※前回の『三景 第三景「町田(前編)」』はこちら
第三節「嶺(れい)」
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初めて、夏子と古書店に出かけた日を境に、僕等は休みの日が重なると、いろんな場所へ赴くようになった。互いに緊張しながら、手を繋いだり、時には腕を組んだりして。
新宿の紀伊国屋書店、谷中銀座のアップルパイ、下北沢のライブハウス、町田のリス園。会う度に、夏子への思いは強くなっていく。最初は、言葉で思いを表現することが少なかった夏子も、日常で起きる「美味しい」とか「悲しい」とかの些細な感情を言葉にしてくれるようになった。
引きこもり生活を送っていた頃には想像もしていなかった、ひとりの女の子を中心に捉える僕の生活。中々なれない施設でのフルタイム勤務。労働で得た給料は、全て夏子との交際費に使った。これが幸せの正しい形だと信じていたのだが、僕等が精神的な結び付きを深めていくにつれて、小さな綻びも見られるようになっていく。
夏子は、夏が過ぎ、秋を迎えた後もしばらくはボランティアを続けることができていたのだが、冬の厳しい寒気が訪れると共に、ほとんど施設にくることはなくなった。寒さは、肉体及び精神に多大な負荷をかける。繊細な夏子には、非常に厳しい季節と言えるので、体調が芳しくないのかもしれない。
それでもメールのやり取りや休みの日に一緒に出かけることは続けていたが、ボランティアに来なくなってしまったことにはあえて触れなかった。
しかし、本の話で盛り上がることがあっても、突然、物思いに耽って沈黙する夏子の様子が非常に気がかりだった。僕はその頃には、夏子が鷹橋書店で落とした薬について調べてしまっていたので、どんな疾患を持っているか想像がついていた。
夏子の様子が少しずつ変わっていく。僕はその変化を心配して見ている。何か、嫌なことが、不幸なことが起きてしまうのでないか。そんな言いようのない不安を紛らわすために僕ができることは、夏子を外の世界へ連れていくことだけなのだ。
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真向かいに駐車している軽自動車のダッシュボードに、猫の置物が5体も並んでいる。どれも何故か右腕が前後に揺れて手招きをしている。ぎこちない動きは、生命が宿っていない証拠で不気味にも思える。しかし、猫のフォルムの可愛らしさは揺るがない。
僕と夏子は、24時間5000円のレンタカーを降りると、真向かいの軽自動車を横目に歩きながら、園内へと足を踏み入れる。今日、僕等が来ているのは、夏子が一度は行ってみたいと言っていた『横須賀しょうぶ園』という市立公園だ。名物のハナショウブの花盛りは5〜6月であるため年の瀬の今では季節外れだが、その他にもバラやしゃくなげの庭園、スイレン池などがあるため、一年を通して草花を鑑賞することができる。
空は、重い灰色の雲覆われていて、今にも雨が降り出しそうだが、天気予報によると曇りのままなんとか保つらしい。
夏子も僕も初めて訪れたため、無料のパンフレットを片手に園内を散策する。ハナショウブが見れないことは残念なのだが、黄色い花びらを綺麗に咲かせるロウバイの花が見れたことは幸運だった。最近、物思いに耽りがちな夏子も久しぶりに自然な笑顔を見せてくれた。
休憩がてら丘の上にある東屋により、団子と茶のセットを注文する。寒さが厳しいから余計に茶の温かさが身体にしみる。団子の餡も甘過ぎず丁度良い塩梅だ。
しかし、夏子は団子を食べながらもまた浮かない顔をしている。今の精神状態では、草花の鑑賞も思う存分、楽しめていないようで『可哀想』だと思ってしまった。今日、僕にできることは何なのだろう。夏子には今、何が必要なのだろう。
