こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年8月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は森絵都さんの「カラフル *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。
カラフルな自分という不安
さて、今回コラムを書いていく「カラフル」という作品、これを読んでいるみなさんはどのような感想を抱いたでしょうか。
この物語は自殺をしてしまった真という少年が、ホームステイと称するやり直しを通して世界の良さを再発見するストーリーです。家族や友人、先生など、色々な人との対話をとおして、真っ黒で絶望に満ちていた世界が、様々な色に彩られた世界であることに気づきます。
前向きな終わり方となっており、多くの方が爽やかな読後感を抱いたのではないでしょうか。特に、真に近い年齢でこの本を読んだ方は、その結末に救われる思いがした方も多いと思います。僕自身は、そこまで感情移入はできなかったものの、物語としては非常に優しい話だったと感じました。
しかし、今回はちょっと違った視点から「カラフル」という物語を考えてみたいと思います。注目したいのは、物語後半のひろかの言葉です。
「三日にいちどはエッチしたいけど、一週間にいちどは尼寺に入りたくなるの。十日にいちどは新しい服を買って、二十日にいちどはアクセサリーもほしい。牛肉は毎日食べたいし、ほんとは長生きしたいけど、一日おきに死にたくなるの。ひろか、ほんとにへんじゃない?」
(187ページ *1)
とても印象的な部分なので、心に残った方も多いのではないかと思います。こんなセリフを中学生に語らせる、森絵都さんの小説家としての力量や、鋭い感性には改めて驚かされてしまいます。いずれにせよ、我々が若い時に抱きがちな自分への不安を端的に表しているセリフだと思います。
「自分が何者なのかがわからない」「自分が何がしたいのかわからない」そんな不安や苦悩を抱えた経験がある方は多いでしょう。いわゆる、アイデンティティ・クライシスというやつです。多くの人の抱え、乗り越えてきた苦悩を生々しく描き出しているからこそ、この作品は多くの人に愛されているのでしょう。
そもそも、人間の意思決定とは合理的でもなければ一貫性もありません。人間の意思決定のあり方を研究し、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンが解き明かしたように、人間の意思決定とはひどく適当で、理にかなったものでは全くありません。
ダイエットをして綺麗な体になりたいにも関わらず、誘惑に負けてカロリーの高い食事を食べてしまう。将来の生活のために貯蓄が必要にも関わらず、ネット通販で無駄な浪費をしてしまう。愛する家族がいるにも関わらず、その場の欲望に打ち勝てずに不貞行為に及んでしまう。
このような行為は身近でもありふれており、人間の意思決定の不合理性を表す端的な例だと思います。人間は、自分が本当に望んでいることと逆の行動を、いとも簡単にとってしまうものなのです。
だからこそ、人は悩むのでしょう。「自分は欲望に負けてしまうダメな人間なのではないか?」「自分は本当にしたいのは何なのだろうか?」と。
この物語が示唆しているように、人は単純なイメージで決めつけられるものではなく、綺麗な色も汚い色も内包したひどく複雑なシステムなのです。それは勿論希望でもあるわけですが、カラフルな存在だからこそ、人は時に、自分が何者であるかわからなくなってしまうのです。
自己ハーディングとアイデンティティ
しかし、人はそれでも生きていかなければなリません。不安を抱えたままでは幸福に生きるのは難しいし、冷静な判断を下すこともできません。だから人は、成長するにつれてアイデンティティを規定するのです。
「アイデンティティを規定する」とは、自分の価値観や信念をはっきりさせ、様々な色に彩られた自分に対して、一定の方向付けを行うことだと言えるでしょう。よくわからない感情の集合体から「自分はこういう人間である」と認識し、それによって不安を解消します。自分の価値観を定めることで、何をしたらいいのかわからないという状況を打開し、決断ができるようになるというわけです。
ここでは、このアイデンティティについてもう少し深く考えてみたいと思います。
ここで参照したいのは「自己ハーディング」という人間の心理特性です。「ハーディング(Herding)」という言葉は、群れることや、群れに追従することを意味する英語であり、「自己ハーディング」は文字通り自分自身に追従するという特性を意味します。
もう少しわかりやすく言うと、一回自分が何か行動すると、その判断が適切であると思いこみ、次も同じような行動を繰り返してしまうというものです。缶コーヒーやビール、ミネラルウォーター等の飲み物を買う時、大した理由もなく毎回同じ製品を買ってしまったり、勉強をする際に、自習室やカフェで毎回同じ席に座ったりという行動は、誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。
