【読書コラム】痴人の愛 - 他者の所有という自己実現の形 執筆者:KJ

こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年10月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は谷崎潤一郎の「痴人の愛 *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。


他者の所有という自己実現の形

さて、早速ですが、この本を読んだ方は主人公の譲治に対してどのような印象を抱いたでしょうか?


正直に言って、僕は「気持ち悪い」という感情を抱いてしまいました。今回は、僕が感じたこの気持ち悪さの根源を深掘りし、そこから思考を展開していきたいと思います。


まず、多くの人にとって、作品で言及される譲治の性癖が目つくかと思います。この性癖を「気持ち悪さ」の要因と考えるのは簡単ですが、僕自身としては、そこにはあまり気持ち悪さを感じませんでした。それは、性癖自体が人それぞれ持っているものであり、特殊な性癖の一つや二つ持っていること自体は、別段特別なこととは思っていないからです。


僕が「気持ち悪い」と感じた箇所をまとめてみて気づいたのは、その「気持ち悪さ」の源泉が「ナオミを所有しようという意思」にあると言うことです。例えば冒頭の下記の文章…


ですから最初の私の計画は、とにかくこの児を引き取って世話をしてやろう。そして望みがありそうなら、大いに教育してやって、自分の妻に貰い受けても差支えない。』(9ページ)


今だったら完全にアウトであろうこの台詞が、当初の譲治のメンタリティを物語っています。そこにあるのはナオミを所有物とみなし、自分の好きなように育て、あわよくば自分の妻にしようという魂胆です。僕が気持ち悪いと感じたのは、まさにこのメンタリティだというわけです。


一応釈明しておきますが、時代の違いは大いに考慮に入れるべきでしょう。あらゆるものが不足し、切実に物を渇望していた大正の時代と、最低限の生活必需品はほぼ満たされてしまった令和の時代では、所有に対する考え方が違って当然です。また、社会のあり方や男女の関係のあり方も今と当時では全く異なるものだったでしょう。


だから、僕の「気持ちが悪い」という感情は、今の環境だからこそ出てくる感情であって、この感情を使って譲治を(そしておそらくは筆者の谷崎を)一方的に糾弾することはフェアではないでしょう。「良い/悪い」の問題ではなく、あくまでも僕個人の感情の問題です。


話が逸れたので本筋に戻します。ここで考えたいのは、「所有」とはそもそもなんなのか?という点です。上で引用した譲治の魂胆が、ナオミの「所有」を示唆するものであることは疑いないと思います。では、その「所有」とはそもそもどのような状態なのだろうか?というのがここでの論点です。


この小説における、ナオミに対する譲治の戦略は「囲い込み」という言葉がしっくりきます。おそらくこの言葉は土地の「囲い込み」に起源を持つと思われ、要するに、その土地は自分のものであり、他人が勝手に立ち入ることを許さない、という意思の表明だと言えるでしょう。


ナオミを自由にしていいのは自分だけであって、他人にはそれを許さない。このような関係が「所有」という関係の本質であり、もっとわかりやすくいうと「排他的な」関係だと言えるでしょう。僕が気持ち悪いと感じたのは、ナオミという「人間」をまるで物かのように捉え、自分の自由にしようとしたことです。


さて、「所有」が排他的な関係を示す言葉であるとしたわけですが、ここで「所有」の持つ象徴的な意味について、もう少し深堀りしたいと思います。ここで引用したいのが、20世紀のドイツの社会心理学・哲学の研究者エーリッヒ・フロムの言葉です。


究極的には、「私〔主体〕はO〔客体〕を持つ」という論述は、私がOを所有することによって私を定義することを表わす。主体は私自身ではなく、私は私がもつものである。私の財産が私自身と同一性を構成している。「私は私である」という論述の底にある考え方は、「私はXを持つがゆえに私である」である。Xは、私が関係するすべての自然界の物や人物に等しく、その関係は私がそれらを支配し、永続的に私のものとする力によって結ばれる。


