『ダストバニー・イン・マイ・ヘッド(第二回)』著者:へっけ

※前回の『ダストバニー・イン・マイ・ヘッド(第一回)』はこちら


 現在、このクソ治安の悪い町田市は、市政始まって以来の惨事に見舞われている。はっきり言って一九六四年に四名の死者と三十二名の怪我人を出した町田米軍機墜落事故を上回ると俺は思っている。まあその時、俺は生まれていないからその事故のことはよく知らないのだけれど。

 さて現在の惨事とは何かと言うと、町田市少女七人連続殺人事件。

 通称「穴師事件」だ。

 何故こんな通称が付いたかと言うとそのあまりに猟奇的な殺害方法に理由がある。

 三ヶ月前に初めて殺害された女子高生の荒木舞は、玉川学園前駅近くの公園で死体となって通行人に発見された。

 その死体は上半身と下半身が切断されていて、下半身は公園中央に突如としてできた流砂の穴に埋まっていた。両足は逆様に地面から突き出ていてまるで「犬神家の一族」の湖で死体を発見した名場面を彷彿とさせた。みんなも一度は観たことがあるだろう? あれが現実に起きるなんて世界はクレイジーにできている。上半身はというと、公園入り口の門柱に乗せられて右手指で自身の腐りかけた下半身を指差していた。また顔面の硬直した筋肉を無理矢理、針金で伸ばして驚愕の表情を作り出されてもいた。意味不明だ。クソ吐き気がする。

 死因は失血死 。生きながらに上半身と下半身を切断されたと推測された。一体どんな変態がそんな大胆な方法で殺害したのか全く分からないまま、谷田幸子、松沢橋、香椎三世、奥真子、村上詠美、高石硝と次々に荒木舞と同様の方法で殺害されていくのだが、四人目の犠牲者、香椎三世は犯人に襲われながらも逃げることに成功した。

 警察に保護された香椎から、日本刀を持つ総髪の男と両目、両耳が欠損した男が地面から頭部だけを出して追いかけてきたとの証言があったことから、総髪の男が身体を切断する異能力、地面男が流砂の穴を作り出す異能力を持っていることが推察された。

 しかし貴重な穴師からの生存者に不幸が訪れる。

 一度目の襲撃から三日後に香椎の身体が成瀬駅近辺の公園で犬神家の一族を再現しているところを発見される。

 一度標的にしたら逃さない。 

 少女に執拗な執着を見せる二人組の男。

 出くわしたら絶対に殺される。

 町田市民の恐怖は増幅されていく。

 また報道各社は、公園の敷地のど真ん中に流砂の穴が作られていることに注目して「穴師」という呼称を作り出して、猟奇的な劇場型犯罪であることを煽り現在にいたるのだ。

 

 

 

 僕はとてつもない不安を覚えている。

 それは神田鈴のこと。

 彼女は昨日、穴師に襲われたけれどママの活躍で助けることができた。でも香椎三世の例を考えると穴師が鈴ちゃんの身体で犬神家の一族を再現しようとまた襲ってくるかもしれない。

 僕はママに鈴ちゃんを守って欲しいとお願いしようと思うがいくらママが強力な異能力を持っているとしても二十四時間一人の人間を監視することはできない。

 穴師はいつ現れるかも分からない。

 どうすれば鈴ちゃんを守れるのだろう。

 なんで僕には大切な人を守る力がないのだろう。

 頭がムズムズする。

 またこの間みたいに頭皮がかゆくて仕方がないのだ。

 両手で禿頭を思い切り掻きむしってやると爪の間に肉片と血が詰まっていて、痛みよりも汚いという嫌悪感の方を強く感じながら学校へ登校する。

 

 

 