東屋での休憩を終えた僕等は、手を繋ぎながら再び園内の散策をする。夏子のことで頭がいっぱいな僕は、再びロウバイの花を見ても、立ち止まる気にならなかった。しかし夏子は僕とは違う。ロウバイの前で立ち止まり、じっと黄色い花びらをまた見つめている。先程、見せた自然な笑みとは違う、鋭い目つき。それに僕は、恐怖にも似た感情を持つのだが、夏子の愛らしさは少しも変わらない。
日が暮れるとと共に肌寒くもなってきた。まだ家路につくには早い時刻だが、夏子の体調が気がかりなので、ふたりで草花の写真を撮りながら駐車場に戻ることした。レンタカーに乗車する頃には、日は完全にその身を隠していた。
国道16号を、町田方面に向かって進む。平日ということもあり混み具合はそれほどでもない。ルームミラーを傾けて、助手席に座る夏子の顔色を伺うが、目つきは鋭いままだ。僕は、唐突に最近の芥川賞作品の傾向について思うところを話したのだが、夏子の反応は芳しくない。何を話題にすれば、もう一度、夏子の笑顔が見れるのかと考えを巡らせるが答えは出てこない。気不味い空気が車内を満たす中、ラブホテルを横目に横浜町田インターチェンジ過ぎたところで夏子が「家に来て」と小さな声で言った。僕は突然のその提案に戸惑いどう返答したら良いか迷ったが、拒否する理由もなかったので首肯する。少し夏子の表情がゆるんだように見えたがすぐに真っ直ぐ正面を向いて、夏子の家がある横浜線のある駅の方面へ向かうことにした。
3
その駅は、成瀬駅からほど近いところにあり、僕も時々利用することがある。駅前はあまり栄えていないが、ここ2〜3年でファミリーレストランやカフェ店が続け様に開店して、本格的な街づくりに着手し始めている。
駅近のコインパーキングにレンタカーを停めると、夏子は何も言わずに歩みを進める。僕は、その後を付いていくのだが、夏子の向かう方角には新築に見える高層マンションがある。まさか、この家賃の高そうなところに住んでいるのか。
夏子は、上流階級の生まれだったのかと、中流と下流階級の狭間に位置する僕は身がすくんでしまう。夏子は迷いもなく、高層マンションのオートロックを開けるとエレベーターに乗って13階で降りた。1つのフロアに20〜30ほどの部屋があるようだが、夏子は奥から3つ目の部屋に鍵を差し込み扉を開ける。
夏子が「家に来て」と言っていたため予想はしていたが、家族は皆、不在のようだ。家族構成は知らないが、勝手な印象としてはひとり親でひとりっ子。夏子が、「普通」の家族と和気あいあいと生活している姿が想像がつかない。いや想像がつかないこともあるが、僕のために夏子には不幸な生活を送っていて欲しいと思う。
薄暗い廊下を進むと突き当たりに広いリビングがある。ヨーロッパ風の家具に彩られているが、上流階級のモデルのような感じで味気ない。
リビングの奥には、襖が4枚並んでいて和室に繋がっているようだ。夏子は、その襖を開けると僕を手招きして誘う。何だろう。今の夏子の瞳は。見知らぬ人間に、酷く怯えている野良猫のような感じだ。それは恐怖を感じているということだ。
夏子は、襖の向こうへ姿を消す、僕は追って和室の中に入る。何か祖父母の家に来たような、懐かしい心地になる。小さな電灯しか点けていないため、室内の様子がよく分からないが、和室は10畳くらいの広さがあり、壁沿いにタンスやクローゼットが並ぶ中、本棚や音楽プレーヤーなども置かれているようだ。特に本棚は高さ2メートルくらいのものが複数あり、1000冊くらいは容易く収納できそうだ。かつて夏子が言っていた通り、有名な純文学作家の本が多いが、多少、現代作家の探偵、ファンタジー小説などのエンタメ要素のある本も確認できる。
部屋の奥の方に視線を移すと、ベランダに出れる窓があり夏子が外を眺めているのか佇んでいる。また、その手前の壁に仏壇の様なものがある。「様な」と言い表したのは、その大きさが通常の仏壇の半分もないくらい小型なものであったからだ。仏壇特有の厳かな印象も半減して、どこか滑稽な印象すらある。