たとえそこに合理的な理由がなくとも、自分の行動を正しいことと認識し、繰り返すという特性が人間にはあるのです(いわゆる「ブランド」という概念は、人間のこの特性をうまく利用しています)。
人間のこの特性を考慮すると、アイデンティティがどのようなものなのかが見えてきます。言うまでもなく、アイデンティティとは、自身がそれまでに行ってきた無数の行動によって育まれます。そこから導かれる仮説は、自らの行動を正当化するようにアイデンティティが規定されるということです。
すでに前の章で議論している通り、人間の意思決定は合理的でもなければ、一貫性もありません。そんな不合理で、一貫性のない意思決定の中から、なんとか一貫した説明を与えるストーリーを見出し、そのストーリーをアイデンティティと呼んでいるのではないでしょうか。
つまり、我々は価値観に基づいて行動をしているのではなく、自分が為してきた行動が価値観を規定しているのではないか、というのが僕の言いたいことです。
これは、一般的な価値観の認識に反するのかも知れませんし、これが正しいという根拠もありません。ただ、この考え方は、一貫性のない意思決定をしてしまう人間の特性と、一貫性のある価値観に基づいて行動しているようにみえるという現実を、うまく説明しうるのではないかと思うのです。
さらに、こんな興味深い話もあります。それは、人間の脳が自分の記憶を捏造することがあるという事実です。これは人が過去の経歴について嘘をつくというレベルの話ではなく、自分自身ですら捏造した事実に気づいていないというのがポイントです。人は、自分でも無意識のうちに、都合のいい過去を捏造し、都合の悪い過去をなかったことにしてしまいます。
この機能は自身の行動の一貫性を維持するために発達した仕組みである、と考えられないでしょうか。つまり、一貫した価値観があると言う事実と、その場の気分で衝動的に行動してしまうという事実は相反するものであるため、そこに一貫性が確保できるよう記憶を改竄する必要があったのではないか、ということです。
ここまでの話をまとめると以下のようになります。人が何か行動をすると、「自己ハーディング」により、その行動を繰り返す。そして、その繰り返しの行動を正当化するような価値観を捻り出し、その価値観に整合するようにストーリーを作り、過去の記憶を改竄する。こうして自身の価値観(アイデンティティ)を確固たるものとし、自分が何者であるかを規定する…
気づいた方もいるかも知れませんが、就活における自己分析はまさにこの構造です。印象的だった過去の行動から、それを説明できるような価値観を炙り出し、その価値観に見合うように過去のストーリーを微調整する。自己分析とは、自分が何者であるかを企業に語るための方法論だと言えるでしょう。
勿論、僕はそれを批判したり、悪く言うつもりはありません。前述のとおり、自分が何者であるかわからない状態ではなにも行動ができませんし、社会との折り合いをつける上で自分の価値観を表明することは大事なことです。ある意味で、アイデンティティとは、ここでひねり出したストーリーなのでしょう。
ここで言いたいのは、人の行動が価値観・アイデンティティを決めるのではないか、ということです。
アイデンティティの鎖
問題は、行動するために規定されたアイデンティティが、時に人を縛りうるということです。ある一定の価値観を持っていることは、自分の行動も、人や物事を観る目も偏ったものにしてしまいます。
よく言われる例ですが、価値観とは色メガネのようなもので、価値観をもつことによって世界を「ありのまま」に見ることができなくなります。世界を真っ黒なものとしてしか捉えられなかった真は、まさにこの価値観の色メガネに縛られていたと言えるでしょう。
そもそも、前章で議論した通り、自身の価値観・アイデンティティを確立することとは、不合理の選択の積み重ねから、不合理な方法で一貫性を導く試みです。当たり前のことですが、それで導かれる価値観もまた、誤謬や誤解を抱えていることが多いのでしょう。
人間の選択はかなりの部分、気分に左右されます。直前に嫌なことがあれば、どんなに素晴らしいものでも曇って見えてしまうものですし、信頼できる人との共同作業では、どんなに下らないことでも、楽しいことのように感じるものです。そういった経験・行動が我々の価値観を容易に歪めてしまうのです。
また、明らかに荒唐無稽な言説であっても、信用できる人の口から発せられれば素直に信じてしまう、ということはよくあることだと思います。おそらく、オウム真理教の信者たちの大部分も、入信当初は無差別テロを行うなど望んでいなかったのだと思います。しかし、一度信頼してしまった教祖からそれを提案された時、テロは正しい行為であるとみなされ、それを正当化するようにアイデンティティが塗り替えられてしまったのでしょう。
