『ダストバニー・イン・マイ・ヘッド(第三回)』著者:へっけ

※前回の『ダストバニー・イン・マイ・ヘッド(第二回)』はこちら


 俺は、夢の世界にいる。

 何故そんなことが分かるのかというと鈴ちゃんのバラバラになった死体が目の前に散乱しているからだ。

 最強のヒーローであるママがいるのだから鈴ちゃんが穴師に殺される訳がない。

 だからこれは夢なのだ。

 それも最低最悪の悪夢だ。

 俺は鈴ちゃんのバラバラになった手足と胴体と首を抱えながら町田駅へ向かう。

 今が何時かも分からないが道中、通行人を一人も見かけることはなかったから町田の住人が全て死に絶えてしまったのかもしれないと思った。

 町田駅で八王子行きの電車に乗って車窓から空を眺めると雲ひとつない青空だというのに太陽はどこにも見当たらない。もし太陽が失われてしまっていたとしたらきっと世界が終わるのも近い。バラバラになった鈴ちゃんにもこの見ていて不安になる青空を見せたいけれど眼球が抉れてしまっているから無理だ。

 八王子駅で中央線大月行きの電車に乗り換えて大月駅で降りると、今度は富士急行線へ乗り換える。上大月、田野倉、禾生と過ぎていき、富士山駅に着いたところでバラバラの鈴ちゃんを抱えながら駅のホームへ降り立つ。

 休憩もろくに取らずに富士山駅を後にしてひたすら南の方角へと突き進んでいく。夢だから体力は無尽蔵で何処までも行けそうな気がする。

 進めば進むほど人工的な建造物は少なくなり大きな森が視界を占めていく。

 ここは、青木ヶ原樹海。

 このとてつもなく広い森が国の天然記念物に指定されているということは、少なくとも町田市よりは価値のある自然と土地ということなのだ。町田市はあと何年したら天然記念物に指定されるのだろう。

 町田市の未来に思いを馳せながらも俺は歩みを止めることはなく背の高い木々が生い茂る森へ足を踏み入れていく。

 植物に足を取られて何度も何度も転んでその度に鈴ちゃんの身体が地面にばら撒かれてしまう。でも俺は鈴ちゃんの小さな肉片ひとつすら絶対に拾い忘れない。

 小一時間は森の中を歩いているといつの間にか森の中は真っ暗闇になっていて前後不覚になる。もうこれ以上進むことはできなさそうだ。

 比較的、植物の少ない空間を見つけるとそこにある地面に素手を使って穴を掘っていく。地面の下は木の根が張っていて中々深く掘ることができない。それでも俺は諦めない。手を傷だらけにしながら指の爪を何枚も剥がしながら穴掘りを継続する。夢だから別に痛みなんかない。数時間、数十時間、数日。一体どれくらいの時間が経過したのだろう。やっと穴は大人一人分の身体が収まるくらいの深さになった。

 まずは鈴ちゃんの左腕を穴の中に置く。次は右腕、その次は左足、右足と続いていく。手足の上に胴体を置き、その上に首を置けば完成だ。細かな肉片はハンバーグみたいに混ぜてひとつの肉片にして俺のズボンのポケットに入れておく。

 改めてバラバラになった鈴ちゃんの姿を見ていると、トイストーリーとかに出てくる人形の玩具みたいで滑稽な感じがする。

 鈴ちゃんの身体が収まった穴を埋めてから行くあてもなく森の中を彷徨しようとしたけれどそれどころではなくなる。

 何故なら、鈴ちゃんを埋めた穴がサラサラの流砂に変化していて穴師の出現に気づいたからだ。

「おい童! 今おめえが穴に埋めた女児は俺達の獲物だ。横取りなんて野犬の真似事しやがって。死なすぞボケ」

 頭上から聞き覚えのある声がこだまする。

「旦那! 女児の身体は頼みます! この童は俺が始末する」

 木の上から飛び降りてきて地面に降り立つラストサムライ。

 鈴ちゃんの身体をバラバラにしたのはこいつだ。

 せめてバラバラになった身体を取り返して葬ろうとしたのに、それすら叶わせてくれない穴師。

 ドガイキチが!

