こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年2月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は原田マハさんの「暗幕のゲルニカ」。今回もネタバレは全開で書くので、未読の方はご注意お願いします。
キャンバスに描かれたもの
まずは、タイトルにもなっている絵画「ゲルニカ」について見ていきましょう。
この本を読んだ方ならご存知の通り、この絵は、第二次大戦においてナチスドイツが行った、ゲルニカ空爆の惨状がモチーフとなっていると言われています。この本の表紙にも描かれている「ゲルニカ」は、逃げ惑う人や動物たちの様子が非常に臨場感を持って描かれています。あまり背景知識がないとピンと来ないかもしれませんが、一度この本を読んだ後に改めて見てみると、戦争の悲惨さをひしひしと感じるのではないでしょうか?
この物語の中でも繰り返し「反戦の象徴」として描かれている「ゲルニカ」ですが、その位置付けをもう少し突っ込んで考えてみたいと思います。
僕はこの小説のなかでの「ゲルニカ」の描写として、いくつか気になった表現があり
ます。それが以下の三つです。
「そこに描かれているのは、神に裁かれて地獄に送られた罪人たちではない。人間によって地獄へ突き落とされた人間たちなのだ。」(41ページ *1)
「もっとも美しく、もっとも賢い、神の被造物であるはずの人類が繰り返してきた、もっとも醜い行為。」(86ページ *1)
「ここは地獄だ。人間が作り出し、人間を突き落とした、神のいない、裁きのない地獄。」(151ページ *1)
これらの文章を見てみると、ゲルニカの惨状は神ではなく人間の所業であることが徹底的に強調されていることがわかります。このことから、著者である原田さんが、「ゲルニカ」に描かれた悲劇が、人間によって引き起こされた事に重点を置いているのではないかと思いました。
また、この小説の中で語られる、ピカソの絵の特徴について目を向けてみましょう。それを一言で言うならば、物事の隠された本質を暴くことだと思います。この物語の中で、ピカソの愛人・ドラはピカソの絵について語った以下の文にも、それが現れている様に思います。
「初めて自分をモデルにした肖像画を目の当たりにしたとき、ドラはおかしなくらい戸惑い、頬が赤らむのを感じた。人目を避けてひっそりと自分の中に匿っていた何かを暴かれたような気がした。それでいて、その肖像画は、まさしく素の自分だったのだ。」(18ページ *1)
「ゲルニカ」が人間によるものという点を強調していることや、ピカソの芸術の特徴の描写を考慮すると、原田さんのゲルニカの解釈は、単に「戦争は良くない」というメッセージに止まるとは思えないのです。
繰り返される「人が生み出した人の地獄」という表現。そこから僕が見出すのは、「人は自分の主張を通すため、他人に対してどこまでも暴力的になれること」そして「自らを守るためにどこまでも残酷になれること」です。
人間の独善性や、他者への暴力性・残虐性。人間にとって直視したくない、恥部とも言える部分。隠された本質を描くピカソだからこそ描くことの出来た「ゲルニカ」。完全に私の想像でしかないですが、このようなことを原田さんが考えていたのではないかと感じます。
かけられた暗幕
さて、続いて、物語の大きな転換点について考えてみます。即ち「暗幕のゲルニカ」についてです。現代パートの国連本部で、イラクへの攻撃が決まったとき、国連のロビーに飾ってあったゲルニカのタペストリーに暗幕がかけられました。僕は史実のこの記者会見を見てはいないのですが、どうやらこのあたりまでは実話に基づいているようですね。タイトルになっていることからも分かる通り、この正史が小説のモチベーションになったことは想像に難くありません
それでは、この「ゲルニカ」に掛けられた暗幕はどのような意味を持つと考えれば良いでしょうか?
