四月だというのに年末みたいだな、と思いながら僕はテレビを観ていた。画面には北島三郎や松田聖子が映っていて紅白歌合戦の三十年間を振り返っている。平成について特に思い入れはないものだと思っていたのだけれど、歌で振り返ってみると案外色々と思い出が蘇ってきた。あの年にはあのアーティストが活躍していたな、とか、あんな事があったな、なんて振り返っていく。僕の人生と平成の三十年間はピッタリと重なっていて、まるで自分自身を振り返っているような気分になってきた。
平成が終わるという事は職場でもそれ以外の場所でも何かと耳にしていたし、昔話に花を咲かせる機会も多かった。その会話の中で一つ思い出した事がある。小学生の頃の話だ。
小学生の頃、僕は電車にほとんど乗る機会がなかった。田舎では電車が一時間に一本しか出てなくて、使い勝手が悪かったためだ。ほとんどの人は車を使っていた。僕も例外なく親の車に乗って移動するか、自転車で近所を回るくらいの生活だった。そんな僕の将来を心配してか、親は練習と称して僕を一人で電車に乗せるという事をやっていた。
事件が起きたのは、何度かの練習を終えて安心し始めた頃。僕は意図せず無賃乗車をしてしまった。
近所の駅は無人駅のため、乗車中に切符を車掌さんに見せなければならない。僕は一駅で降りたため車掌さんと会う事が出来なかった。電車を降りた直後に僕は気づき、ひどく罪悪感を抱いた。無賃乗車をしてしまった、と思ってしまったのだ。駅のホームに切符を入れるボックスがあるので、そこに入れれば済んだ話なのだけれど、当時の僕は知らなかった。やってしまった・・・・・・と、ただただ固まってしまい、しばらく駅の階段で泣いた。この出来事は僕が初めて罪悪感を覚えた出来事として今でも覚えている。小学生の自分には強烈だったのだ。
ただ、一つ不思議なことがある。
本当に僕は泣いていたのか。無賃乗車をしていたのかどうか。記憶が曖昧になってきているのだ。もう随分と昔の事だから当然かもしれない。過ぎた話なのだから気にしなくても良いのかもしれない。けれど、僕は気になって仕方がないのだ。ずっと罪悪感を抱いていたわけではないし記憶は次第に薄れていって、二、三ヶ月の内にはすっかり忘れて電車にも気にせずに乗っていた。一時間以上電車に乗って祖父母の家に一人で遊びに行ってもいた・・・・・・はずだ。
無賃乗車の事を再び思い出したのは中学二年生の頃。それまではすっかり忘れていたけれど、学校の帰り道でふと思い出した事を覚えている。何をキッカケに思い出したのかは分からない。けれど、自転車を漕ぎながら、そういえばそんな事があったなと急に思い出した。
高校生の頃にも思い出した。その時の事を今僕は思い出している。すっかり忘れているわけではなく、急に思い出すのだ。高校の友達と小学生時代の思い出話をする事になり、何かないかと頭の中を探っている内にぽっと出たのが無賃乗車の話だった。
中学生時代、高校生時代に思い出した無賃乗車の記憶と、たった今思い出した自分の記憶が全く同じだとは限らない。いや、むしろ回想する度に何かしらの不都合な部分を消去しているのではないか。そんな気がしている。
この無賃乗車の話を友人に打ち明ける機会があった。高校の時だ。人に話す時には事実を正確に伝えるべきかもしれないけれど、僕らの周りでは決してそんな事はしない。何かしらのオチをつけて、笑いで締めくくるのがマナーであり、話を聞いてくれる相手への礼儀だ。そのマナーに従って話をすると、僕の無賃乗車のエピソードは劇的に変わる。無賃乗車をして電車を降りてしまう所までは同じ。でも、そこからは違う。僕は駅の階段では泣かず、駅のホームの端っこぎりぎりまで電車を追いかける。その様子に気づいた車掌さんが窓から手を出してくれる。僕は必死に手を伸ばす。そして、切符は渡された。・・・・・・という話になったり、途中で転んでしまって電車に追いつけなかったけど、諦めかけた所に「諦めないで!」と美人OLに激励され走りまくっただとか。あるいは見知らぬおじさんが現れて「ヘイ!少年よ!俺の車に乗りな!」と車に乗せてくれて、おじさんと共に電車を追いかける、とか、そのまたあるいはその見知らぬおじさんが実は誘拐犯で危うく誘拐されそうになっただとか。そんな話に変わっていく。話を聞いている友人のリアクションを見て終着点を決めるのだ。見事に笑いが取れればそこで終わり。笑いが取れなければ更にエピソードを足していく。
こんな事を繰り返していく内に、実際の出来事とは随分とかけ離れていく。十年後に再びこの無賃乗車の事を思い出した時、僕はどんな風に友人に話すのだろう?僕の記憶はどうなっているのだろう?ちょんまげつけて、咄嗟に馬で追いかけた、という話にでもなっているのだろうか。いや、さすがにそれは嘘臭い。時代考証は大切だ。それでも、今とこれからと、全く同じように話せるとは言い切れないし、同じ記憶であるかどうか自信は持てない。無賃乗車の話はまだ強烈だったから覚えているけれど、もっと小さくて細かい記憶は、同じように歪んでいるのだろう。自分で自分の首を絞めているのかもしれない気がしてきて、何だかゾッとする。
もう一つ、どうしても気になっている思い出がある。
小学生の頃、僕には幼馴染みが二人いた。どちらも女の子で、近所の公園でよく遊んでいた記憶がある。その内の一人A子は小学四年生の頃に引っ越す事になり、以来一度も会った事がない。もう一人のB子とは高校卒業するまで付き合いがあり、話す機会も多々あった。ある時、B子と話していると昔の思い出話になった。僕がA子の話題を出してみると、彼女はこう言った。
「そんな子いたっけ?」
ほら、いたじゃん。と言いつつも、僕自身も記憶は曖昧で顔も名前も覚えていない。記憶を辿るもののB子には上手く伝わらなくて、結局その話はそこで終わってしまった。親同士の付き合いもあったので親にも聞いてみたけれど答えは同じだった。僕の中では確かにいたはずなのに、誰も覚えていないのだ。
A子は本当にいたのだろうか?