ちょっとわかりにくい表現ではありますが、その要点は所有物によって自分の存在を定義すると解釈することができます。「所有」とは一つの自己実現の形(自分の存在の証明)であるとも言えるというわけです。


この作品に当てはめて言えば、要するに、譲治はナオミを所有することによって、自分の存在を肯定しようとした、と考えられます。それは以下の文からも見てとれます。


私には妙な虚栄心もありました。と云うのは、「あれがあの女の亭主だと見える」と、評判されて見たいことです。云いかえれば「この女は己の物だぞ。どうだ、ちょっと己の宝物をみてくれ」と大いに自慢してやりたいことです。』(153ページ)


この文から分かるのは、譲治は明らかに「ナオミを所有すること」によって、自分という存在の肯定をしようとしていたことです。


また、これとは逆に、譲治がナオミの周囲への行動に対して、気恥ずしさを感じる描写が所々で見られます。例えば序盤でナオミと2人で鎌倉にいく場面…


ところがいよいよと云う日になって、横須賀行の二等室へ乗り込んだ時から、私たちは一種の気後れに襲われたのです。なぜかと云って、その汽車の中には逗子や鎌倉に出かける夫人や令嬢が沢山乗り合わしていて、ずらりときらびやかな列を作っていましたので、さてその中に割り込んで見ると、私はとにかくナオミの身なりがいかにも見すぼらしく思えたものでした。』(39ページ)


この気後れという気持ちは、ナオミが自身の一部を表す記号であるからこそ生じるものです。自分の「所有物」が周りに比べて至らないがゆえに、それを「所有」する自分までもが気恥ずかしさを覚えるのです。


ここまでの話を簡単にまとめると、物語の序盤において、譲治はナオミを所有することで自己実現をはかろうとした、と解釈できるのではないか、ということです。


近代化・都市化がもたらした個人の尊厳の毀損

ここまでは所有について考えてきたわけですが、なぜそこまで譲治がナオミを「所有」することに拘ったのでしょうか?


この問いは我々にとっても他人事ではありません。他人を「所有」するという概念は現代人にとっては違和感のある表現だと思いますが、「物」を所有することに関する拘りは、現代人にとっても馴染みの深い感情です。


そもそも「所有」という概念は、近代資本主義の特徴だと言えるでしょう。資本主義の基本は私的財産を認めるところにあります(逆に共産主義においては私有財産は基本的に認められません)。「所有」という概念を深掘りするために、近代資本主義の特徴と問題点について振り返って見ます。


近代化を促進したのは何か?その問いの答えは無数にあると思いますが、アダム・スミスの考え方が大きく寄与したことは間違いないでしょう。つまり「分業」と「交換」です。


現代の我々の社会を支えているのはこの二つの概念だと言っても過言ではありません。僕がマクドナルドでハンバーガーを安く、すぐに手に入れることができるのは、野菜を作る農家、牛を育てる牧場、野菜を処理する工場、牛を肉にする屠畜場(精肉工場)、それを運んでくる物流システム、それを調理して提供する店舗など、それぞれの組織がそれぞれの役割に「分業」し、それを共通価値であるお金によって「交換」しているためです。


この分業をせず、自分一人で一からハンバーガーを作る大変さを考えれば、分業というシステムがいかに強力であるかは想像できると思います。野心を持ったひとりの青年が、自分でゼロからトースターを作ろうとしたものの、まともなものにはならなかったという有名な書籍もあるくらいです。


とはいえ、近代以前にも「分業」と「交換」の概念はありました。近代以前と以後で変わったことは何かと言うと、産業の巨大化と標準化です。ようするに、組織がグローバルに展開され、どこでも同じ品質のものが手に入るようになってきたということです。スターバックスの永遠と、ドミノ・ピザの普遍性ですね。


