰まっていると、ウエハラが助け舟を出してくれる。

「ナオミさん。安心してくれ、彼は一年前に大失恋を経験してから、元恋人を忘れる事ができないでいる。つまり、新しく恋人を作ろうと思うまで、気持ちが切り替わっていない。だから、彼のことはそれほど警戒すべき男ではない。大丈夫だよ。3人で一緒に本会場へ向かおう」

 このウエハラの言葉を聞いて安心したのか、少しだけ笑顔を見せてくれた。笑窪ができて、小動物のような可愛らしさを感じる。彼女に免じて、僕の失恋話を許可もなく話したことは忘れようと思う。

 それにしても、ウエハラの発言によると、男性への警戒心が非常に強いようだ。臆病な性格の女性は、痴漢やストーカーなどの性被害にあいやすいと聞く。彼女も非道い被害に遭い、男性への不信感があるのかもしれない。僕からは、あまり話しかけない方が良さそうだ。

 僕とウエハラが先頭に立ち、後方にナオミが続く布陣で、本会場へ向かう。入り口で、無料のパンフレットを受け取ってから会場に足を踏み入れると、正面、左右、どこを見てもサークルのブースが並んでいて、目当ての同人誌はないかと大勢の一般参加者が会場内を行き交っている。1000以上のブースが展示できる程の広さなので、端にあるブースは豆粒程にも小さくてよく見えない。一体どれほどの文学愛好家が、この会場を訪れるのか。展示できるブースの数から考えても、3000〜4000人は降らないだろう。

 僕たち3人は、それぞれの目的を果たすために、その場で散り散りになって会場を巡っていくことにする。僕は見本誌で目当てをつけていた1冊目「女性の性体験を描いたエッセイ」のブースを探しに、会場の西側へと歩みを進める。

 途中、様々なブースの前を横切るのだが、見本誌では見かけなかった同人誌も数多く販売されているようで、何か僕の趣味に合うものはないかとキョロキョロと頭と視線を振りながら、まるで不審者のような気味の悪い動きで散策していた。こんな情けない姿をあの2人には見せられないと自覚して身を正す。しかし、やはり周囲に何があるのか気になり、行き交う参加者達に目を配らせていると、人混みの合間からあの文学少女の笑窪を見たような気がした。入り口で別れた際、僕とは真逆の方向に進んでいたので気のせいなのだろう。ひとつ酷く気にしていることがある。それは、あの娘の笑窪には、人を嘲笑するような、悪意にも似た印象を何故か持ってしまうということ。一見、無害に見えるほど大人しい雰囲気だが、多少の警戒心を配っても損はないだろう。

 深く深呼吸をして息を整えてから、再度、目的のブースに向かう。パンフレットを見ながら探していたが、ブースの数が多すぎるため見つけるのに苦労する。10分ほど同じ区画を回っていると、やっと小さなブース机上に見慣れた中綴じの同人誌を見つけた。

 少し表情を強張せながら、売り子の女性に声をかける。しかし周囲の雑踏に僕の声は紛れてしまい、彼女の耳には届かなかったようだ。気後れしながら彼女を観察してみると、楚々とした雰囲気というか、何処かの貴族の娘のような上品な佇まいだ。服装を白と黒の衣装で整えていることがより、貴族のような印象を与えるのだろう。髪型は黒髪ストレートのロングで、瞳は二重まぶたで大きめだと思ったが、女性としては平均的なサイズな気もする。また、何処か懐かしさや感傷を覚えてしまうようは雰囲気でもある。

 彼女と目が合った気がしたので、軽くお辞儀をして再び視線を向けるが、彼女の視線は僕に合っているようでいて合っていない。彼女は一体、何に視線を合わせているのだろうかと不安を覚える。目の前にいる僕のことを、ちゃんと認識できているのだろうか。

 僕は、彼女の第一印象に狼狽してブースの前で身動きが取れずにいたが、それを察知してか彼女が、「いらっしゃいませ。どうぞ手に取って読んでみてください」と声をかけてくれた。売り手と客という関係上、当たり前のやり取りではあるが、その細くも力強い声に安心感を得た僕は、机上に並べられた同人誌を手に取って「1冊ください。もしかして、作者さんですか?」と緊張して声を震わせながら言葉を伝える。

 彼女は困ったように笑いながら、自分は作者の友人で売り子として協力しているだけであること、文学フリマも文学自体もよく分からないこと、作者と話したいならあと30分くらいで戻ってくると思うことを簡潔に答えてくれた。

 僕は、彼女が作者ではないか、文学に造詣が深いのではないかと期待していたので、残念に思った。僕の記憶にいる人と彼女を比較してしまったのだろう。意味のない妄想だ。

 彼女から同人誌を受け取ると足早にその場を去り、他2冊のブースにも立ち寄って目当ての同人誌を購入した。

 2時間近く会場内を歩き通していたため、強い疲労感に襲われるようになった。一休みするために、会場外に出て1階にあるコンビニへ向かうとことにする。

 エスカレーターで1階に降り、正面入り口の広場に接しているコンビニでお茶を1本買う。広場の花壇の縁に腰を下ろしてお茶を飲みながら一息ついていると、ビルの入り口からナオミが出てくるのが見えた。表情に、疲労感を滲ませているが、男性の僕でも非常に体力を消費したのだから、小柄の女性であるナオミは僕以上に疲労している筈だ。ナオミは、僕に目を合わせようともしないが、真っ直ぐこちらへ向かって歩みを進めている。僕がいることには気づいているようだが、何か様子がおかしい。

