【読書コラム】博士の愛した数式 - ポストモダンを支える√ 執筆者:KJ

こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年7月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は小川洋子さんの「博士の愛した数式 *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。

eπi+1=0

僕がはじめてこの本を読んだ時の印象は、とにかく非常に暖かい雰囲気の小説だと言うことです。おそらく多くの方がそうであったように、博士と主人公、そしてその息子・ルートとの何気ない日常生活に、心温まる気持ちを覚えました 。


特に印象的だったのが、ルートと博士とのやりとりです。序盤の博士を見ていて、なんとなくぶっきらぼうで冷たい人だと言う雰囲気を抱いたのですが、ルートに対する尋常ではないほどに深い愛情がとても心に残りました。


子どもに対して冷たい態度を取ってしまいがちな現代人に、大切なものを思い出させてくれる、そんな小説であると思います。


さて、この小説では細部まで語られないことも多く、博士と未亡人の関係など明らかにならないまま終わる要素も少なくありません。その中でも一番の謎は、やはりタイトルにもなっている「博士の愛した数式」であるオイラーの公式です。


この数式が登場する場面は、一度は家政婦をクビになった主人公と未亡人が言い争いをするシーンです。そんな殺伐とした雰囲気の中で博士がおもむろに書きつけた「eπi+1=0」。この数式を見た二人は言い争いをやめ、主人公は博士の家政婦として舞い戻ります。


確かに非常に美しい式であるオイラーの公式ですが、この数式を見た未亡人が主人公への追求をやめたことや、そもそも博士がこの式をあの場面で書いた理由は謎のままです。今回のコラムでは、この式の意味するところについて、もう少し深く考えてみたいと思います。


小説の中でも説明がありますが、「eπi+1=0」は自然対数の底である「e」を、円周率「π」と√ー1を表す虚数単位「i」を乗じた数で累乗したものに、「1」を足すとちょうど「0」になると言う関係を表しています。


この式の美しいところは、「e」や「π」といった複雑な無限小数や、実在しない数である「i」をうまく組み合わせると、非常にシンプルな形に収斂するというところです。


言い換えれば、複雑な数同士が、虚構の数である「i」を通じて調和を織りなす、というのがこの式の美しさだと思うのです。このような形でオイラーの公式を解釈すると、一つのアナロジーが思い浮かびます。それはオイラーの公式が人間社会に似ているところがある、ということです。


虚数という幻想

おそらく、多くの方はあまりにも突拍子もない発想だと感じるでしょう。そのため、もう少し詳しく説明しようと思います。


オイラーの公式と人間社会とのアナロジーの発想は、「e」や「π」といった、複雑で、無限の深みを持つ数字を人間にたとえると見えてくるものです。人間も「e」や「π」と同様に、複雑で無限の深みを持つ存在であることは、なんとなく納得できると思います。


その上で、人間社会を「複雑な人間同士が、虚構を通じて調和する」ものだと捉えると、オイラーの公式に通じるものがあることに気がつくでしょう。


ここで言う虚構とは、宗教や道徳、倫理と呼ばれるものです。これは「物語」と言ってもいいのかもしれません。宗教は近代においてその影響力を大きく損ねましたが、近代初期までの人類が宗教によって社会を形成してきたことは事実です。また、現代の資本主義経済は「お金」という虚構の価値を、みんなが信じることで成り立っているとも言えます。


このように、人間は共通の幻想を信じ、社会を作り、発展してきました。互いを大事にする根拠などなくとも、それを信じて社会を形成することができたからこそ、ここまで発展することができたのです。これはある意味、人類に備わった機能なのでしょう。だからこそ、世界各地で自然発生的に宗教や神話が生み出されてきたのではないかを思うのです。


もしかしたら、これらのものを虚構と呼ぶことに抵抗を感じる人もいるかもしれません。しかし、その絶対的価値を論理的に証明することは出来ないと考えると、それを信じる根拠はあまりにも薄弱です。自由も、平等も、平和も、それが絶対的に正しいと断定することは誰にも出来ないのです(これは僕が自由や平等や平和が大事でないと思っている、という話ではありません。念のため)。


一番わかりやすいのがコペルニクス以前の天動説でしょう。西洋の人たちは、人類は神が創造したものであり、宇宙の中心にいるという虚構を信じていたからこそ、自然を制御することができたのです。それが虚構でしかないことは、現代人なら知っての通りです。


同様に「子どもを愛するのは普遍の真理である」という主張に、根拠はどこにもありません。


動物の世界では子殺しはそこまで珍しいことではありませんし、今のような飽食の時代になるまでは、人類ですら口減らしのための子殺しは行われていたでしょう。もしかしたら、我々の目の届かない、発展途上の国においては現代でも子殺しが行われているかも知れません。


しかし、博士はこの真理を信じていました。だからこそルートを深く愛したのです。たとえそこに根拠はなく、虚構でしかないとして、我々の社会を支えているのはこの虚構です。