そして、ひとりの人間が経験し、見ることのできる世界が限られていることも、視野狭窄な価値観を植え付ける要因になるでしょう。マリー・アントワネットが貧困に喘ぐ民衆に対して「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったのは有名な話ですが、それはまさにこのケースと言えるでしょう(このセリフはマリー・アントワネット本人の言葉ではなかったという話もありますが、それはこの際重要ではありません)。
我々がマリー・アントワネットを嘲笑するのは簡単ですが、世界各地で紛争が絶えない最中、のほほんと暮らしている日本の私たちも同じようなものなのかも知れません。いずれにしても、アイデンティティは自分の知っている範囲でしか構成することはできません。
このように、我々のアイデンティティは合理的でもなければ、正しくもありません。当たり前のことではありませすが、絶対的に正しく、普遍的な価値観というのは存在しないのです。
しかし、そんな不合理な形であったとしてもアイデンティティは必要です。これもすでに前章で述べたことですが、価値観がなければ不安に苛まれ、価値基準がなければ物事を判断することはできません。
つまり、問題はこういうことです。自分が何者であるかを知り、判断をするためには価値観・アイデンティティが必要ですが、自身の行動によってアイデンティティが規定されるならば、そのアイデンティティは誤謬や誤解を含む可能性が高いということです。
先ほどの色メガネの例を使うならば、完全に透明な色メガネというのは存在しないということです。フラットに、客観的な立場で物事を見ようと思っても、それは不可能であり、我々はアイデンティティの鎖に囚われてると言えるのです。
他者という物語
さて、それでは我々が、この誤解に満ちたアイデンティティから解き放たれるために必要なことは何でしょうか?アイデンティティが自己の経験・行動から構築されていることを考えれば、答えは明らかです。
すなわち、他者の物語に耳を傾けることです。
勿論、その物語を聞くのも自分自身である以上、どうあっても自身の価値観からは逃れられません。どんなに他者の話を聞いても、全く同じ経験を重なられるわけでもないですし、言葉で伝えられることは非常に限られたものでしかないのは事実でしょう。
しかしそれでも、自分とは全く異なる文脈・行動で作られた価値観がどのようなものであるかを聞くことは、世界を大きく広げることになるでしょう。「自分のかけているメガネがどんな色をしているのか?」「どれくらいの厚みを持ったレンズなのか?」を知る手がかりにはなるのではないかと思うのです。
だからこそ、僕は物語を求めるのかもしれません。
小説を読むことは勿論ですが、物語といってもフィクションに限った話ではありません。自伝やビジネス書を読んだり、教養を学ぶこともその一つだと言えるでしょう。自らの知らない世界についての本を読んだり、自分が経験し得ない体験の話に耳を傾けると、自分の思考や価値観がいかに狭い世界にとどまっているかを思い知らされます。
そして何よりも、他者との対話です。目の前にいる他者との、一方向ではない、双方向的なコミュニケーション。何かについて語る中で、互いに価値観を交換しあい、新たな発想がリアルタイムで生まれては消えていく。
本を読み始めてからつくづく思うのは、他者という物語が自分のアイデンティティを作っているということです。読書や対話の中でこそ、自身のアイデンティティを疑い、誤解を解きほぐしていくことができる。
「カラフル」という物語の中で、真は、家族やクラスメイト、先生という他者との会話を通して、世界の彩る色に気づくことができました。これと同じように、他者という物語を通して、自分の狭い世界を少しでもこじ開けることができるのではないかと思うのです。
結び
今回は森絵都さんの「カラフル」を読んで感じたことを書いてみました。児童小説ということで、さらっと読める文体や分量でありながら、なかなか深いところまで踏み込んだ小説だと思います。
これは余談ですが、課題本読書会というのもまた、他者の価値観を知る良い機会なのかも知れません。実際、今回のコラムを書くにあたっても、読書会で話した会話や参加者の方の話にかなり影響を受けていると思います。
いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。
それでは、また!
*1 ページ数は全て文春文庫版のものになります。
森絵都『カラフル』(文春文庫、2007)
参考文献
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー 上』(ハヤカワノンフィクション文庫「早川書房」、2014)
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー 下』(ハヤカワノンフィクション文庫「早川書房」、2014)
ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』(ハヤカワノンフィクション文庫「早川書房」、2013)
マイケル・S.ガザニカ『脳のなかの倫理 – 脳倫理学序説』(紀伊國屋書店、2006)
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