 ナオミは僕の目の前で立ち止まると、眉根を寄せた厳しい目つきで、僕と視線を合わせてきた。そして、小柄な文学少女といった外見からは想像もできない、甲高くて太い大声で、まくしたてられた。

「チョウフさんの影のある表情や雰囲気、ウエハラさんから聞いた失恋話から、あなたのことが気になって少し会場内で後を付けさせてもらいました。ずっとあなたは、会場内を虚ろな目で歩いていて、心ここに在らずといった感じでした。最初に立ち寄ったブースの売り子さんを見て、瞠目されていたので、元彼女さんのことでも思い出しましたか?いつまで過去の恋愛を引きずっているのですか?どれだけ素敵な女性だったか知りませんが、あなたは失恋したその日から未来への歩みを止めてしまっています。いつまでもそんな生き方で、良い訳ありません!私の一方的な考えですが、彼女だってあなたがこんな惨めな姿でいることを良しとしてはいないと思います。何故、ここまで引きずってしまったのでしょうか?思い当たることはありますか?」

 何なのだろう。この娘は。まともな恋愛経験もしてなさそうな処女くさい小娘には理解できないのだろう。人間の男女が織りなす繊細な感情など。哀れな田舎娘だ。それに、夏子のことを少しも知らないくせに、何を知った風な口をきくのか。この女を八つ裂きにしてやりたい衝動が湧いてくる。怒りに任せて、ナオミを責め立てようとしたところ、コンビニの前で缶コーヒーを飲みながら、僕らの様子をウエハラが伺っていることに気づいた。

 僕が衝動的な行動に出たら、仲介しようと考えていたのだろう。ナオミもウエハラがいることを知った上で、僕に先程の発言を投げかけたのか。

 ウエハラは、飲み切った缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、バツが悪そうに僕とナオミのもとへ近づいてきた。人を舐め切ったような一連の行為に対して、顔が熱気するほど頭にきていた僕は、怒気を込めた声でふたりに問いただす。

「最初から見ていたんだな、ウエハラ。悪趣味な野郎だ。僕が、女の子に言い負かされているのを面白がっていやがったんだな。ふざけるなよ」

「それは誤解だよ。チョウフくん。少々、荒っぽいショック療法ではあるが、君のためを思って僕とナオミとで考えて実行したんだ。まあ、今日の君の浮かない様子を見たナオミが、衝動的に一言、言ってやりたいという思いが先行していたが」

 荒っぽいショック療法とは何だ?その詳細を話すよう求めると、何年もひとりで失恋を引きずって、心まで病んだ僕に対して、のんびりと時間の経過による癒しを待つよりも、ひとりの女性から厳しく僕の現状を指摘された方が、気持ちが切り替わるきっかけになるのではないかと考えたようだ。

 失恋のことだけならまだしも、心の病まで抱えた人間を責め立てるなんて、一歩間違えれば自殺することだってあり得る。

 あまりにも危険な行為だと思ったが、ここは素直にウエハラとナオミの気遣いを受け取るのが正解なのだと思う。しかし、やはりナオミの先程の発言にはショックを隠せない。より気が沈んできたし、思い切り泣いてしまいたいくらいに感情が湧いてきて、身体の震えが止まらない。

 僕は、両手に拳を作って、ぐっと湧き上がってくるものを堪えながら、ウエハラとナオミ感謝の言葉を伝えた。

 ウエハラは、またも困ったような苦笑いを見せるが、ナオミは表情に何も変化を見せずに鋭い目つきで僕の方を見ている。最近の若者の感情はなんとも読み辛いものがある。いやそれとも、僕が人の機微を感じ取れないくらい老いてしまっているのか。僕のような人間を気にかけてくれるふたりは、優しい人間と言って良いのかもしれない。

 ふたりとも、目当ての同人誌を手に入れたようなので、さっきのコンビニで2本目のお茶を購入して、再び花壇の縁に3人で座る。言葉少なめに一息をついていたら、夕暮れ時で空に見惚れる。電車が混むから早めに帰路につくことにする。

 帰りのモノレール内でも、ナオミは沈黙を貫いていたが、ウエハラは僕への気遣いから「気分転換に、池袋の水族館のフリーパスを買ったらどうかな?ひ平日の昼間とかにひとりでブラブラと水中の生き物に囲まれていると、何処か別世界に来てしまったような、不思議な感覚を楽しめるよ」と助言をしてくれた。

 水中の生物に興味は持たないが、特に何もすることはないので、試してみても良いのかもしれない。早速、明日は平日なので池袋まで行ってみようと思った。

 ウエハラとは良い友人になれそうだ。ナオミは、いまいち掴み所がなくて波長も合わない気がするが、まだ碌な会話を交わしていないので、これからどのような関係性になるか分からない。また会うことがあるのかもしれない。彼女の意外な一面が見られる機会を楽しみに思いながら、僕達が乗るモノレールは、夕暮れに輝く運河の上を走る。

 往路で車内の揺れを体験していたからか、復路では大してスリルも感じない。

 浜松町駅で降車すると、僕等はそれぞれの自宅へ帰るために、東京に張り巡らされた鉄道路線に乗り換える。

 僕は、ウエハラとナオミと別れて京浜東北線に乗る。座席が空いていたので座り読みかけの文庫本を取り出す。田中英光の「オリンポスの果実」だ。また目が熱くなってきたので、文庫本をしまって眠ることにする。しかし、駅をいくつも通り過ぎてたのに、僕の意識は夢に落ちないみたいだ。

(続)


※続編の『三景 第三景「町田(前編)」』はこちら。

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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