吐き出されたタバコの煙が視界を覆う。それは突如下ろされた紗幕のように僕と彼女を遮る。煙の粒子が躍りながら上へと昇っていく。霞んでいた彼女の姿が実像を取り戻し、再び僕の目の前に現れる。黒目がちな彼女の瞳。小さな額の上で真ん中から分けられたやや茶色味がかった長い髪は緩やかにウェーブがかかっていて、右耳は髪を引っ掛けていて露出している。照明できらりと光る右耳は、耳殻の縁に沿って規則的に並んでいるピアスでまるで前衛アートのように見える。じっと見つめる僕に彼女は「ん?」と言った感じで首を傾げタバコを吸い煙を吐く。また下ろされた紗幕の向こうに彼女がいるということを確かめたくて、僕は彼女を抱き寄せる。彼女の華奢な身体にはさっきのセックスの熱がまだ残っていて、肌は薄っすらと汗で湿っている。「ちょっと危ないよ」と彼女はタバコを持つ右手を身体から離し、僕に抱き着かれるままになる。彼女の背中を撫でると汗が空調の風に当たりそこだけひんやりとしている。僕は彼女の右わき腹の後ろ辺りに触れた。そこには皮膚が引き攣り盛り上がった部分がある。それは彼女が十七、八の頃に付き合っていた男から刺された跡だった。
「ちょっと、そこ触られるとくすぐったいから」
「この傷触ると、ああ、いおりさんだなって安心するんですよ」
「なにそれ?」と彼女は微笑む。僕の頭の後ろから腕を回しタバコをひと吸いするとサイドテーブルの灰皿にタバコを押し付けた。
「この傷があったから今の私になれたって言ってましたよね?」
「なれたっていうか、そんな気がするだけ。まあアイツに刺されてなかったら小説なんて書いてなかっただろうし、そしたら良也くんとも会ってなかったわけだし」
刺されて良かったですか?と僕は聞きたくなった。彼女との関係の中で、僕はどうしてもその傷を肯定しなければならない。それは無くても良かった傷、あわよくば刺されなくても良かった傷とは僕には言えない。その傷がなければ僕たちは会う事はなかった。彼女の人生における負の側面を喜ばざるを得ないこの感情を伝えたら彼女は何と答えるだろう。多分彼女は笑って認めてくれるだろう。しかしそれは慈悲深い聖母のような笑みでは決してない。それはたどり着いてしまったひとつの現実として仕方なく受け入れるような、あきらめにも似た笑みに違いない。それは彼女が小説家として居続けるための態度、なのだと僕は思う。
小説家、長谷川いおりを初めて見たのは七年前、短編集『空虚なわたしたち』を出版した際の新宿紀伊國屋書店でのサイン会だった。僕は彼女の作品は全て読んでいて、この日初めてサイン会に参加したのだった。イベントスペースの奥に設けられた白と青の市松模様のパネルの前に彼女は座っていた。次々と並んでいる客たちと軽く雑談をしながら書籍にサインをしていく。しかし僕の何人か前で突如サイン会は一時中断となり、長谷川いおりは担当編集者と思われる女性と別室へと消えていった。数分後再びやってきた担当編集者が彼女の体調が優れないことをアナウンスし、結局サイン会はそのまま終了となった。それから数か月後、何かのインタビューで彼女が出産したことを知った。
その後僕はいくつかのwebマガジンを運営する小さな会社に就職し、主に書籍紹介を行うwebマガジン「ブックブルース」のライターになった。再び彼女との接点が出来たのは二年前、新刊『アサルト』の出版記念トークイベントのレポート記事を依頼された時だった。僕もそのイベント会場に足を運んでいて、イベント後の打ち上げで挨拶を交わした。再び彼女を目の前にした時はまるで長年再会を待ち望んでいた恋人に会うかのように鼓動が高鳴り、名刺を渡す手が震えたのを覚えている。「記事楽しみにしてますね」と言われた時は本当に胸が張り裂けるかと思った。
それは僕が彼女に対して憧れというより、恋愛に近い感情を抱いていたからだった。一読者であった人間がその作者に対し恋愛感情を抱く、ということが果たしてどれほどのことなのか。それはインタビュー記事や新刊宣伝などの度々のメディア露出により彼女の外見に惚れたというわけではない。彼女の生み出した小説を通じ、僕は彼女の考えに触れ、やがてそれが恋愛感情へと変わっていった。それは彼女の小説には彼女自身が、長谷川いおりが色濃く反映されているものが多いからだろう。しかし書かれていること全てが彼女の思考や経験であるということはない。あくまでもフィクションとして立ち上がってきたヴィジョンを僕は彼女と共有し、そして僕は彼女を愛するようになった。