問題は、産業が巨大化したことで、コミュニティサイズが大きくなりすぎたことです。1人の人が認知できる限界は150人程度というのは有名な話ですが、組織の構成員の人数が増えすぎた結果、一人一人を認知できる規模を超えてしまいました。


もう一つの問題は標準化によって、労働の非属人化を促したというものです。大量生産・大量消費の時代に入り、誰がやっても同じ品質のものが出来上がらなければならない、ということが求められるようになりました。


消費者の立場からすると、どの作業員がやっても同じ品質のものが出来上がる、というのは基本中の基本と言えるでしょう。同じものを買って、誰が作ったかによって品質が違うとなれば大問題です。また、会社側としても、製品の品質を特定の従業員に依存するのは、大きな事業リスク要因となります。そのため、属人的な作業を極力減らしていくことは理にかなっていると言えるでしょう。


しかし、これは言い換えれば労働者を交換可能なものにしてしまったとも言えます。誰がやっても同じものができるのであれば、それを自分がやる必然性はない。あくまでも、たまたまそこにいたから自分がそれをやっているだけにすぎない。


自分の仕事にプライドを持っていたプロフェッショナルからすると、この非属人化によってプライドを大きく傷つけられたであろうことは想像に難くありません。


さらに機械化がそれに拍車をかけます。誰にでもできるマニュアル化された仕事は、機械への置き換えが容易であることは言うまでもないでしょう。現代の「AIに仕事を奪われる」論は、産業革命後の「機械に仕事を奪われる」ことを恐れて行われたラッタイト運動と同じ文脈にあります。


ラッダイト運動に始まる「機械に仕事を奪われる」ことに対するパラノイア的恐慌の根源はなんなのか。僕は、それは「あなたは機械(コンピューター)で代用可能です」というメッセージにこそあると思っています。もちろん、生活をするための金を稼ぐことが出来なくなるという実利上の問題もありますが、それ以上に個人の尊厳を阻害されたことによる心理的ダメージに由来する部分が大きいと考えます。


さて、ここまで長々と近代資本主義について論じてきましたが、言いたいことは次の一点に集約されます。つまり産業の巨大化と標準化によって、産業(仕事)の場から「個人」が消えた、ということです。労働の場では個人は文字通りの個人ではなく、役割や組織・部署、スキルに抽象化されます。


現代でも、仕事の場では極めて近い範囲を除けば「営業が…」「本社の連中は…」「○○社の立場は…」「顧客の求めるものは…」などのように、人を大雑把なくくりで考えることが多いはずです。もちろん、その言葉の奥には実在の人間がいるわけですが、そこまで想像を巡らせるのは簡単ではありません。


もちろん、これを「問題点」とすることはフェアではないということは明言したいと思います。ここまで技術が発展し、便利な生活を享受できるのは、「分業」と「交換」の肥大化に伴う「個人」の抽象化に由来するのは間違いないからです。どちらかというと、「問題点」というよりは「副作用」という言い方が適切なのかもしれません。


少し話が逸れたところで、今一度物語に戻りましょう。この小説の中で譲治の仕事・職場についての記載は極めて少ないわけですが、その数少ないシーンの描写に明らかな特徴があります。


「おい、河合君、まあかけ給え」と、ニヤニヤ笑いながら呼び止めたのは、Sと云う男でした。Sはほんのり微醺を帯びて、TやKやHなどと一つのソオファを占領して、そのまん中へ私を無理に取り込めようとするのでした。』(182ページ)


お気づきになったでしょうか?


