①
深夜2時、「朝まで生テレビ」を観ていたら、突然、呼吸が思うようにできなくなった。心臓の鼓動は、身体全体に響く程、激しくなり、両手足はじわじわと痺れてきた。脳内は、死の恐怖に支配され、精神的にも肉体的にも、僕の身体は大混乱を起こしているようだ。
隣室で就寝中の母を起こしに行くが、「何があったの?」と言いながらも中々、意識が覚醒しないようで、寝ぼけ眼をこすっている。母が眼を覚ますのを、悠長に待ってはいられない。部屋に戻り、携帯電話で119番に電話をかける。電話対応の男性から、住所や症状について質問されたため、息を切らせながらも必死になって答える。ようやく、救急車を向かわせる段に至るが、今にも意識を失ってしまいそうだ。
しかし、救急車が来るまで、部屋でじっと待つことも出来なかったため、ようやく覚醒して立ち上がった母に救急車を呼んだことを伝えてから、着の身着のままで、マンションの前まで飛び出した。サイレンの音が僅かに聞こえる。すぐ近くまで来ているようだが、永遠とも言える程、待っている時間が長く感じられる。立っていることが限界になり、地面に座り込む。呼吸の苦しみ、手足の痺れ、動悸。どの症状も全く改善される気配はない。
まだ17歳で、真っ当な恋愛も経験していない。一度は見てみたいと思っていた、姫路城に行くことも出来ない。死んだら、何も経験が出来なくなる。死への恐怖は増幅の一途を辿るばかりで、全身の震えまで発生してきた。
じっと座り込んでいるのが困難になり、立ち上がって走り出そうとしたところ、マンションの入り口に、母が姿を見せる。それと同時に、救急車も到着した。母と車内に乗り込むと、救急隊員に、現在の症状を聞かれたため、痺れが腹部にまで達していること、心臓が破けそうなくらい、鼓動が激しいことを伝える。母は、息子に何が起きているのかと不安な表情を見せている。近くの総合病院へ連絡がつくと、救急車はサイレンを響かせながら、走り出す。一体、僕はどうなってしまったのか?死んでしまうのだろうか?
総合病院に到着して、医師に改めて症状を伝えると、即座に腕へ筋肉注射を打たれた。中身は鎮静剤のようで、すぐに全身の脱力感に満たされて、少しずつ呼吸や動悸が収まっていく。死への恐怖も消えていくが、安心感を感じることはなく、脳内はぼんやりとした曖昧な感覚に満たされていく。
普通に会話が出来るまでに、落ち着きを取り戻してきたが、震えと悪寒はすぐには消えないようだ。
医師に、この突然の症状は何なのか尋ねると、心臓等の身体的な箇所に異常は見当たらないため、精神面に原因があるかもしれないこと、最近、強いストレスを感じることはなかったかを尋ねられた。
僕は、心当たりがあったが、それは言いにくいことであったため、返答に困っていると、母が「あったと思います」と代わりに答えてくれた。医師は、今回のような激しい症状がまた見られる危険もあるために、早めに精神科で診てもらったほうが良いことを話していた。
昨日までの僕の状態では、外に一歩でも出ることすら困難であったため、通院に抵抗感があったが、治療のためなら仕方ないと、無理矢理、納得する。
全体的に症状が収まったので、医師や看護師に感謝を伝えつつ、タクシーで帰路についた。
空は、太陽で薄明かりに照らさている。久しぶりに見た空は美しくて、殊更、深い嘆息を吐く。
無事に家に帰れる。生きて帰れるのだ。鎮静剤の作用で、ぼんやりとした意識のまま、車内の窓には何故か微笑んでいる僕の顔が映っていた。
②
僕は、中学生の頃、クラスから孤立していた。
同級生と積極的なコミュニケーションが全く取れず、友達も出来ない。
思ったことを、一言も発せられずに、暗い表情を浮かばせながら席で俯いて過ごす。普通に学校に登校できるような人には、この時の気持ちを説明するのは難しいけれど、今、振り返ると、自分の思いを少しでも誰かに否定されるのが、酷く恐ろしかった。思春期特有の自意識が膨張し過ぎて、酷く傷つきやすくもなっていたのだろう。また、クラス内を集団で過ごすということ自体が苦痛で、その場にいるだけで、身体全体が強張る程、強く緊張していたのを覚えている。この状態では、精神的に病んでしまうのも当然の結果だと思う。
中学2年生の一学期から、不登校になった僕は、中学卒業の進路として、「サポート校」という高校に入学することを決める。