 廊下から下校前の喧騒が聞こえる。

 集中力が切れた俺は単行本を書棚に戻して本の内容を思い返してみる。

 それは、失恋に暮れる男の記憶を辿る私小説で恋愛経験の乏しい俺には共感ができなくて読みづらくて仕方がなかった。それでも小一時間、この本の向き合うことができたのは男の思考や情感、寂しげな雰囲気は俺と似ている気がしたからだ。いつか女の子と付き合ってデートをしてセックスをして別れを経験したらもう一度読んでみたいと思った。本というものは、一度読んで合わないことがあっても時期を変えて再読すると初読のときと全く違う感想や気づきを得ることがある。だから大袈裟に言えばこの世に生まれた全ての本には再読する価値だとか意味が必ずあるのだ。

 その本のタイトルをロルバーンのノートにメモしてから図書室を後にして昇降口を降りる。

 下駄箱で靴を履き替えようとしたらお気に入りのアディダスのスニーカーがなくなっていた。これはきっと紛失したのではなくて「させられた」のだと思う。仕方がないから裸足で帰ることにする。ママみたいな異能力があれば足を汚さないで済むのにと少し残念な気持ちを抱えながら通学路とは一本ずれた道を選んで家路につく。

 

 

 

 小田急線に揺られている。

 車窓から見える景色を眺めている。

 町田市は夕暮れに映える街だと思う。

 東京二十三区と比べたら面白味のない街で治安がクソ悪くて大嫌いなのだけれど自然が生み出す幻想的な景色に出会えるとそんなに悪くない街なのかもと思う。何処の街でも見られる景色かもしれないが、それがこんな最低な街でも見られるということに俺は感動を覚える。足の裏の痛みを耐えながら涙がひとつ頬を流れた。

 

 

 

 家に着いてからすぐに風呂場で汚れた足を洗う。真っ黒に汚れているから中々綺麗にならなくて辛い。アディダスのスニーカーがなくなってしまった。明日からは何を履いて学校に行けば良いのだろう。

 足洗いを三十分ほどかけて終わらせると風呂場を出てリビングにある扇風機を回す。足指が酷くふやけているので早く元の状態に戻るよう風を当てる。風は嫌いだけれど有効活用のできる現象ではある。俺は時と場合によって嫌悪感をコントロールできる理性的な人間なのだ。

 玄関から誰かが帰ってきた音が聞こえてきて、その誰かはリビングに入ってくるなり耳に残る濁声で言う。

「ママはまだ帰ってきてないんだな……こないだ買ったスニーカーはどうした? アディダスのやつ。玄関に見当たらなかったけど」

 パパは無口な男だ。仕事で家にいないことも多いからあまり話したことがない。でもこれまでの経験からたまにこの人鋭いこと言ってくるんだよなと思っていて今も驚かされている。

「汚れたから、さっきお風呂場で洗ったんだよ。俺の部屋で干しているところ」

 なんなんだこの嘘はと思う。

 生乾きの俺のふやけた両足指を一瞥して何も言わずに二階に上がっていくパパ。習慣で、二階の部屋に入るとすぐに部屋で着替えてシャワーを浴びる筈だ。会話は最低限しかしなくても家族だからなんとなく決まった行動は把握している。

 何処となく冷めた関係だからパパと喧嘩したり怒られたりした記憶はほとんどなくて、でも唯一、三年くらい前に怒らせてしまったことがあった。

 それは俺が興味本位でパパの部屋にある秘密を探ろうとしたからだ。

 俺はガキの頃からパパに俺の部屋には絶対に入るなと厳しく言われていて、小学生の頃から人の秘密を興味本位で探る悪癖を発現した俺はそんなことを言われて我慢ができる筈がなかった。

 まずママにパパの部屋の秘密について聞いてみると「ママもほとんど足を踏み入れたことがないの」との答えだった。いや待て「ほとんど」と言うことは「少しは入ったことはあるの?」と聞き返してみると何故か上手く話をはぐらかさせれてしまい、よく分からないまま話が終わってしまう。