その小さな仏壇には、これもまた小型の分骨袋が置かれている。中には勿論、骨壷が入っているのだろうが、例えそれが子供のものであったとしても、この中に収まりきるとは到底思えない。そうなると、飼っていたペットのものか、またもうひとつ別の可能性も考えたのだが、そうであって欲しくないと思った。何故なら、それが真実であるならば夏子が深い悲しみを抱えている理由になってしまう。あまりにも悲しい真実だ。僕は、そこまでのものは望んでいないのだ。
仏壇から夏子に視線を移すが、窓から僅かに漏れる月明かりだけでは、その表情は伺え知れない。どう声をかけたら良いか逡巡していると、微かに排泄臭が鼻腔を刺激するような感じがした。しかし新築の高層マンションの和室内に、トイレがある訳がない。一体、何の臭いなのだろうと怪訝に思っていると、夏子が突然駆け寄ってきて僕に抱きついた。
僕は急な状況の変化と夏子の柔らかい感触に驚きを隠せない。自分は今、一体どうするべきなのかと逡巡する。夏子の背中に手を回して抱き寄せることにした。すると夏子は、瞳を潤ませながら、涙声にならないように感情を抑えて言った。
「あなたなら、この仏壇の意味が分かるよね。とても聡明な人だから。嫌だな。酷い女だと思う。私って」瞳から涙がこぼれた。
僕は、夏子の言っている言葉を全て理解した。仏壇にある骨壷の中身は、先程、頭をよぎった望まない可能性の方が正解だったのだ。夏子にとって、絶対に知られたくないことの筈だ。どれほどの期間、誰にも言えないという孤独に苛まれていたのだろう。身を引き裂かれるような苦痛。精神を病むことは、当然の帰結と言える。そこまで分かったら僕がしなければいけないことは、夏子をどう癒すかだ。でも僕にできることなんて、相変わらずで、夏子が行きたい場所に連れて行くことぐらい。それって、本当に夏子が望んでいることなのか。癒されている?僕がひとりで楽しんでいるだけなんじゃないか?
「しょうぶ園に連れて行ってくれて、ありがとう。ずっと昔から行きたかったんだ。幸せだったな。今度は、花が咲く初夏の頃に行こうね。」
癒されているのは、救われているのは僕の方だった。生きることに縋れているのは、僕だ。
夏子に、しょうぶの花を見せるために、僕等の世界をこれからもずっと広くするために、いろんなところに出かけよう。
僕は、夏子を抱きしめる力を思わず強めてしまう。夏子は「痛いよ」と泣きながら口を押さえて笑っている。僕もつられて笑うのだが、何故だか涙が止まらない。でも夏子の頭に顎を乗せて顔を見せないようにしたから、泣いていることはバレていない筈だ。
僕等の泣いたり笑ったりする声はしばらく室内に響いていたけれど、誰かに見られたら不気味に思われるのだろうけど、少なくとも僕にとってはかけがえのない時間だった。夏子も同じ気持ちだったら良いなと思う。一緒に深呼吸をして息を整えると、その姿勢のまま、そっと唇を交える。互いに頬を染めながら、2回、3回と繰り返す。せっかく整えた息がまた乱れてくる。
僕等はその場で横になり、夏子の上着とブラジャーを外す。その平均的なサイズの乳房が姿を現わす。僕の性器は勃起をしきっている。自分も衣服を脱ごうとYシャツのボタンを外していたら、月明かりで照らされる夏子の表情が強張っている。
僕は思う。自分は途轍もないほどの馬鹿だったと。夏子はさっきなんて言っていた?「この仏壇の意味が分かるよね」「とても聡明な人だから」。ここまで言葉にしてもらっておいて、夏子が何に恐怖するのか気づけないなんて、人間として生まれてきた意味がないと思った。でもこのまま落ち込んでいても夏子のためにならないので、僕は自分の顔面を思い切り殴る。2発目は、もっと力を込める。左の鼻穴から鼻血が出てきて、唇も切って口内は血だらけだ。今の一発を罰として受け取り、頭を切り替える。
僕の突然の自傷行為に、夏子は瞠目している。ごめん、驚かせて。どうしても自分のことが許せなくて、暴力的な行為に出てしまった。怪我は大丈夫かと夏子は気にかけてくれるが、大した怪我ではないと答える。