この文章では、同僚の名前がS、T、K、Hなどのアルファベットで記号的に配置され、そこに個性はありません。これは、ナオミや浜田、熊谷はもちろん、モブである菊子や関などにもきちんと名前が与えられている、譲治のプライベートの人脈とは明らかに趣を異にします。


これはもはや邪推でしかありませんが、この職場の同僚の記号的配置は、近代がもたらした職場における没個性化を象徴しているように思うのです。職場における人間関係は、あくまでも「たまたまそこにいたから」というだけの理由で集まった集団であり、そこにいる人たちに個性はない、そんな意図を感じてしまいます。


さらに、譲治の生い立ちを考えると、それが一層もっともらしく思えてしまいます。田舎領主の息子として育ち、上京してきた譲治は、東京での職場における没個性に苦しんでいたのではないか、そんな風に考えることはできないでしょうか。


譲治の語りによると、実家は田舎ではあるものの、地元ではひとかどの名家であることが示唆されています。そんな名家で育ち、「特別な自分像」を作ってきた譲治だからこそ、都市の職場における「何者でもない自分」が受け入れられなかった、そう考えるのはそこまで突拍子も無い発想ではないと思います。


さて、ここでようやくこの章のはじめの問いに戻ってきます。つまり『なぜ譲治がナオミを「所有」することにこだわったのか?』という問いです。


もう僕の言いたいことは明らかでしょう。


近代がもたらした産業での没個性化によって、仕事を通して自己実現(自分という存在の肯定)をすることができなくなった。その反動としてプライベートな領域で自己実現を求める。その手段がナオミの「所有」だった。これが僕なりの回答です。


そしてこれは譲治に限った話ではなく、日本を含む近代先進国でずっと続いてきた潮流でもあると言えます。


戦後の日本経済は、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機、カラーテレビ・クーラー・自家用車、そしてマイホームと恵まれた結婚相手…そんな果てしない所有欲の連鎖によって牽引されました。近代資本主義が成し遂げてしまった個人の抽象化を、ものを「所有」することによる自己実現が埋め合わせ、それがさらに産業の発展を生み出すドライバーとして機能する…。


改めて考えると、戦後日本経済の構造は、産業が「所有欲」を生み出し、その「所有欲」が産業を生み出すという、「産業と所有欲の共依存関係」だったと言えるのかもしれません。


身体性という最後の拠り所

しかし、ご存知の通り、ナオミを所有することにより自己実現しようと言う譲治の目論見は崩壊します。ナオミは「譲治の所有物である」状況に満足せず、自由奔放に振る舞い、複数の男友達と関係を持つに至ります。ナオミは「人間を所有する」ことの不可能性を体現したと言ってもいいでしょう。


当たり前のことですが、ナオミに限らず、他人を自分の思い通りにすることなどできません。他人もまた自由意志を持った1人の人間である以上、だれかがその感情や行動を自由にコントロールすることができない、とことは言うまでもないでしょう(僕は自分も含めた人間に自由意志があるかどうかに対しては懐疑的ですが、ここではその問題は棚上げします)。


つまり何が言いたいかと言うと、本質的に他人の所有は不可能であり、それによる自己実現もまた不可能であるということです。自由意志を持たない「もの」であれば、それを「所有」することで自己の存在の肯定をすることができますが、同じ構造を「他人」に求めることはできないのです。


そんなことは当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、僕は本当に全ての人がその不可能性を理解しているとは思えません。


パートナーが思い通りに動いてくれないことを非難し合う男女。子どもに理想を追い求め、そこから逸脱することをヒステリックに制限しようとする親。思い通りに動かない部下に対してパワハラによってコントロールしようとする上司。こんな例は世の中に溢れかえっているでしょう。


いずれの場合も、これらの心理の根底にあるのは、理想的な「所有物」によって自分の存在を肯定しようという意思です。所有対象が自分の思い通りに動かないことが許せないのは、それが理想の自分像の否定(自身の存在の否定)に他ならないからではないか、というわけです。


我々は、「他人」はコントロールできないし、それによって自己肯定をしようとするのは不可能である、そんな当たり前の事実をいとも簡単に見落としてしまうのです。だからこそ、「課題の分離」を謳う「嫌われる勇気」(アドラー心理学)が現代日本人に刺さるのです。