 俺は直感する。

 ママはパパの部屋の秘密を知っていると。しかしこれ以上ママに聞いてみたところで答えてくれないだろうからやることはひとつだ。

 三年前パパが出張で家を留守にしていた隙をついて俺は二階の部屋へ入ろうとするが、扉には鍵が閉まっていて部屋内の秘密を探ることは不可能だった。

 俺はピッキングの方法をインターネットで検索して調べるが必要な道具を所持しているだけで『特殊解錠用具の禁止等に関わる法律』に触れて一年以下の懲役、五〇万円以下の罰金に処せられてしまうことが怖くてやめる。

 じゃあ鍵を壊すのはどうかというとこれも『器物損壊罪』に触れてしまう、という以前にパパとママの逆鱗に触れて酷く叱られることになるのでやめる。

 諦めの良い俺は同時期に興味が湧いた同級生の女の子が毎日チャンピオンのスウェットを色違いで着てくる理由について調査することへ熱中していく。調査と言っても普通に女の子に聞いてみたら「うちのお母さんが新百合にあるチャンピオンの店舗で店長をやっていてよく買ってきてくれるから使っているだけ」と平凡というか最もあり得そうなことが答えだった。私の将来の夢はチャンピオンになることで、それには今から毎日チャンピオンのスウェットを月曜日は赤、火曜日はグレー、水曜日は青、木曜日は緑、金曜日は黄色、土曜日は黒、日曜日は白を着るという方法のちょっと変わった祈りなの。葉次郎君には分からないかもしれないけれど、女の子の思いは複雑にできているの。こんなことも分からないんじゃ彼女なんてできないよ、とか言われたら面白いなと想像していたのに現実は平凡だ。

 そんな感じでひとつの興味が消失した頃、何故か僕がパパの部屋に入ろうとしたことが出張から帰ってきたパパにバレてしまう。

 パパは俺と顔を合わせるなり「葉次郎、俺の部屋で何をしようとした? お前は耳と記憶力がないのか? 昔から俺の部屋に入るなと言ってきたよな……父親を舐めるなよ?」と激怒する。激怒と言ってもそれで気が済んだのかすぐに部屋に戻っていって、でも途中階段を上がる足音に怒りが込められていたからまだ気が済んでいないなと思った。パパがこんなに感情を表したことがなかったからあまりの恐怖におしっこを漏らしてしまう。この歳でお漏らしなんて恥ずかしいからパパに怒られたことはママに黙っておくことにした。もうパパの部屋の秘密を探ろうなんてしない。そう心に決めたが頭の片隅には残っていて俺が歳をとってパパも歳をとってパパが死んで葬式が終わったら部屋の秘密を明かしたいと思っていた。

 

 

 

 やっぱり風なんて嫌いだ。いいつまで経っても足指のふやけは良くならない。ネットの情報なんてクソだ。俺は諦めて扇風機の電源を切り部屋へ戻る。

 部屋に入るなりベッドで横になりスマホでツイッターのアプリ開いてタイムラインを確認する。ほとんど惰性で行っている作業だけれどたまに自分で言語化できなかった思いを綴ったツイートが流れてきて俺はそれを反射的にリツイートする。別に自分の力で言語化した訳ではないのにさも自分で表現したことのようにフォロワーに宣伝する。そう宣伝だ。自分はこんな思想や感想、感覚をもっている人間で共感したら仲良くしようねという精神的な結びつきを誘う宣伝。少なくとも俺にとってのリツイートの意味はそんな感じだ。

 スマホ画面上部に表示される時間を見るともう一時間も経っている。日なんかとっくに暮れているというのにママはまだ家に帰らない。こうなることは、なんとなく予想してはいた。