「原稿の締切は大丈夫なんですか?」
「うん、来る前に終わらせてきた。とりあえず少しの間は落ち着けるかな」
「じゃあ今日は泊まれる感じ?」
「じゃなかったら会ってないよ」
彼女は僕の唇をなぞるようにゆっくりと舐め、そのまま舌を入れてきた。彼女の舌にはタバコの苦みが残っていた。僕は彼女をベッドに押し倒し、首筋に舌を這わせる。彼女は僕より六つ年上で三十代半ばだが、太陽を嫌う性格からか彼女の肌は白く、きめ細かい。舌は彼女の乳房の上を滑り、その先端へと向かわせる。つんと起立した乳首は小さく、僕は舌先で乳首を転がしてから甘噛みした。彼女が浮かべる痛痒いような表情が僕は好きだ。前に彼女が長女が生まれた頃、授乳していたら乳首を噛まれたと言っていたのを思い出し、僕はふっと鼻で息が抜けるように笑った。彼女が僕を見る。
「僕もいおりさんの子供だったら毎日こうやって乳首吸えるなって思って」
「そしたらセックス出来ないよ」
「セックスもしたい」
「近親相姦ってこと?」
「それ『アサルト』じゃん」
僕は勃起したペニスを彼女の中へと挿入した。ぐっと根元まで押し込むと彼女は微かに身体を震わせ喘ぎ声を上げた。そのまま奥を何度か突き上げた後ゆっくりと腰を動かす。彼女の小説『アサルト』は主人公の女性が姉の息子、つまり甥と肉体関係を持つ話だった。やがて女性は甥の子供を孕み堕胎することになるが、その後も二人は関係を続け、共に生きていくことを決意するところで物語は終わる。
「ごめん、イキそう」
僕は急いでペニスを彼女の中から抜き、彼女の体液でぬるぬるとした性器を軽くしごいて、彼女のへその上に射精した。脱力しうなだれる僕を彼女は優しく抱きしめてくれる。「私の中って気持ちいいの?」と彼女は冗談っぽく言う。
「うん、子供産んだとは思えない」
「それ関係あるの?よく分かんないけど」
僕はその時彼女の夫のことを思った。彼女が最近いつ夫とセックスしたのか。彼女は「ブックブルース」に月一でエッセイを連載している。その担当はもちろん僕である。そのエッセイで「セックスレスではあるが夫婦仲は比較的良好」と赤裸々に書いていた。確かそれは先々月かそれくらいの掲載分で、なので書かれたのはそのまた少し前ということになる。それ以来ずっと彼女はセックスレスなのだろうか。夫婦なのだから突如求められることはあるはずだ。そして彼女は妻として夫の求めるがままになる。もしかしたら何かと理由をつけて断っているかもしれない。しかし今更そんなことを考えても意味はない。彼女は昔付き合っていた男に刺され、その経験をもとにした小説でデビューして芥川賞を取り、その頃知り合った編集者の男性と結婚し子供を産み、やがて彼女のファンである男が現れ、何度か仕事を一緒にするうちにその男と寝るようになったということだけだ。そのすべてが彼女にとってはフラットなものに過ぎないのだ。夫も子供も僕も、彼女の人生を構成するささやかなパーツのひとつに過ぎない。僕が本当に嫉妬しなければならない相手は、彼女の「小説を書くという行為」そのものなのかもしれない。
彼女はへその上に出された僕の精液をティッシュペーパーで拭い、それを灰皿に載せてライターで火を付けていた。「何してるの?」と聞くと彼女は「大量虐殺」と答えた。ティッシュペーパーの端に着火した炎は淡いオレンジをしながら広がっていく。結局精液の滲み込んだ部分だけは燃えカスとして残った。いやな臭いがした。彼女を見るといつの間にか飽きていて、ベッドに横になって目をつむっていた。
彼女がwebマガジンで連載しているエッセイが書籍化することとなり、その日はそれに向けた装丁の打ち合わせをする日だった。打ち合わせの時に使う彼女お気に入りの店内喫煙可能のカフェバーに入るといつも座る一番奥のテーブル席に彼女の後ろ姿があった。その向かいには男が座っていて、なにやら話をしていた。僕がテーブルに近づき彼女に声をかけると、彼女は振り向いた。