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぶち殺してやる!!!!!!!

「葉! 目を覚まして! 自分を見失うな!」

 ママの声が聞こえる。

 俺は……ママごめん、どうしても穴師を許せないんだ。夢の中とはいえ鈴ちゃんの身体をバラバラにするなんて。そんなことは絶対にやってはいけない、やらせてはいけないことなのだ。

 自分の精神が黒色に塗り潰されていく。

 同時に頭皮がムズムズとしてきた。

 俺は自分が大嫌いなまっくろくろすけへ変貌していっているのを肌で感じていた。影の中、闇の中でしか生きられない唾棄すべき地下の存在。

「鈴ちゃんの身体は俺のものだ!」

 感情の堰を切った。

 頭皮のムズムズは熱さまで持つようになる。

「ダメ! ママが来るまで待って」

 もう遅いよ、ママ。

 俺は、居合の姿勢を取るラストサムライに全速力で向かう。

 そして、頭皮の熱さが最高潮に達した瞬間、視界が真っ暗になり俺の全ての感覚と感情が失われて意識が無情にも遮断されてしまった。

  

  

  

 目が覚めた。

 でも金縛りにあったみたいに身動きが取れない。時間を確認することもできないけれど何となく早朝と言うには早い深夜の時間帯な気がする。

 ついさっきまで何かとても不吉で不快な夢を見ていた気がする。どうしてもその夢の内容を思い出すことができなくてイラつくが、思い出せないことなんて思い出さなくても良いことなのだと自分を納得させて再び微睡みに誘われる。

 

 

 

 次に目を覚ましたのは朝の六時二十四分。六時三十分にセットしていた目覚ましのタイマーを解除する。

「起きたね。今日は大丈夫そう?」

 リビングからママの声が俺の部屋まで聞こえてくる。

 不快な夢を見た割には憂鬱ではない。今日は学校へ行けそうだ。何度もママを悲しませたくない。リビングでママと顔を合わせると俺はすかさず言う。

「大丈夫だよ。今日は行ってくる。鈴ちゃんに防犯ブザーを渡さないといけないし」

 朝食のトーストと茹で卵を平らげた後、部屋に戻って制服に着替える。またリビングへ移動してママから手作り弁当を受け取ってアディダスのキャップをかぶってから家を出る。

 小田急線に乗って学校の最寄駅で降りたところで同じ制服を着た生徒に囲まれているということを変に意識してしまう。別に生徒達が俺を囲もうとしている訳ではないことくらい頭では理解しているが、思春期特有の自意識を発動させて囲まれていると感じてしまうのだった。

 この過剰な自意識から解放されたいと思った。その希求は俺だけが抱えているものではなくて日本人だけが多く悩んでいることでもなくて、世界中に住む人類の多くが抱えているものだと思う。

 例えば「俺は禿頭で身体が貧相で不細工だ」という自意識から生まれた『劣等感』なんてものは早く世界からなくなってしまえと願う。どの国のどの宗教の神様でも良いから人類が愛おしければ、この願いを一日でも早く叶えてくれよと思う。だってそうすれば世界は平和に近づくから。劣等感を持たなくなった人類は劣等感の源である容姿だとか喋り方とか生まれた環境だとかをいじめや笑いのためにイジることはしなくなる。パリピだとか自己肯定感の高い奴らには死んでも分からないだろうが、間接的にでも劣等感によって自殺に追い込まれる人はたくさんいる。