 昨日、穴師との戦いから家に帰った後ママはキャリーバッグを引いて玄関へと向かった。

「明日にしなよ。いつもそうだったじゃん」

 と俺が言ってもママは返事もせずに玄関扉を開けて行ってしまう。家の前には神奈中タクシーが止まっていてママはキャリーバッグを運転手に預けると振り向きもせずに乗車してすぐに出発してしまう。多分、箱根とか湯河原あたりの観光地で熱い湯に浸かって身体を癒しにいくのだろう。これまでも異能力者との戦いが終わった翌日には小旅行に出掛けていたから間違いないと思う。

 今日もしかしたらママは家に帰らずに二泊するのかもしれない。一、二日で快癒する状態ではないだろうから暫くはパパと二人で過ごすことになるなと思う。

 ツイッターを閉じてウィキペディアで町田市から小田急線、下北沢駅から京王井の頭の項目を淡々と読んで飽きるとまたツイッターを開く。ニュースサイトのツイートに穴師事件の記事のリンクが貼られていたけれど俺はその記事も読まずにツイートのリプ欄を確認する。殺人鬼の穴師に対する罵詈雑言に溢れている。スクロールしていくと殺害された少女達への批判も目についた。

「夜中に一人街灯の少ないところでも歩いていたんだろ」

「無用心でいたから殺されただけ。防犯意識を持て」

「そもそも親と学校はどんな教育をしていた?」

「穴師マジ許せねえ。ていうか女の子が可愛かったらもったいないね」

「ブスであることを祈る」

 俺は吐き気を催しながらこう思う。

 こいつらは一般常識と集団心理と世間に狂う排他的な村人なのだと。どうせ陰気で内弁慶で友達が少なくて恋人がいなくて気が弱くて口から汚物の匂いを漂わせる下等な連中だ。酷い家庭環境がこいつらみたいな人間を生んだのかもしれないが害でしかないので早いとこ誰の視界にも入らないところへ消えるか口を噤んで寡黙に生きていろと思う。こいつらが発する毒のせいで殺された女の子とその親にも追い討ちをかけることになる。死んだ人間をまた殺そうとするなんて、穴師にも劣るガイキチだ。

「葉次郎。二階に上がって来い」

 俺が自分の耳を疑ったのはパパが俺を二階に呼ぶことなんてこれまで一度もなかったからだ。部屋に入ろうとした俺を叱りつけたことなんて忘れてしまったのだろうか。俺は息を呑んで階段を上がりパパの部屋の前で立ち止まる。辺りを見渡しても誰もいないからパパは部屋の中できっと待っている。

「入れ」

 一度、深呼吸をしてから扉の取っ手に手をかけて開ける。

 視界に広がる光景に圧倒される。

 今にも動き出しそうな動物の剥製が部屋の中を埋め尽くしていたのだ。

 猪、鹿、猫、犬、兎、羆、牛、狼、狐、狸。割とオーソドックスな動物が十体で、名前が分からない動物の剥製も十体ある。その生気のない四十の瞳を不気味に感じながら部屋の奥にあるデスクでパパが背中を見せて座っている。

「春子から話は聞いた。穴師にでくわしたんだってな。怪我はなかったか?」

 パパは息子の前でもママのことを下の名前で呼ぶ。俺からするとちょっと気恥ずかしくもあるのだけれど、二人が俺の親であることと同時に夫婦であるということも認識できて息子として感慨深くもある。