ここで話を物語に戻しましょう。では、「所有」の不可能性を痛感し、それによる自己肯定感が失われた譲治が、自己肯定感の最後の逃げ道として選んだのはなんだったのでしょうか?それは「肉欲」です。あまりにも身もふたもない言い方ですが、譲治が絶交後のナオミに求めていたのは、その肉体に他なりません。


もちろん、ナオミの肉体に魅力を感じていたのは当初からのことではあります。しかし、それはあくまでも「所有物」としてのナオミへの欲求であり、終盤に見られるようなナオミの肉体への異常なまでの執着は見られません。


私はしばしば想像の世界で、彼女の全身の衣を剥ぎ取り、その曲線を飽かずに眺め入ることを余儀なくされました』(346ページ)


私とナオミとの間にはガラスの壁が立っていて、どんなに接近したように見えても、実は到底踰えることの出来ない隔たりがある。ウッカリ手出しをしようものなら必ずその壁に突き当たって、いくら懊れても彼女の肌には触れる訳には行かないのです』(348ページ)


これらの表現に見られるのは、ナオミの肉体、およびその肉体との接触への拘りです。


それでは、譲治はなぜ後半になって、ナオミの肉体に対してここまで執着したのでしょうか?


それは、ナオミとの絶交によって譲治が失ったものを考えれば想像できるのではないかと思います。つまり、ナオミの所有の不可能性による、自己証明の喪失です。譲治はナオミという所有物を失ったことで、自己肯定感を大きく傷つけられました。そう考えると、譲治が執着するのは自己証明をもたらしてくれるものに他ならないはずです。


妻の所有という文脈において自己の肯定がなされなかった結果、自分自身の存在を肯定してくれるものはなんなのでしょうか?


それは、人間なら誰でもが持っている肉体ではないか、それが僕の考えです。社会の中にも、自分の所有物の中にも見いだすことができなかった自己という存在の証明。それを自身と不可分な存在である肉体(身体性)に求めた、というわけです。


言うまでもなく、人間の五感は自分自身に対しての紛れも無い確信をもたらします。目の前のナオミの肉体という曲線、肌触り、体温、そして匂いや息使い。物語の後半において執拗に描かれる五感の描写。あらゆるものが文字に、音声に、そして映像に抽象化されてしまった世界の中で、「生」の臨場感を与えてくれるのは他でもない肉体の五感です。


僕は物語の後半に譲治がナオミから抜け出せなかった要因はここにあると考えます。所有の喪失で奪われた自己証明を、ナオミとの感覚的接触という身体性に求めた。それがこの物語の結末である、というわけです。


こうして物語を解釈していくと、この「痴人の愛」という小説は、徹頭徹尾、譲治の自己証明の物語である、と言うことができると思います。前半ではナオミの「所有」によって、後半ではナオミとの「身体的接触」によって、自分という存在を肯定しようとのたうち回る、それがこの小説の本質であると考えられるのではないでしょうか。


近代化が奪った個人の尊厳。これは物語の中の譲治に限らず、当時の人々が薄々抱いていた喪失感なのでしょう。その中で、自分の存在証明を求めて醜くもがく姿を赤裸々に描いた小説だからこそ、多くの人の胸をうったのではないでしょうか。


脱所有の時代

ここから翻って、現代を生きる我々に視点を写して見ましょう。果たして譲治が(そして谷崎が)抱えた自己の存在証明の問題は解決しているのでしょうか?