 劣等感は世界の混沌を生み出している。

 だから俺はここ一年くらい毎日かかさず願っているのだけれど、神様は絶対にこの願いを叶えてくれない。

 俺は深くため息を吐いた後アディダスのキャップが飛ばないように手で押さえながら校舎へ向かって走る。

 俺は記憶を失っている。

 今日、休み明けで学校に来た俺を見てクラスメイトがどんな反応をしたのか、それに対して俺がどんな受け答えをしたのか思い出せない。

 でも記憶を失うということは初めてのことじゃない。

 久しぶりの登校で緊張と不安とストレスの上限が振り切れていた俺は自分の思考感覚感情を閉じることで心が壊れてしまわないように自衛したのだ。だから思い出せないのだけれど、唯一覚えていることがある。

 それは下校前の図書室。

 鈴ちゃんと対面している場面から始まる。

「神田さん。うちの母親から渡したいものがあるって」

 図書室内は人がまばらで多少、会話したところで迷惑にはならなそうだ。

「渡したいもの?」

「これなんだけれど」

 ママが特別性だと自慢げに言っていた桃色防犯ブザーを見せる。

「それなら色違いの持ってるからいらない」

 鈴ちゃんは言いながら自分のリュックに付けている青色の防犯ブザーを俺に見せてくる。そんな市販のものでは君を守ることなんて出来ない。

「普通の防犯ブザーだと五十メートル先に危険を知らせるのも難しいよ。うちの母親の防犯ブザーなら特別性だから、何キロメートル離れていても母親の耳に響いて助けに行ける」

  半信半疑なのか怪訝な表情を見せている鈴ちゃん。桃色防犯ブザーを受け取ってどこが普通のものと違うのか観察している。

「三好君のお母さんって何者なの? ……まあ良いや。特別性って言っても色しか違わないじゃん。一回試しに鳴らしてみても良い?」

「えっ、ちょっと待って。……ママに言ってない」

「三好君ってお母さんのこと『ママ』って呼んでるんだ」

「いや、ほら、ママがそう呼べって言うから!」

 なんだか恥ずかしくて思わず大きな声が出てしまう。

「何、焦ってるの? 別に良いじゃん。あとさ何で室内なのに帽子なんかかぶってるの?」

「……それは前、神田さんに軽蔑されたからだよ」

 思っていたことをそのまま伝えて良いのか逡巡したがもう振られてしまっているし今更、嫌われたところで落ち込んだりしないと開き直る。

「えっ、軽蔑ってどういうこと? 分からないんだけど」

「いや俺が告白したときにさ、俺の頭を冷たい目で見ながら断ったじゃん? あのとき禿頭の人とは付き合えないと思ったから振ったんでしょ?」

「それ違う! あそこ綺麗なクリスマスツリーがあったの覚えてる? ちょうど三好君の身体に隠れて見えなくなってたから身体をずらして覗いて見ただけだよ」

「えっ! 嘘でしょ? クリスマツリーなんてあったっけ?」

「あったじゃん! 私、見たかったんだって言ったよ! なんかあの時、三好君いつもよりぼんやりしてる感じでちゃんと話聞いてくれてるのかなとは思ってたけど」

「…………………」

 口を閉じて記憶を辿る。

 あの日、俺は鈴ちゃんに告白することしか考えていなかった。というより他のことを考える余裕なんてなかった。だから周囲の景色だとかクリスマスツリーが目に止まることはなかったのだと思う。

 告白する前の緊張感。

 思い出すだけで脈が早くなってくる。

 でも振った理由が俺の頭のせいではないのだったら何故振られてしまったのだろう。俺の何がいけなっただろう。どうすれば初めての恋が実ったのか知りたい。

「じゃあさ、俺の何がいけなかったのかな?」

「何? 断ったの納得していないの?」

「自分の良くないところを直したいだけ」

「ふーん、別に教えるけど」

 壁にかかっている時計を確認するともうすぐ閉館時間の十六時をまわろうとしている。

 口内にたまっていた唾を飲み込んで俺は鈴ちゃんの言葉を受け止める決意をする。

「あのさあ、まず三好君よく学校来れてるよね。本当、尊敬する。田中君とか島君とかに色々、酷いことされてるじゃない? 私ならとっくに自殺してるよ。でも三好君は自殺しない。たまに休むことはあっても必ず復活して学校にくる。そういうところは格好良いなと思う。だけど、いじめのターゲットになっちゃってる三好君と私が仲良くしていて、それがあいつらにばれちゃったりしたらさ、私まで酷いことされるかもしれないでしょ? そんなの嫌じゃん。分かるでしょ。私も自分の身を守らないといけないの」