入学に必要なのは、簡単な論文と親を交えた面接のみで、試験なんて無かった。面接は、3組の親子を同時で行う形式で、母から「この子は、とても心優しいのです」と言われたことが非常に恥ずかしく、赤面したことを覚えている。でも、自分の存在を肯定してくれたことは、素直に感謝している。
「サポート校」には、僕みたいな不登校児もいれば、引きこもり、いじめ等にあった訳ありの子供達もおり、生徒達が高校を無事に卒業できるよう、先生が学業面から生徒同士の複雑な人間関係に関わる問題まで、サポートしてくれる。
およそ1年半の不登校と引きこもりを経験していた僕には、サポート校と言えども、毎日、登校することは困難を極めたが、兎にも角にも新たな学校生活が始まったのである。
集団生活を強いる、「学校」という生徒を画一的に教育してするシステムへの大きな不安を抱えながら…。
授業については、国語、数学、理科、社会、全ての教科が中学生レベルのものであったため、1年半しか中学に通っていない僕の学力に合った、無理のない内容だった。
しかし、同じ境遇にいる生徒達というのが一癖、二癖ある者ばかりで、心底、辟易されられた。先生からの指導に短気を起こし、机を叩きつける不良、クラス全体に響く程、甲高い声で喋る女、僕が他の生徒からノートを写させてもらっていると、突然そのノートを横取りする肥満体。そして、どうやら、僕が全く言葉を発しないことが面白かったのか、「暗い」「しゃべれよ」「帰れば良いのに」と僕に聞こえるくらいの音量で喋るクズども。
先生に悩みを相談してもただ「辛いよね」と答えるのみで、具体的な行動を示してくれるものではなかった。
中学校に続き、またしても精神的に不調をきたした僕は、1年生の12月頃から再び、不登校、引きこもりの状態に陥ってしまった。
家の中でやることと言えば、アマゾンで安価に買ったテレビゲームかバラエティ番組を観ることぐらいで、全く生産性のない、無為な日々を送っていた。こんな時間を過ごしていると、人間は感情を失くして、廃人に陥ってしまいそうだが、僕には唯一、話し相手になってくれる母がいたため、廃人にならずに済んだと思っている。
サポート校の先生は、母に電話をして僕の様子を確認したり、直筆の手紙を送ってきて、励まそうとしたりしていたが、本腰を入れて家に訪問することはなく、中途半端な対応を続けていた。しかし、先生達には何も期待していないため、腹をたてることもなかった。
引きこもりになって、一ヶ月、二ヶ月と瞬く間に時は過ぎ、二ヶ月に1回、テレビゲームを近くの中古ゲーム屋に売りに行くことでしか、外に出ることがなかった僕は、次第に明るい未来が見通せない現状に苛立ち、また多大なストレスを溜め込むようにもなった。
2年生の夏頃には、不登校のまま、学費を支払うのが難しくなり、退学することになった。通学したところで、いじめられてしまうのだからと、いっそ晴れ晴れした気持ちで退学を受け入れたが、より自分が何を目的に、どんな行動を起こせば良いのか分からなくなってしまった。
僕が悶々と苦悩して、精神的に追い込まれていく中、母は市の相談窓口に赴き、僕の日々の様子や今後、どのようにすれば良いか相談を重ねていた。父に関しては、仕事が忙しいことを理由に、何も行動を起こさず、僕の存在を見て見ぬ振りするような態度でいた。ちょっとしたことで、短気を起こす父のことは嫌いであったため、コミュニケーションを取らないことで、余計なストレスが生まれないと、好ましく思ってはいた。
そして、早くも引きこもり生活から一年以上経過した年の瀬、母の尽力もあり、市の相談員が、家に訪問することになった。事前にそのことを聞かされていた僕は、相談員と対面するかはっきりとした可否の答えを出せないまま、その日を迎える。
相談員が家に訪問すると、母はリビングに招き入れて、2人は笑いを交えながら、何かを話している。僕は一人、部屋でテレビも点けずに、息を殺してじっと座っている。全く未来が見通せないこの現状を変えたい。でも何をすれば良いのか分からない。部屋の外の世界が怖い。
行き場の無い、苦悩で泣きそうになってきた。すると、母が部屋の前まで来て、「少しだけ話してみない?顔を見せるだけで良いから」と優しく声をかけてきた。
僕は涙を堪えて立ち上がる。今、ここで母以外の人と会えば、何かが変わるのではないか?そのチャンスは今を置いて他にはないのではないか?