夏子に上着とブラジャーを着てもらうと、布団を敷いて一緒に眠ることにする。スマホで時間を確認すると、いつのまにかもう日付が変わっていた。
布団を頭からかぶって眠ろうとするが、中々寝付けない。夏子も何度も寝返りをうっているので眠れないようだ。この状態のまま、時間は刻々と過ぎていき、気づいたら部屋の奥にある窓から、朝焼けの薄い明かりが射し込んできていた。
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スマホを確認すると、朝の6時を少し回ったくらいだ。布団から上半身だけ起こして、しばらく放心していたら、隣に夏子がいないことに気づいた。夏子が起き出した時に目を覚まさなかった僕は、少しは眠れたのだと思う。しかし、夏子は一体どこに行ったのだろう。尿意を感じていたので、トイレに行きがてら夏子を探そうと隣のリビングに出ると早速、見つけることができた。
夏子は、何かの作業に取り組んでいるようだ。リビング中央にある大型のソファに隠れて見えにくいが、大きめの洗い桶のようなものに小さいシャベルを何度も突っ込んでいる。何をしているのか確認しようと近づいてみると、すぐにその作業の意味が理解できた。
猫用のトイレを清掃していたのだ。昨夜の排泄臭は、猫のものだったのかと納得したが、その猫を一度も見かけていないことが気にかかる。最近めっきり視力が落ちたので、目を細めながら周囲を確認してみるが、リビング内にはいないようだ。猫は、警戒心の強い生き物と聞く。何処か物陰に身を隠して、外部者の僕に不審な様子がないか観察しているのかもしれない。
トイレの清掃を終えた夏子が「嶺ならこっちだよ」と言って、リビングから廊下に出てすぐ左手にある部屋に入る。僕も夏子に付いて部屋に入ると、そこは5畳くらいの洋室で、床には猫用の餌や水を入れた皿、奥の方にはキャットタワーが置かれていた。
どうやら猫用の部屋として使用しているようだが、部屋を見渡しても、ここの主は見当たらない。一体、何処に隠れているのかと首を傾げていると、夏子が入り口の手前にあるクローゼットを静かに開けた。まるで慈愛に満ちた司祭のように夏子が微笑むのは、その中に愛猫がいたからだ。
その猫は、全身漆黒の豊かな毛に包まれていて、鋭敏な顔つきが気高い雰囲気を醸し出しているのだが、病気を抱えているのか、それとも高齢のためか下半身にオムツを履いている。また、どうやら眠っていたようで、非常に柔らかそうなクッションの上から寝ぼけ眼で夏子と僕の様子を見ている。
夏子が、猫撫で声で体調は大丈夫か尋ねると、黒猫はか細い鳴き声で答える。「嶺、オムツ変えようね」と言いながら、夏子は黒猫を抱えてリビングのトイレまで連れていく。オムツを替えて、部屋に戻ってくると、夏子は続けて餌や水の入れ替えをしたり、シリンジ(猫犬用の薬を経口摂取させる道具)にぬるま湯で溶かした薬を入れて、黒猫に薬を飲ませている。この一連の流れの中、夏子は笑顔を絶やすことなく、愛猫へ絶え間ない愛情を注いでいることが分かる。
それを黙って見ていた僕は、これまでの人生で経験したことのない深い悲しみと絶望の中にいた。それは駄目だよな、夏子。
僕等は、付き合うようになってから色々なところへ出かけた。夏子は、気持ちを言葉にすることが苦手だ。その分、表情や仕草による感情表現が豊かで、僕への信頼感や愛情を感じ取ることができた。
しかし、今、目の前で見た猫への愛情表現は、僕に対するそれとは比べ物にならない程、夏子の優しさ、慈しみの気持ちが込められていた。僕は、正直に言って嫌だと思った。弱り切っていつ死ぬかも分からない動物の何が良いのだろう。この猫にこれからできることなんて、夏子に無用な喪失感を与えることだけなのだ。そんなことに、どんな意味を見出せると言うのか。
僕は、猫よりも長生きする。あと50〜60年くらいは死なないのだ。その間、夏子が寂しい思いをしていたらすぐに駆けつけるし、またしょうぶ園へ連れて行くことだってできる。美味しいものを食べたり、時には悲しみを共有したりすることもできる。