 鈴ちゃんはそう言うと壁の時計を一瞥してお菓子とか教科書とかでパンパンになったリュックを背負う。

 何も言葉にできない俺は、何故か少し悲しげな鈴ちゃんの表情を見ていることしかできない。

「ごめんね。また明日、学校にきてね。待ってる」と言い残して鈴ちゃんは図書室から出ていってしまう。

 閉館を知らせるチャイムの音が図書室内に響いている。

 何故だろう。

 また頭がムズムズしてきた。

 一度、頭皮を思い切りかきむしってみると血液が額から頬に流れ落ちていった。

 その後ムズムズの度合いが軽くなったと思いきや頭皮に熱さを感じはじめた。

 世界は理解不能だ。

 俺には全ての事柄が難しくて嫌になる。訳がわからない。

 アディダスのキャップを被り直して図書室を後にする。

 俺は、すぐに家には帰らない。今日中にやっておかなければいけないことがある。それを明日以降に伸ばしたら、きっと一生やらずに終わってしまって、そんな自分を許せなくなる。

 ママに依存してばかりの俺。

 自意識に囚われた俺。

 いじめられても何も抵抗できない俺。

 ママが最強なら、俺は最弱だ。このままでは、俺は誰も守ることができない。

 どんな結果が待っているか分からなくて怖い。だけど何もせずに最弱でいることの方が怖い。

 俺は行かなければならない。

 目的は勝つことではなくて、戦うことなのだ。

 

 

 

 町田駅前のマックでポテトとコカコーラを注文する。レジ前にある席に座って買ったものを口にするけれど味なんてよく分からない。コカコーラの炭酸だけが口内を強く刺激して思わず吐きそうになった。

 全て無理矢理、胃の中に入れて深呼吸を三回繰り返してから二階席へ向かう。あいつらが周りの客が迷惑していることもお構いないしに下品な笑い声を上げている。二階中央あたりにある四人がけのテーブル席に、笑い声と同じくらい下品な顔面を確認する。

 俺は肩を落とす。

 田中と島に加えて、栃尾と梶までいる。流石に四人も同時に相手するなんて無茶なことはできない。形勢が悪過ぎる。踵を返してその場を去ろうとするけれど「それは駄目だ」と自分が口ずさんでいることに気づいて思い直す。

 今日やらないといけないのだ。

 両手の拳を強く握って、俯いていた顔を上げて、俺は口を大きく開けて言う。

「田中! 島! 栃尾! 梶! 俺を見ろ!」

 四人は笑い声を止めて俺の姿を確認すると、下品な顔面をさらに歪めて気持ちの悪い冷笑を見せる。

 その瞬間、俺の恐怖は霧散してマジでこいつら無傷では返さないと決意する。

「うるせーよ禿! マックだぜここ? 頭おかしいじゃねえの」

 リーダー格の島が言うが俺はもう怯まない。

「お前らの下品な笑い声よりマシだろ。口が臭いのも迷惑なんだよ」

「はっ? 何言っちゃってんの? 泣かすぞてめえ」

 お前らに泣かされる訳ねえだろ! 

 俺は背負っていたリュックを奴等に向かって投げると拳を握ったまま距離を詰めていく。

 投げられたリュックに怯み体勢を立て直そうとしている島の顔面に二発、田中と梶の顔面に一発ずつ渾身のストレートを食らわせる。栃尾にも一発お見舞いしようとしたがギリギリのところで避けられてしまう。

 近くの客が一階の店員を呼びに行こうとしているのを横目に確認したと同時に腹に重い一発をくらって食べたばかりのポテトとコカコーラを床にぶち撒ける。

 まだだ! もっと戦っていたい! 栃尾にも一発食らわせてやる!