未亡人と家政婦の言い争いを見たときに、オイラーの公式を持ち出した博士の意図は、我々の社会を成り立たせるためになくてはならない虚構(幻想)を見失っていることへの抗議だった、とも考えられるのではないでしょうか。


そしてこれは現代を生きる我々にも訴えかけるものがあります。子どもに対する不寛容は、今更僕が強調するまでもなく世の中に蔓延しています。こうやって偉そうなことを書いている僕自身も、疲れているときに公共の場で子どもが騒いでいるのを見ると、少しイライラしてしまうことがあります。


確かに根拠がないことかもしれませんが、我々の社会をささえているその虚構を見失いがちなのが現代人です。その虚構の意味を、非常に美しい形で思い出させてくれるからこそ、この小説は広く愛されているのではないかと思うのです。


ポストモダンを支える√

ここまでの荒唐無稽な議論を読んでうんざりしている人もいるかもしれませんが、もう少しお付き合いください。


前章で虚構のことを「物語」と言い換えたことからピンときた方もいるかもしれませんが、ここで展開したいのはポストモダン論です。つまり、現代日本も直面している、「大きな物語」が失われた時代にどう生き抜いていくのか?という課題についてです。


その課題を端的にいうと、宗教が影響力を失い、徹底した効率化 / 大量生産・大量消費という近代的な価値観も失われた時代に、何を信じたらいいのか?ということです。前章で議論した言葉で言うならば、社会を構成していた「i(虚構)」が見出し難い世の中です。


その時代について良く指摘されることは、「小さな物語」の乱立と、その物語同士の対立です。現代にはびこる、過激派によるテロリズムや、保護主義などの国家の分断を考えると、そこまで的外れの指摘では無いようにも思います。


今回はポストモダンを生き抜く鍵の一部を、虚数単位である「i」から見出したいと思います。荒唐無稽であることは重々承知の上です(笑)


虚数単位「i」とは√ー1であり、二乗するとー1になる数を表します。物語の冒頭で主人公が指摘している通り、具体的な数としては存在しない数であり、それが虚数と呼ばれる所以です。


ここでもう一度、虚数単位を語る上で重要な「ルート」について、博士が言及していることを振り返ってみましょう。


これを使えば、無限の数にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」(5ページ)

どんな数字でも分け隔てなくかくまって、ちゃんとした身分を与えてやる、ルート記号のようだ」(269ページ)


このように、ルート記号はすべてのものを尊重し、どんなものにもちゃんとした身分を与えるものである、という位置付けがされていることがわかります。この文面が物語の冒頭と結末に置かれていることからも、著者の小川さんがルート記号のこのような特性を重要視していたことは明らかです。それは同じく冒頭に配置された下記の文にも現れているように思います。


私と息子が博士から教わった数えきれない事柄の中で、ルートの意味は、重要な地位を占める」(6ページ)


ポストモダン。小さな物語が乱立する闘争の時代。ややもすれば相手の弱点やネガティブな点を罵り、弱者に対して不寛容の時代。しかし、互いの不寛容が時に悲劇を生み出すのは承知の事実です。


そんな時代にこそ必要なのがルートです。全てを、ネガティブなものですらも包み込むルートという存在です。


これまでに議論してきたように、オイラーの法則の如く、調和のとれた人間社会を成り立たせるのが虚構「i」です。そして、その虚構「i」はネガティブ(負の数)を寛容すること(ルートをかけること)から生じます。


様々な価値観やイデオロギーが乱立する時代だからこそ、子どもや老人、各種マイノリティと言った弱者を切り捨てるのではなく、「分け隔てなくかくまって、ちゃんとした身分を与え」ること、それがこれからの社会を成り立たせるための「物語」になるのではないか、そんなことを思うのです。


この難しい時代に生まれ、つぎの物語を描く世代に求められるのがルートです。すべてのものを受け入れる寛容性。自分にとって良いものを味方、悪いものを敵とするのではなく、良いも悪いも受け入れるためにどうするのか、それを考える力が必要なのではないでしょうか。


結び

今回は小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読んで考えたことを書いてみました。暖かい話ではあったものの、コラムとしてまとめられるだけの論点を導けるかどうかを心配していたのですが、書き終わってみれば案外しっかりした議論はできたかなと思います。


バブル崩壊以降に精神的支柱を失った日本をどのような方向にもっていくか、それは現代日本における最大の課題です。この大きな問題に対して一個人ができることは少ないですが、その課題感は常々意識し、出来ることから行動していきたいと思います。


いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。

それでは、また!


*1 ページ数は全て新潮文庫版のものになります。


小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫、2005)

参考文献

岡本裕一朗「いま世界の哲学者が考えていること」(ダイヤモンド社、2016)

ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラー「アニマルスピリット」(東洋経済新報社、2009)

ヴォルテール「寛容論」(中公文庫、2011)

宇野常寛「ゼロ年代の想像力」(早川書房、2011)

彩ふ文芸部

大阪、東京、名古屋など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の東京会場で知り合った読書好きによる文芸サイト。

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