ここまで読んだ方なら聞くまでもないでしょう。明らかに状況は改善していないどころか、さらに悪化の一途を辿っています。より多くの人が、自分は特別でありたいと求めながら、特別な存在になれない現実に葛藤を抱えています。


繰り返しになりますが、近代は個人を抽象化してしまいました。現代でもその傾向は続きます。


Amazonという仮想市場では、僕という個人は、クレジット番号と、住所と、メールアドレスと、各種文字列のデータの集合にすぎません。Googleでは大量の送受信メールの集まりと、膨大な検索履歴とページクリック履歴の塊です。


比較的現実に近い写真というメディアを扱ったFacebookやInstagramですら、画像ファイルというピクセルデータの集まりでしかありません。


自分の属性や経歴、年齢や性別。そういった、自分を表すアイデンティティと呼ばれる特性は、徹底的にデータ化・数値化され、複雑で特別でありたい自己という存在を、単調な1と0の情報の集合に還元してしまいます。


現代人は自分が自分であることを表明するために、もっとわかりやすく言えば「承認欲求」を満たすために、SNSを駆使します。しかし、それらをいくら集めても、「今、ここ」にいる自分を証明してはくれません。


このように、個人の抽象化の傾向は今でも加速し続けていることは明らかです。一方で、この個人の抽象化のカウンターウェイトとして働いてきた「所有」という概念は限界を迎えているように思います。


経済発展がいかに進んだとしても、人類全てが欲しいものを所有できるほどの資源(エネルギーや食料や土地、水や鉱山資源などなど)はない、という現実はもはや明らかです。だからこそ、持続可能社会という標語がグローバルな舞台で高々と掲げられているわけです。


最近話題のシェアリングエコノミーはその文脈上にあります。その本質は私有財産として持っていながら、有効利用されていない資産の活用です。休日しか車を使わない人と、平日しか使わない人がそれぞれ一つの車を持つより、一つの車を2人でシェアしたほうが資源効率がいいのはいうまでもないでしょう。


シェアリングエコノミーの筆頭であるUberやAirbnb、日本で有名なものならばメルカリもまた、その根本理念は資源の有効活用にあります。つまり、「所有」という概念は資源という観点から見るとひどく効率が悪いのです。


日本は田中角栄の提唱した1億総中流を(一時的に)成し遂げました。しかし、残念ながら「所有」という概念にこだわっている限り、80億総中流は不可能なのです。これが「所有」の概念の限界の一つです。


そして、他人の所有が不可能であることはナオミがこの小説の中で体現した通りです。ナオミのような女性はこの小説が書かれた大正の時代には貴重な存在だったのかもしれませんが、価値観が多様化した現代においては、このような女性は(ナオミほど開放的では無いにせよ)珍しくはありません。


先進国において、増加し続ける離婚率。これは、価値観の多様化に伴って、従来的な結婚の概念、つまり互いが互いを「所有」するという関係の限界を表していると言えるでしょう(実際は男性が女性を所有するという側面が強かったとは思いますが)。


結局のところ、対象が物であれ人であれ、それを「所有」することが難しくなっている、これが現代という時代であると言えるでしょう。


ここまでの話をまとめましょう。


技術の発達に伴う「個人の抽象化」は着実に進み続ける。しかし、そのカウンターウェイトの役割を果たしていた「所有」の概念は限界を迎えつつある。そこから導かれる帰結は、「個人の尊厳」の永続的な喪失です。


前の章で言及した現代日本経済の例でいうならば、共依存関係にあった「個人の抽象化」と「所有」の両輪のうち、「所有」が欠落したために機能不全に陥った…

これが僕の考えです。


だからこそ、現代は生きづらい世の中だと思うのです。世の中の誰もが市民Aとなり、肥大化する自己肯定欲求と、何者でも無い自分という現実の葛藤に悩み、何を糧に生きていけばいいのかわからない…


このような現状において、我々が考えていかなければならない問いはなんなのか。現時点での僕の結論は以下の通りです。


いかにして、「所有」ではないやり方で自己証明を実現するか?