 腹に続いて顔面や下半身も殴られたり蹴られたりして痛みすら感じなくなって、でも俺も数発は反撃した感触を拳に覚えながら意識が曖昧になっていく。何か夢の中へ迷い込んでしまったような苦しみよりも安堵感に包まれながら俺の曖昧な意識は途絶えてしまう。

 

 

 

 深い眠りから目を覚ます。

 勝負の行方もよく覚えていないけれど、さすがに四人相手では勝つことはできなかったようだ。

 全身に残る痛みと傷と痣が敗北の証。

 きっと無様に負けたのだ。

 今が何時何分かも分からず薄暗い自分の部屋で横になって自由のきかない身体を休息させている。

 俺と同様に身体を動かせないリカオンと目があって、命のない剥製よりは幾分ましかと思う。

 リカオンから天井へと視線を移すと天井の角の辺りに変な染みがあるのを見つける。なんかまるでまっくろくろすけみたいに真っ黒な染みで、見れば見るほど平面な染みのくせに立体感を感じてくる。

 もしかしてと思う。

 サツキとメイが出会ったように実は俺の住む現実の世界にもまっくろくろすけは存在していて、何か俺の家で悪さをしようとしているんじゃないかと心配になってくる。

 俺は俺の家を守りたい。

 全身に走る激痛に耐えながらベッドから立ち上がる。

 勉強机の上に置いてある読書灯を掴んで思い切り天井の染みに向かって投げると読書灯が粉々になってカーペットの上に落ちてくる。

 天井の染みは別に無くなっていなくてただ天井に傷がついただけだ。

 でもさっきまで感じていた染みの立体感は無くなっていて平面のよくある黒い染みって感じだ。

 俺はこの結果がどういうことなのか分からない。

 ママに五千円くらいで買ってもらった読書灯を犠牲にしたことで、邪悪なまっくろくろすけを退治することができて立体感のある染みが普通になったのか、それとも満身創痍の身体が幻覚を起こして染みにあるはずのない立体感を感知してしまったのか。

 どちらの可能性が正しいのか分からないから俺は信じたい方を選ぶ。

 それは前者の可能性だ。

 昨日までは戦っているママを見ていることしかできなかった。でも今は違う。田中と島達と戦うことだってできた。まっくろくろすけを倒すことだってできた。俺は確実に強くなっている。ママの力にもなれて穴師を倒すことに繋がる。

 何故だろう。

 目頭が熱くなっている。

 立っていることができない。

 ベッドに横になると思わず涙が流れてくる。

 そうかそれはそうだよなと自分の本心に気づく。

 俺はきっと、あいつらに勝ちたかったのだ。

 

 翌日、俺はまた学校を休む。

 全身が痛くて動けないからどうにもならないのだ。

 ママがキッチンでご飯を作る音が聞こえる。コン、コン、コンとまな板に包丁が落とされる音。満身創痍の身体でもこの音を聞いているとお腹が空いてくる。

 壁に手をつきながらリビングへ移動すると、キッチンカウンターにママの姿が見える。

 今、ママに何と声をかければ良いのだろう。まず最初に「ごめん、また学校を休んで」というありきたりな言葉が浮かんでくるがなんの捻りもなくてダメな感じがする。

 だけれど……他に言葉が浮かんでこない。

 ママはきっと悲しんでいる。 学校を休んでばかりの俺に対して、こんな卑怯者に育てた覚えはないって思われている。

 でもママ、俺にだって言い分があるのだ。

 学校には俺の居場所はない。 出席したとしても授業が全て終わって家に帰る頃には絶対に俺の文房具とかリュックに付けていた御守りとかがひとつ無くなっている。あと肘の裏とか脇腹辺りに青あざができていることもある。それはものすごく辛くて悲しくて膝から崩れ落ちそうになる。だから俺なりの生きる術として学校で過ごす時間の大部分を記憶しないということを身につけた。常に無意識で、まるで夢遊病者にように学校生活を送っていた。