自問自答を繰り返して、自身を奮い立たせた僕は、手の震えを抑えたながら、ゆっくりと扉を開ける。正面の母は、満面の笑みを浮かばせて、今にも泣きそうな表情にも見える。
廊下を恐る恐る進み、リビングに入ると、色黒で細身の相談員が、笑顔で「はじめまして」と挨拶の言葉をかけてくれる。僕も「はじめまして」と一年半ぶりに、母以外の人と言葉を交わしたが、僕の声は、か細く震えていて、相談員に聞こえたのか分からない。それでも、最初の一歩を踏み出した。
それも引きこもりの人間には、大き過ぎる程の一歩をだ。
10分程、僕の好きなゲームの話等をすると、呆気なく相談員は帰っていったが、しばらくしても、緊張と相談員と話せたことへの達成感から、手の震えは止まらなかった。
定期的に、相談員が訪問してくれるとの話があったため、少しずつ、人に慣れて外に出られるようになっていくという、前向きな未来が見えてきた。
まずは良しとばかりに溜息をつくが、既に今日まで溜め込んでいたストレスは、僕の許容範囲を超えていて、年明けのパニック発作の発症へと至るのである。
③
初めて、パニック発作に襲われた夜が明けた。
早朝5時頃に家に着くと、徹夜状態であったため、すぐに布団に横になり、気絶するように眠りにつく。
3時間程で起床すると、同じく睡眠をほとんど取れずに、表情に疲労を滲ませている母と近くの精神科病院に、今から通院することを決める。
しかし、1年半に渡る引きこもり生活の弊害で、街中ですれ違う人々が、僕に対して侮蔑的な視線を向けているのではないかという、病的な恐怖心が生まれてしまっていた。通院という目的があっても、外出すること自体に、吐き気を催す程の動悸に襲われる。このような状態であったがために、最も僕が望んだ通院方法は、父の車を利用することだったが、父は仕事で居なかったため、昨夜の緊急病院からの帰路と同様、仕方なく恐怖の対象である、他人が運転するタクシーを使うことになった。
遅めの昼食を済ませると、母とタクシーに乗り、人生で初めて精神科病院に足を踏み入れる。
入口の自動扉を開けると、すぐ正面に受付があり、「こんにちは」と受付係りの女性が言って迎え入れてくれる。しかし、何か強い違和感というか、暗い雰囲気を感じる。
それは、受付周辺を、電灯の薄い光が濃いグリーン色の床に反射して、地味な色彩が視界を覆ったことと、何より違和感として僕の目に止まったのは、ソファに座って項垂れたり、生気のない表情を見せる患者達が醸し出す雰囲気にあった。
外傷はないが、まるで、戦場の病院のような悲惨な印象があり、これから始まるはずの医師との診察や治療を開始しても、この患者達のような状態から抜け出せなくなるのではないかと、未来を悲観してしまった。
母が受付を済ませると、空いていたソファに腰掛けたが、赤の他人がいる空間で過ごすこと自体が1年半振りであるために、気持ちがソワソワして落ち着かない。この状況が強いストレスであり、心身共に負担をかけていることを感じながら30分程、待つと名前を呼ばれて診察室に入った。
診察室の中は、内科等にあるレントゲン写真を貼る台もなく、長方形の机が横向きに置かれるのみの少し狭い会議室のような作りになっている。
医師は何故か2人もおり、初診であり、精神的に重症である僕を、慎重に診察しようという姿勢を感じる。
母が、昨夜に起きたこと、僕の現在の状況について説明すると、2人の医師は笑顔で僕を安心させようと、他愛もない話を投げかける。
僕は碌に返答も笑顔をも見せないまま、診察を終える。
その時は、僕にどんな診断が下されたか知らなかったが、後日、母に確認すると、『鬱病』『パニック障害』『適応障害』と診断されたらしい。
昨夜の発作は、『パニック障害』が起こしたものとのことだ。僕は、何か仰々しい響きを持った病気だなぐらいにしか思わなかったが、精神疾患についての知識が全くなかったため、その診断の重大性をよく理解せずに、服薬治療が始まった。
僕に処方された薬は、『抗不安薬』『抗うつ薬』の2種類で、飲み始めてもすぐには効果は出ないが、飲み続けることで、緩やかに抑鬱症状やパニック発作が良くなっていくらしい。
長く根気のいる治療になるらしい。昨夜の死ぬ思いをした体験によって、治療の必要性を自覚し、その治療によって家の外に出る最初の一歩を踏めた訳だ。
このきっかけを作ってくれたパニック障害には、複雑な思いを抱きながら、通院、服薬治療を続けていくことになる。またこの治療と並行して、自宅に来てくれた相談員が所属する施設へ足を運び、僕と似たような境遇にいる10代の若者達と社会復帰に向けた活動も行なっていくことになるが、その内容は、また次の機会に書きたいと思う。
④
それから10年以上が経った現在でも、パニック症状は無くなっていないのだが、減薬をして、ほとんど頓服薬のみで過ごせるようになった。
精神疾患とは一生の付き合いになりそうだが、僕を外の世界に繋げてくれたので、厄介な奴だけど、恩も感じてしまっているのだ。
これからも時々、衝突しながらもまた僕が引きこもるようなことがあったら、外に連れ出して欲しいと、邪な期待を抱いている。
0コメント