もしかしたらピンと来た方もいるかもしれませんが、これは明らかに唯一の方針ではありません。これと真逆の方向へ突き進むこともまた、一つの選択肢として考えられます。しかし、それはあまり現実的ではないと思うので、今回はそちらの可能性は無視します。


この問いに答えるにあたり、最近台頭している、ある勢力に注目したいと思います。それが「ミニマリスト」と呼ばれる人たちです。僕は「ミニマリスト」は、単に数あるライフスタイルのうちの一つだとは思いません。


「ミニマリスト」という生き方は、明らかに「所有」の概念の非効率性に自覚的な態度です。もはや「所有」によって自己実現することは不可能であると認識した上で、そこから新たな自己実現のやり方を模索する、そんな人たちだと言えます。僕は、この「ミニマリスト」というライフスタイルは一種のパラダイムシフト(価値観の転換)と言っても良いと思っています。


もちろん、これは大きな一歩だとは言え、始まりにすぎません。「断捨離」によって「所有」という概念と訣別し、そこからどうやって前に進んでいくか。それはこれから一人一人が向き合い、考えていかなければならないことなのでしょう。


そこで鍵になるものは何か?


それは終盤に譲治が自己証明として訴えたもの、つまり「身体性」ではないでしょうか。この「身体性」という要素こそ、現代を生きる我々が、この小説から持ち帰れるものなのではないか、そんな風に思うのです。


我々の特性やアイデンティティは数値化され、思考回路の大部分ですらアルゴリズム化・AI化される中、最後に残る「今、ここ」にある肉体は、心臓の鼓動が続く限りはどこまでいっても剥奪されることはありません。テクノロジーに明るい方なら、いくら我々のソフトウェアが失われようと、ハードウェアは奪われることはない、というとピンと来やすいかも知れません。


もちろん、譲治が陥った肉欲や性愛のみが身体性の満たし方ではありませんし、そこに堕落することを肯定するつもりもありません。


譲治は肉欲に溺れつつも事業を「所有」することで、ぎりぎりのところで社会との繋がりを保ち続けました。これはこれで幸福な一生なのかもしれませんが、結局のところ「所有」の対象が変わっただけで、「所有」による自己実現という価値観からは抜け出せてはいません。あたりまえのことではありますが、肉欲は何も生み出しはしないのです。


言うまでもありませんが、社会を維持していていくためには構成員が価値を生み出し続けなければいけません。だからこそ、我々は堕落への誘惑に抵抗し、身体性を満たしながら新たな価値を生み出しつづける方法を探さなければならないのです。


それがどのような形なのか、その姿は僕自身もまだ想像できていません。それでも、個人が抽象化していく世の中だからこそ、まぎれもない「今、ここ」にある五感を研ぎ澄ませ、それを社会的な価値に転換する方法を模索したい。そう感じるのです。


アダム・スミスからミニマリストまで。長かったこのコラムも以下の結論で締めたいと思います。


「所有」ではなく、身体性を通した自己証明を実現しつつ、新たな価値を生み出し続ける方法を模索する必要がある。これが現時点での僕の考える結論です。


結び

今回は谷崎潤一郎の「痴人の愛」を起点としたコラムを書きました。後半は、もはや物語の内容というよりは、そこから現代に生きる私たちが何を学べるのか、という視点からの考察になっていまいました。


正直言って、ここまで長いコラムにする予定はなかったのですが、気がついたら一万字を超える文章になってしまいました。最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。長くなってしまった分、現時点で自分の思考は吐き出し切ったなという感はあります(笑)


今後もこのような文章を書いていくつもりなので、今後ともよろしくお願いします。


それでは、また!


*1 ペ ージ数は全て新潮文庫版のものになります。

谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫「新潮社」、2017)

参考文献

エーリッヒ・フロム『生きるということ』(紀伊国屋書店 1977)

マット・リドレー『繁栄』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫「早川書房」2013)

トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』(新潮文庫「新潮社」2015)

岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社 2013)

デイヴィット・ライアン『監視社会』(青土社 2002)

pha『しないことリスト』(だいわ文庫「大和書房」 2018)

佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない。 -断捨離からミニマリストへ-』(ワニブックス 2015)

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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