僕の方が「してあげられる」ことが多い。だから、夏子の愛情が僕よりも猫に捧げられていることは、脳を揺さぶられる程の衝撃だった。ちょっと許容できないなと思った。
僕は、精神的な揺らぎに持ち堪えるために、ある妙案を思いつく。しかし、その時の僕はまだ正気と狂気の境目を行ったり来たりしていて、その妙案の実行を踏み止まることができた。夏子の気持ちを慮ると、少々、残酷な内容だったからだ。
この日の出来事は、僕の精神を大きく蝕むきっかけになった。これまで、言いようのない不安に包まれながらも、表面上は上手くいっていた夏子と僕の関係に、暗い影が落とされた。
僕は動揺を隠せずに、用事ができたと言って足早にマンションを出て行く。レンタカーを返す時間にまだ余裕があったので、帰路の途中、新横浜のホームセンターでサバイバルナイフと荷造り紐を購入する。その近くのマクドナルドで朝食を摂ってから、再びレンタカーに乗り、車両を返却しにレンタカー店へ向かう。さっきまで天気が良かったのだが、急に空が灰色に染まり、小雨がフロントガラスを打つ。僕の脳内は、不安に占められていたけれど、何故か少しだけ晴れた感じがした。
第四節「トゥー・トゥー・トゥー」
1
1990年代後半、旧ソ連の構成国であった東欧のある国で、非常に奇妙で、猟奇的な殺人事件が起きた。
事件現場となった村は、鉄道も通らず、人口は1000人にも満たない小さな集落だ。周囲を森林で囲まれて、草原が広がる自然豊かなところで、村民達はその自然を資源にして主に牧畜で生計を立てていた。
この村外れで、祖母と一緒に生活を送っていた青年ステファン・ハンセンは、8年もの間、片思いをしていた。それは、彼にとって初めての恋心だった。
しかし、この年に20才を迎えるステファンは、自分の容姿が優れないことを強く自覚していた。ノイローゼに陥り、希死念慮に襲われるほどに。何故なら、10代前半から現在にかけて、村の娘達に散々、容姿を弄られ、時にはお前の顔にそっくりだと、アフリカの一部に生息する「ウマヅラコウモリ」の写真を家のポストに投函されたこともあった。
ステファンは、怒っていた。自分を馬鹿にする娘達に対して。奴らは、悪魔だ。俺から全ての自信を奪って、精神の不調をもたらし、不登校、引きこもりの生活を強いられた。そんな悪魔は、滅ぼさなければいけないと思った。例え、俺が忍び耐えても他の誰かを不幸にする危険もある。奴らを一匹残らず殺す。殺す時には、執拗に顔面を損傷させて、死ぬ前に鏡の前に立たせてやる。お前の方が顔を心もずっと醜いんだぜって言ってやる。人間の言葉は、人間を本当の悪魔へと変貌させることができるのだ。
ステファンの住む村には、牧畜だけではなく狩猟も重要な産業のひとつになっていた。豊かな自然は、多くの動物達の営みに繋がる。狩猟に必要な、猟銃やナイフ等の武器は、村内の鉄砲火薬店で購入することができた。銃規制のゆるい国であったため、購入方法は、使用目的を決められた文書に書いて申し込むだけだった。
ステファンは、猟銃1丁、銃弾300発、サバイバルナイフ2本を容易く購入した。本当は、小型の拳銃も欲しかったのだが、貯めていた祖母からのお小遣い一年分では、これだけでも精一杯の金額だった。
手に入れた武器を家の屋根裏に隠して、部屋に篭って悪魔達を殺す計画を立てることに着手した。部屋から一歩も出ない生活を2年ほど送っていたので、一緒に住む祖母からは何も疑われずに順調に計画は構築されていった。
それから2ヶ月ほどが経過して、いよいよ計画の完成に差し迫った頃、ステファンは夕暮れを背景とした森に入っていく。持っているものは、猟銃とランタン、2日分の食料。ランタンの灯りに照らされたステファンの表情は、奇妙にも希望に満ち溢れていた。大量殺人を計画している狂人には、とてもではないが見えない明るい表情だ。