まず考えられるのが、社会に与える影響でしょう。自らが攻撃を加えることを決めた記者会見の背景に、ゲルニカ空爆を描いたこの絵があるのは絶対にまずい。世界平和を目指す国連の決定としてはこれ以上ない皮肉であり、それが世の中の人たちからどのような目で見られるかは明らかです。
これはある程度の事実を含んでいると思いますし、もしかしたら事実はこれ以上でもこれ以下でも無いのかもしれません。そういう意味ではこれ以上の思索は深読みでしか無いのかもしれませんが、あえてもう少しその象徴的な意味について考えてみます。
物を隠すことの意味は、「自分にとって都合の悪いものを見えないようにしておく」ということだと思います。「社会から」見えないようにしておく、というのが上に書いた理由の根底にある考え方ですが、もう一つ「自分自身から」も見えないようにする、という意味合いもある気がしました。つまり、ピカソの絵の特徴が「直視したく無い本質を暴くこと」であるため、国連自身もそれを直視することを恐れた、ということです。
何度も出てきている通り、「ゲルニカ」に描かれているのは悲惨な戦争の現場です。国連はその事実から目をそらしたかったという側面もあると思うのです。自分の行動・選択の結果、起こり得る結果があまりにも悲惨なものであるため、そこに向き合うことが出来なかった、と言うわけです。
もっと言うなら、人間の恥部、つまり、人間がどうしようもなく独善的で、暴力的で残酷になることができる、という現実を直視しない、とも言えるでしょう。自分自身がどこまで独善的で残酷な決定をしようとしているのかを認めようとせず、自らの行為は正しく、そこに疑問の余地はないとでも言っているようでもあります。
すでに述べたように、これは僕の勝手な拡大解釈なのかもしれません。しかし、この決定をした時の為政者たちが、自分の決定の意味するものを本当に認識していたのかは甚だ疑問です。そこを直視することが出来なかったからこそ「ゲルニカ」を暗幕で隠すという子供じみた小細工を行なったのでは無いかと思うのです。
(上記の議論はあくまでフィクションの小説世界の話であり、現実問題としての具体的な戦争その他に対する僕の個人的立場を表明するものではありません。念のため。)
Blind Justice − 盲目の正義
そもそも戦争とは、戦争自体を目的としたものではなく、多くの場合はその背後にそれなりの主張があるのだと思っています。古代では、資源が失われつつある自国の民を飢餓から救うため、働き手の足りなくなった自国の社会を回す奴隷を手に入れるため、近現代では枯渇しつつある天然資源を確保して国家の安定した運営をするため、自国民の安全を脅かす脅威を排除するためなどの理由で戦争を行なってきたわけです。
もちろん、これらの理由があるからといって戦争が正当化されるという話ではありません。戦争の是非を問うのはこのコラムの主旨から外れるので深くは言及しませんが、自らの正義や生活を守るために他人を踏みつけることは簡単に許されていい行為では無いでしょう。
しかし、我々はそんな当たり前のことを見失いがちです。自分や自分の周りの人たちを助けるために他者の思いを無視する。自分を守るために、驚くほど残酷に、暴力的になれる。その結果、自分や自分の周りのみに目を向けたBlind Justice(盲目の正義)を行使してしまう。この物語について思索を巡らせていくにつれ、そのようなことを考えてしまいました。
そう考えたとき、我々が忘れてはいけないことは、人間は神の如き存在にはなれないということだと思いました。神のように、全ての人に分け隔てなく心を寄り添わせることなんかできなくて、自分や自分の周りを優先する存在であるということ。そのためには人に対してどこまでも残酷になれること。そして、そんな人間の本質的な汚さから目を逸らしてはいけないということ。そんなことをピカソは、そして原田さんは主張したかったのでは無いかと思いました。
一応確認しておきますが、この議論は、自分のことを優先することが倫理的に正しいか間違っているかという問題ではありません。倫理的に間違っていようと、人間が醜い部分を持っていることは歴史が示している事実であり、そこから目を逸らすべきでは無いというのが僕の考えです。
どんなに聖人君子であろうと努力しても、人間は人間でしかなく、その醜さからは逃れられません。そういう意味で、人間が振りかざす絶対的な正義など無く、そこに蔑ろにされている存在がいるかも知れない、単なる独り善がりの正義なのかも知れない、といった疑問を持つことがとても重要です。
シンプルにまとめるのであれば、綺麗な存在であろうとするのでは無く、自分の中に汚い部分があることを受け入れ、その上で何をすべきかをかんがえることが大事だと言うことです。
普通の人が普通に生活をしていて、戦争をするかどうかを決定するようなことはまずないと思います。しかし、日常レベルでも自分の行動や選択によって、人が精神的・肉体的に傷ついたりするケースは少なくないと思います。自分は正しいと思って発言したことが誰かを傷つけてしまっていたり、なんてことはないと思って部下に押し付けた仕事が部下の肉体をすり減らしたり等々、例をあげればいくらでも出てくるでしょう。
もちろん、その全てについて、人を傷つけるような行為をするべきでないと言うつもりはありません。自分にとってより大切な事のため、人を傷つけることを選択せざるを得ないケースもたくさんあるでしょう。しかし、それでも人間の心の奥にある「ゲルニカ」を直視し、自分の行動の結果がどのようなものであるかを考えた上で、責任を持って行動を選択することが何よりも大切なことだと思います。
結び
今回は原田マハさんの「暗幕のゲルニカ」を読んで感じたことを書いてみました。色々と考えてみた結果、大事なことは、自らの醜い部分、自分のためには他人に対してどこまでも残酷になれるという事を忘れてはいけない、ということだと感じました。
この本については、なかなか自分の考えがはっきりと掴めず、コラムという形にまとめるのに苦労しました。特に戦争やテロリズムというナーバスなテーマを扱っている作品であることから、ともすれば薄っぺらい反戦の文章になってしまいそうでしたが、最終的には自分なりにしっくりくる仕上がりにはなったと思います(あくまでも僕のレベルでは、ですよ!)
いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。
それでは、また!
*1 ページ数は全て文庫版のものになります。
原田マハ『暗幕のゲルニカ』(新潮文庫、2018)
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