 ママ、だから……俺は『普通に学校へ行く』というレールから外れた駄目な息子だ。

 俺はママみたいになりたいけれどなれないのだ。

 包丁の音が止んで、ママが俺の存在に気づく。

 エプロンを外してキッチンから出てきたママは、微笑みながらこう言う。

「葉くん、こっちに来て!」

「……何?」

 痛みに耐えながらママの目の前まで歩く。

「君は、世界で一番格好良いよ!!」

 と言いながら俺の目を手で拭ってくる。気づかなかったけれど、何かで濡れていたみたいだ。その何かって言うのは、昨日味わった悔しさとか悲しさを詰め込んだ結晶。

「逆なんだよ。昨日の俺は世界で一番格好悪かった。よく覚えてないけれど、酷い負け方をした。人生の負け組みたいなものだよ」

「それはちょっと違うと思うよ。負けたのは負けたのかもしれないけどさ、葉くんが言う人生って奴とは良い勝負したんじゃない? だって葉くん逃げなかったんだから、戦ったんだから。ママは、全部知ってるからね! 葉くんのママでいられて良かった! とっても誇らしい息子だもん」

「なんでそんなに慰めるのさ? 何が誇らしいの? また学校を休んじゃったんだよ」

「そんなこと気にしているの?学校なんて真面目に行かなくて良いんだよ。国の偉い人たちが勝手に作ったものなんだから。みんながみんな学校という環境に合うわけないじゃない? 大人数が好きな人がいれば、少人数の方が気楽って人だっているんだから。そうでしょ?」

 まだまだ悔しさと悲しさの結晶は流れてくる。ママはキッチンからタオルを持ってきて、もう一度、俺の目を拭う。

「あと何が誇らしいのって葉くん言ったけどさ、それはそうでしょ! 自分を振った女の子を何も言わずに助けようとしたり、性悪同級生を前に逃げなかったりして格好良過ぎだと思う」

 また目もとが濡れてしまうのは悔しさと悲しさのせいなんかじゃない。俺は俺自身の存在が世界に認められたような気がしたから泣いている。

 ママは死ぬ思いで俺のことを産み愛情を込めて育てくれた。俺の世界を作ってくれた。誰かに俺の存在だとか価値観だとかを否定されたとしてもママが肯定してくれているから大丈夫なのだ。

 止まらない涙を自分で拭って、俺は言う。

「俺、次にあいつらと何かあったとしても逃げないし、負けないから」

「強いね! 頑張れよ、三好葉次郎! ママも穴師になんかに絶対に負けない!」

 また頭がムズムズしてきて血が出るほどかきむしってやりたい衝動に駆られるのだけれど、ママの微笑みを見ていたらそんな衝動も不思議と収まってくる。

 たくさん泣いた後はお腹が空く。ママ特性ハヤシオムライスをペロリとたいらげてから部屋に戻ると窓際で陽の光を瞳に反射させるリカオンの剥製へ意識が向く。百獣の王ライオン以上に狩りの成功率が高いハンター。生命のない剥製に何ができるのか分からないけれど、穴師との決戦の時にはどうか役立ってくれよと期待半分、不安半分といった感じだ。

 窓にかかるレースカーテンを開けると陽の光が部屋全体に広がっていく。

 たくさん泣いても天気が良くても俺の気分が晴れきっていないのは、隣町の空の上に重苦しい灰色の雲が浮かんでいるから。その雲が少しずつ町田市に向かって流れて来ているから。

 雲と一緒に奴等も近づいて来ているのを感じる。

 クローゼットからアディダスのキャップ、パーカー、ズボン、靴下を取り出し素早く身につけてその時を待つ。

 脈拍が早くなってきて全身に熱い血液が流れる。

 島と田中にやられた怪我の痛みが引いてきた。

 ママと俺の勝利は目前だ。

 鈴ちゃんは、絶対に死なせない。

(続)

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

0コメント

  • 1000 / 1000