「大丈夫だよ。でもママが異能を使い過ぎて疲労困憊で……ママが勝てないなんて初めてだ。あいつらマジでヤバいよ」

 パパは回転椅子を回して正面を向く。

「狙われていたのは、葉次郎の知っている女の子か?」

「うん。よく知っている同級生だよ。彼女は怪我していたけどなんとか助けることはできた」

「油断をするな。穴師は必ずまた現れる」

「分かってる。穴師は標的を殺すまで執拗に追いかける。だから俺が殺してやる。でもママだけじゃ多分勝てない」

「俺も加勢してやりたいが、明日からしばらく出張だ……だから良いものをかしてやる」

 パパは全身ベージュと黒の縞模様の犬? みたいな動物の剥製を指差して言う。その動物は顔の大きさと比べると耳があまりにでかいのが特徴的だ。

「リカオンというアフリカに生息する犬科の動物だ。狩りの成功率が非常に高い優秀なハンター。信じろ。きっと役に立つ」

「……ありがとう」

 と言いながら俺は怪訝な表情を隠せない。剥製なんか渡されて何になるというのだろう。穴師と戦ってもいないのにとっくの昔に死んでるじゃん。

「この部屋にいる剥製達に命はないが魂はある。自分の親父を信じろ」

 魂はある。パパはどんな意味を込めて言っているのか分からないけれど、俺はパパを信じたいと思った。こんな風に面と向かって励まされることなんて初めてだ。パパは本気で言っている。俺も本気でパパを信じる。

 パパに促されてリカオンの剥製を両腕で抱える。

「温かいだろ」

 パパの言う通りだ。

 剥製だというのに、間違いなく死んでいる筈なのに、体温を感じる。これがパパの言う魂があるってことなのか? あとリカオンを抱えるまで気づかなかったけれど羆と鹿の剥製の背後に天井まで届きそうな高さの木製の棺が壁に立て掛けられている。エジプトのピラミッドの中にありそうなやつだ。二十体の剥製に気を取られていたけれどその棺の存在感がこの部屋全体の雰囲気を支配していることに気づいた。別に気味が悪い感じはない。むしろ何度か見たり触れたりしたことがあるような奇妙な親近感がわいてくる。 

 その時、鋭い視線を感じて振り向くとパパの表情が若干曇っている。

「さっき俺のことを信じろと言ったが、春子のことも信じてやってくれ。俺よりも葉次郎の信頼を必要としているのは春子の方だ」

「大丈夫。ママは負けない。誰よりも俺がママのことを信じている。パパもママと俺のことを信じて欲しい」

 パパは何も答えずにまた背中を向けてスクに向かうのだけれど、一瞬首肯したようにも見えたからきっとパパもママと俺のことを、家族のことを信じてくれている。 

 俺はリカオンを抱えてパパの部屋から出る。リカオンはとりあえず自分の部屋に置いてみたけれど深夜に動き出して俺の腕を骨ごとバキバキと食っている場面を想像してしまい一睡もできずに朝を迎える。

 今のところ役立つどころか俺を疲弊させているだけなのだけれど大丈夫なのか?

 だけど信じているよ、パパ。

 

 

 

 翌朝パパはスーツに着替えて出張にでかける。玄関で見送るとき「昨日は気づかなかったけれど、葉次郎も、もうすぐなのかもしれないな」と意味深なことを言われる。

 もうすぐって何が? と思うがパパは颯爽と行ってしまう。

 一人きりになった家のリビングで佇みながら昨夜のことを思い出す。

 パパと話していて分かったことがひとつある。

 それはママと同じくパパも異能力を持っていて昨夜は俺と話しながら実際にその異能力を使っていたということ。

 パパの異能力は俺の推測通りだと穴師にも劣らないくらい禍々しくて恐ろしいものだと思う。ママの異能力すら超えているのかもしれない。

 それでも俺にとっての最強のヒーローはパパじゃなくて、ママなのだ。

 

 

 

 今朝は寝不足に加えて気分の落ち込みが激しかったから、学校は休むことにした。一日中、ニュースサイトを見たり、ゲームをしたり、リカオンの瞳を見つめたりして過ごす。何も得るものなんてない無為な時間だとさらに落ち込んでしまうけれど、一日中そんな精神状態でいるのは絶対に嫌だ。だから俺は寝逃げをしてしまう。「逃げ」という言葉の響きがネガティブなイメージを持たせてしまうけれど、寝逃げというものは実はとても優れた防衛手段の一つだと思っている。現実の苦悩から解放されて肉体は癒やされて、たまに楽しい夢を見たりする。だから俺は朝食を九時三十分に食べてから二日振りのウンコを大量にしてお腹をスッキリさせた後、十時十七分にベッドで横になって寝逃げをする。その後、一時間おきくらいに起きては再眠することを繰り返し、気づいたら十七時四十九分になっている。