猪によるものなのか、獣道見つけて迷いなく進むステファン。およそ3kmほどは歩いただろうか。木々が少なくなり、広大な森林の中にぽつりと空いた空間。空気が湿っぽい。奥の方に、池があるのかもしれない。
ステファンは、空間の中央にある切り株に腰掛けて、ランタンを地面に置く。猟銃にゆっくりと弾を込めていく。切り株の上に立って、銃口を空に向ける。夕暮れから夜に切り替わり、空には無数の星が輝いている。祖母が毎朝リビングで流す、ルイアームストロングの「この素晴らしき世界」が聴こえる気がする。毎日聴かされたことで、俺の耳は狂ってしまったのか。でも、なんて心地よいのだろう。俺は今、これまでの人生で最も心穏やかでいるのだと思う。俺のことを辱めた女共はいない、聴こえるのはささやかな風の音、その風に吹かれて草木が揺れる音、野鳥の鳴き声。脳も身体も魂も、森の暗闇に溶けていく。全ての意識から、感覚から、そして苦悩から解放されたステファンは、銃口を空に向けたまま引き金をひいた。地上と空をつんざく銃声。何故かステファンは、涙を流していた。猟銃をゆっくり下ろすと、この森の中にぽっかりと空いた空間にもうひとりの人間がいることに気づく。奥の水気のあるところから、じっと観察されている気がする。猟銃を切り株に立て掛けて、視線の先に向かっていくと、そこには何の感情も持たない無機質な表情で、若い女が佇んでいる。ステファンは彼女の名が、メアリー・ラローリーということを知っていた。
ステファンは、愛していた。感情が欠落している彼女のことを。何故なら8年前の親戚の葬式で初めて言葉を交わしたとき、ウマヅラコウモリにそっくりな俺の顔を見て「頑張り屋さんの顔つきね。あなたは、村の娘達に辱められても強く生きる人。あなたは、おばあちゃん思いの素敵な人。あなたと一緒にいれたら、こんな痰壷みたいな村の中でも幸福に生きていけそうな気がするの」と表情と同じく無機質で、女性としては低い声で言う。
その瞬間、ステファンはメアリーを一生かけて愛することを決めた。しかし、根が極端な恥ずかしがり屋にできている彼は、8年もの間、彼女に思いを伝えることができないでいた。
だから自分が大罪を犯す前に、森林で狩猟生活を送るメアリーに最後の言葉を交わそうと思った。
メアリーは、8年経っても変わらない美しさを保っている。いや保っているというのは正確ではなく、むしろ年齢を重ねるごとに美しくなっている。
ステファンは、切り株から降りて息を整える。緊張しているのか動悸が止まらない。少しふらつきも覚えながら月の明かりに照らされる、メアリーの瞳を見て言う。
「俺は、8年前に初めて君と出会った日から、ずっと思っていた。伝えたいことがあった」動悸は酷くなる一方で、言葉な続かない。それでも精一杯、最後に成るかもしれない言葉を伝えたい「好きだ。俺は、君の言葉に生かされてきた。ありがとう」。
ステファンの言葉を聞いたメアリーは、少し困ったような表情だ。「あなた、今にも消えてしまいそうよ。何処へ行こうと言うの?」「何処にも行かないよ。ずっと君の側にいるよ」
そこでステファンは気づく。メアリーに近づく人影に。羆みたいに巨大な人影だ。「メアリー!誰かそこにいるのか?」声も獣の雄叫びと変わらない、野蛮な荒々しさがある。「オレーク…何でもないわ。私の親戚なの。彼も狩りをやっているのよ」「こんな時間にか!なんて命知らずだ。放っておけそんなつまらない男は。早く小屋に戻れ」。
オレークと呼ばれた男は、乱暴にメアリーの腕を掴んで、来た道を戻ろうとする。その時、見せたメアリーの悲しそうな瞳と男の股間が膨らんでいたことをステファンは生涯、忘れなかった。
翌朝4時に、亡き祖父の軍服に身を包ませ、猟銃とサバイバルナイフを装備したステファンは、自分を辱めた女達が住む、集落の中心地へと向かう。勿論、手鏡も忘れていない。