「あ、彼が先ほどお話した夏川くんです。webマガジン「ブックブルース」のライター。良也くん、紹介するね、こちら星光社の文芸担当の沼上さん。今度文芸誌の『星光』で連載することになって、私の担当になったの」
星光社の沼上と言えば僕もその名前は聞いたことがあった。数々の大物作家と仕事する敏腕編集者で、多くのベストセラーを手掛けている。今回彼女が星光社と仕事をすることになったのも、沼上が担当するというのが決め手になったそうだ。
「では私はそろそろ次の打ち合わせがあるので。長谷川さん、原稿期待してます」
そう言って沼上は立ち上がって入り口の方へと歩き出した。沼上が僕の横を通った時会釈をしたが、沼上は僕の姿などまるで見えないかのように通り過ぎていった。沼上にとっては僕みたいな弱小会社のwebマガジンライターなど取るに足らない存在なのだろう。
「なんだか感じ悪い人ですね」
僕はそう言いながら彼女の向かいに座る。ソファーには沼上の座った温もりが残っていて気持ち悪かった。
「そう?確かに愛想は良くないけど、ああ見えてけっこう優しい人よ。仕事のことは厳しいけどね」
今までも彼女の連載する文芸誌の担当編集者とは何かと顔を合わせてきた。やけに彼女と親密そうに話す男性編集者も居たし、年が僕より若い二十代の男性編集者も居た。だけどその時は何も感じなかったことを今の僕は感じている。僕の思い過ごしとしか言いようのないバカげたことだ。それを聞いたら彼女は何を思うだろう。そんなバカげたことなんだから冗談っぽく聞いてみたくなったが、僕はそれでも怖くて聞けなかった。僕の中にはどこか確信めいたものがあったからだ。それでも僕はふと口をついて聞いてしまった。それは冗談でも本気でもない、僕の意志を組み込まない音声として。
「いおりさん、あの男と寝たんですか?」
彼女はぴくっと眉を上げた。そして彼女は無言のまま僕をじっと見つめた。僕は蛇に睨まれた蛙のように身体を硬くした。彼女の黒目がちな瞳の中には捕らえられた囚人のような僕がいた。
「寝たって言ったら、良也くんどうする?」
その言葉を聞いた一瞬のうちに裸の彼女と沼上が抱き合っている姿が浮かんできた。彼女の舌が沼上のゴワゴワとした硬い体毛の生える胸を滑っていく。実際に沼上に胸毛があるかどうかは知らないし知りたくもない。だけどそこには拒否出来ないリアリティがあった。外部から脳内に直接映像を送信された感じだった。沼上は彼女の胸を揉みしだきながら後背位で腰を振り続ける。僕はその二人の前に呆然と突っ立っていて、ふと沼上に犯されている彼女と目が合った。僕は叫びだしそうだった。喘ぎ声を上げながら何かを求めるように僕を見る彼女と、その後ろで僕の存在なんか無視して快楽に耽る沼上が僕の中に圧倒的な存在として認知された。やがて沼上は彼女の膣内に射精し、その時初めて僕の方を向いてニヤリと微笑んだ。
「なんで寝たんですか?」
「それは私の質問の答えになってないよ」
「もうあの男と寝ないでください」
「それも答えになってない」
僕の中には彼女の問いに対する答えはなかった。僕は今どうしたいのか分からなかった。そしてふと彼女に対してどうしたいのかはっきりと意志を示した男がいたことに気づいた。それは彼女を刺した男だった。その男は彼女に「どうする?」と聞かれ明確な殺意を持ち実行に及んだのだ。
彼女はポーチの中からタバコを取り出して火を付けた。テーブルの端にあった灰皿を引き寄せ、灰を落としながら彼女は「新しい連載、私たちのこと書こうと思ってるの」と言った。僕はその「私たち」が誰を指しているのかが分からなかった。彼女をモデルとした夫も子供もいる女性作家が年下のwebマガジンライターと不倫をする話なのか、それとも相手は僕ではなくあの無骨な敏腕編集者なのか。
彼女の吐き出した煙が僕の視界を覆った。いつかこの煙の紗幕は幾重にも重なり合い、向こうにいる彼女の姿はやがて見えなくなるだろう。そして重なり合った紗幕は白い幕へと変化し、僕はそれをただじっと見つめるが、そこには何も映らない。
(了)
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