 太陽が地球の反対側を照らすために沈む。俺はそれを部屋のカーテン越しに眺めていて、もうママが帰ってくる時間だと確信する。

「ただいま葉次郎! ママ復活したよ!」

 ほら帰ってきた。

 俺はママの気配を半径一キロメートルくらいなら察知することができる。気がする。

 玄関でママを迎えると、何故か穴師と戦う以前より肌艶が良くなっていて思わず笑ってしまう。

「若返ってるじゃん。普通、逆でしょ。あんな激しい戦いをしたらふけるって」

「ママは秘密の力を持ってるの。早くまた穴師と戦って若返って二回目の二十代を満喫したいわ」

「それで何処に行っていたの?」

「鶴巻温泉! 疲れが取れて最高!」と女子大生みたいにはしゃぎながら言う。このテンションにはついていけないなと思うけれど、ママが嬉しそうにしていると俺だって元気が出てくる。

「今朝パパ出張に出かけたよ」

「うん、ママにもライン来てた。詳しくは聞いてないけれど、パパと何かあったの?」

「……別になんでもない」

「パパ無愛想だけどさ、いざというときは頼りになる人だから。あとママ復活してサイヤ人みたいに強くなったから今度こそあの変態穴師をやっつける!   一方的な完全勝利でね!」

「…………」

 俺は何も言えない。

 思い切り「頑張って!」って応援したいけれど頭の中のもやもやが躊躇させる。

 ママのことは信じている。

 それは嘘偽りない本当の気持ちだ。

 世界で一番頼もしくて強いママ。困っている人は放っておけないママ。悪を見過ごせないママ。

 でもねママ、今さ、目の奥の方にまだ疲労が残っている感じがするよ。その状態で本当に穴師に勝てるの? この間はラストサムライ一人しかいなかったけれど、次は絶対に二人で襲ってくるよ?

「ママは、穴師より葉のことの方が心配なんだけど。明日は学校に行けそうなの?」

 学校を休んだことは教えていないのに見抜かれた。よくあることだから隠すつもりもなかったけれど。

 ずる休みしたことにちょっと後ろめたさがあって苦笑いをすることしかできない。

「鈴ちゃんって言ったっけ? あの女の子に、これ渡しておいてくれる」

 そう言って渡されたのは何の特徴もない桃色の防犯ブザー。

「何処にでも売ってそうなやつだけれど、これでも特別性だから。どんなに離れていてもこれを鳴らせばママは飛んで駆けつける」

 首肯してそれを受け取る。鈴ちゃんに振られた身としては一言声をかけるだけでも気負ってしまう。しかしそんなことを気にしている場合でもないのだ。

 リビングでママと一緒に夕食を摂った後、部屋に戻るが電灯は点けない。真っ暗闇。今の時間は二十一時二十八分。まだまだ夜はこれからだけれど明日に備えて早めに眠ることにする。

 スマホの電源を消して目覚まし時計を六時三十分にセット。ベッドに横になって目をつむる。

 中々、寝付けない。

 不安と恐怖が俺の脳を冴えさせる。

 やっぱり明日も学校に行きたくないと思う。

 また何か嫌なことを言われたり物を盗られたり叩かれたりするかもしれない。傷つきたくない。

 そんな弱気でいる俺を奮い立たさせるのは皮肉にも穴師という強大な絶対悪の存在だ。

 鈴ちゃんを救うために俺は俺にできることを全力でやっていかねばならない。田中と島のことなんて気にしない!

 いつの間にか微睡みに誘われていた俺は少しずつ意識を失い非現実の世界の住人になる。

 そこで俺は、まっくろくろすけになってしまうのだった。

(続)

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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