朝早くから仕事を開始する牧畜とは言え、まだ日は昇らずに集落は暗闇の中にいる。その暗闇よりも深淵に堕ちたステファンは、まずイレーナ・ザレンホフの家に侵入して、就寝中だったイレーナの両親を猟銃で射殺する。発砲音で目が覚めたイレーナが、2階から慌てて降りてきた。不幸にも階段下でステファンと鉢合わせしたイレーナは、サバイバルナイフで両足の腱を断ち切られてしまう。彼女は助けを求めるために泣き叫ぶが、すぐにステファンはイレーナの口の中に拳くらいの石を押し込みテープで口を抑える。続けて、顔面に3発の殴打を思い切り放つと、イレーナの頰と鼻は粉々に粉砕されて気絶する。まだ息があったため、イレーナを担いで近くの牧舎へ移動する。
気つけの冷水をイレーナにかけると、薄っすらと意識が回復したようだ。しかし、顔が腫れ上がり両目が肉に埋もれてしまっている。ステファンは、サバイバルナイフを抜いて腫れた肉を切り落として視界を確保してあげる。イレーナは、大粒の涙を流している。ここで、ステファンの感情に変化が持たされる。可哀想だと思ってしまったのだ。自分が生み出した結果にも関わらず。手鏡をイレーナに見せて自身の姿を確認してもらうと、一瞬も待たずにサバイバルナイフで喉を裂いた。血液が噴水のように吹き出して、祖父の軍服は鮮血に染まる。ここに、イレーナ一家の虐殺は終わったが、まだ殺さなければいけない者がいる。
マリア・コペルニク、ジェシカ・ブラウン、テルマ・ホークス、レネ・レイド、ジェイミー・クーパーを次々に殺害していくが、イレーナの場合とは異なり、苦痛の少ない猟銃で頭部を撃ち抜くやり方に統一されていた。また、より迅速に殺害していきたかったため、その他の家族に手をかけることもなかった。
集落に、鶏の鳴き声が響く。日が昇り、暗闇の時間は終わりに近い。8名を殺害するのに1時間以上かかった。想像以上の心身への負荷により、ステファンは息を切らして疲労困憊といった様子だ。まだ、ボヤナ・ベインズとジョージナ・ファメションを殺していなかったが、そろそろ限界だ。
ステファンは一度、自宅に戻り鮮血に染まった軍服から背広に着替える。目を覚ましていた祖母に「育ててくれてありがとう。おばあちゃんのこと、愛してるよ。明日も明後日も愛してる」と言い残して、森の中へと消えていった。
ステファンは、前夜と同様に獣道を進み、メアリーと出会った森の空間へと辿り着いた。此処は、計画には無かった場所だ。森に入る前に、パトカーのサイレンの音が聞こえたので、早く目的を果たさなければならない。
空間の中心にある、切り株を飛び越えて、池がある奥の方へと速足で進む。池の縁には、小さな小屋がある。ステファンは、小屋の玄関扉を蹴破る、刹那に発砲音が森林全体に響いた。しばらくして、もう1発。また1発。午前6時18分。森林は静寂に包まれている。ここに、ステファンの憎悪は終息した。
2時間後、警察が森林の小屋に足を踏み入れると、熊のように巨大な男とステファンが頭から血を流して死んでいた。警察は、現場の検証を重ねた結果、状況から判断して巨大な男はステファンに射殺され、ステファンは自身で頭を撃ち抜いたとの結論が出された。しかし奇妙なことに、現場の血液を調査したところ、死亡した2名とは別の血液が発見された。小屋の周囲に他の遺体がないか探したが、見つかることはなかった。あるはずのない3人目の血液の持ち主は、20年近く経過した今でも不明なままだ。
閉館時間まであと僅かなので、その分厚い書物を棚に戻して図書館を後にする。僕は、なんとなくステファンの気持ちが分かる気がする。好きな人を独占したいという、少々、後ろめたさのある気持ち。それは、時に殺しを正当化することもある。ある人にとっては悲劇だが、例えばステファンのような純粋な悪魔にはどうなのだろう。僕は、考える。僕と夏子の場合を考える。僕にとってのイレーナは、嶺だ。
(続)
※続編の『三景 第三景「町田(後編)」』はこちら
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