彼女と三人で遊んでいた記憶は確かにある・・・・・・はずなのだ。僕はA子の家に遊びに行った事もあるし、そこで初めてインコを見たという記憶もある。そのあと我が家でもインコを飼う事になって、そのインコは台風の翌日いなくなった。カゴの扉が開いていていつの間にかいなくなっていたのだ。これは本当の話だ。
A子の存在を証明する事が出来ない。顔も名前も分からないし、僕以外に関わっていた人の誰もが覚えていない。本当に調べようと思えば調べられるだろうけれど、それほど労力を使って会いたいわけでもない。ただ、本当に彼女がいたのかどうか。自分の記憶は正しいのか、それが気になって仕方がないのだ。
A子の事はここ十年ほど忘れていたけれど、今でも確かに覚えている。B子と高校時代にA子について話題にしたことも覚えている。・・・・・・いや、本当に僕は覚えているのだろうか? 記憶は正しいのだろうか? もしかすると、A子はそもそも存在しなかったのかもしれない。B子の家に遊びに行った事を、A子の家に行ったのだと勘違いしていた可能性もある。そもそもインコの話も本当だろうか?インコの話は色んな友人に何度か話してはいるけれど、よくよく考えれば、これも本当にあった出来事なのかどうか証明しようがない。インコを飼っていたのは確かなはずだ。けれど、A子の家でインコを見た、という記憶が確かなのか分からない。もしかすると、A子の家でインコを観た事がキッカケで我が家でもインコを飼う事になった、と結びつけたいがために僕自身が記憶に補正をかけたのかもしれない。唐突にインコを飼いだした、というよりも、その方が納得がいくからだ。そんな気がしてきた。
親に聞けばある程度の答えは分かるだろう。でも、もし親が忘れていたら、この証明は誰が出来るのだろう?友人に話した事だけは確かだ。笑いが取れるかと思いきや、友人はインコの行方を心配していた。しまった、と思った僕は咄嗟に「いや、実はそれから戻ってきてね・・・・・・」とエピソードを加えた事を覚えている。あれ?もしかするとインコは本当に戻ってきたんじゃないだろうか?僕の記憶ではインコは台風の翌日から見ていない。どっちだったか、どっちでも良いのか。親に聞いてみようか。いや、しかしいきなりそんな話を持ち出したら妙に思われるだろう。
無賃乗車の話も改めて考えてみると疑わしい点がある。僕は初めて罪悪感を覚えた出来事だと思い込んでいたけれど、本当にそうだったのだろうか?友人に話した内容で記憶も上書き保存されたんじゃないだろうか。僕にはもう一つ罪悪感を覚えたエピソードがある。もしかするとそちらのエピソードが先だったかもしれないし、その時に抱いた罪悪感を重ね合わせて無賃乗車の話に盛り込んだだけなのかもしれない。小学四年生の頃だったのかも疑わしい。小学一年生の頃だったかもしれない。そうなると無賃乗車で罪悪感を抱いたのかすら疑問だ。疑問を解消するために、僕自身の記憶が勝手に補正して小学四年生と設定してしまったのかもしれない。あれ?小学四年生はA子が引っ越しした頃じゃなかったか?まあ、どっちでも良いか。いや、こうやっていい加減な処理をしているから記憶がどんどん歪んでくるのだろう。もっと真剣に記憶を探っていく作業をする必要があるのかもしれない。
写真があれば、ある程度記憶を確かめる事は出来るだろう。写真を見てこんな事があったな、と思い出す事も多々ある。でも、僕はたまにふと思う。そこに写っているのは本当に僕なんだろうか、と。写真を見ても全く身に覚えのない場所にいたりする。さすがにここ数年の写真ではそんなことはないけれど、古い写真であればあるほど思い出もぼやけていて、所々に空白が出来ている。その空白を埋めるために、僕はとてつもなく歪んだ補正をかけていっているのではないだろうか、という気がしてくるのだ。
・・・・・・僕の記憶はどこまで正確なのだろう?
(了)
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