先日こんなことがあった。
私は谷崎潤一郎の『春琴抄』を読み、その感想をTwitterに投稿した。それが以下の文章である。
「谷崎潤一郎『春琴抄』読了。春琴と佐助の濃密な主従関係。物語的にはシンプルではあるが、とめどなく流れるような独特の文体がある種の異様さを際立たせている。自ら目を刺し盲目となった佐助が春琴にそのことを告げ、あの沈黙がもたらすなんたるカタルシス。そこには人智の及ばぬものがある。」
この投稿の少し後に、私のフォロワーさんがこんなニュアンスのツイートをしていた。
「読了ツイートを見るのが好きだが、さらっとネタバレされていると、驚きと少し複雑な感情になる」
このツイートを見た私は、もしかして俺のことか?と思った。もちろんそんな確証はない。別のツイートに対してかもしれないし、普段から思っていることをツイートしただけかもしれない。しかし、そのツイートが私にネタバレについて考えるきっかけを与えてくれたのは事実である。誤解のないように言っておくが、私はこのフォロワーさんのツイートに反論したいわけではないということだけ理解してもらいたい。
『春琴抄』は春琴という盲目の女性と、彼女に仕える佐助という男の一種倒錯的な主従関係を描いた物語である。感想にも書いているが、物語の山場は佐助が自らの眼を刺し、春琴と同じく盲目になるという場面であろう。
あのツイートが私の感想に対してだったとすると、フォロワーさんは『春琴抄』をまだ読んだことがなく、ふいに私のツイートを見て、物語の山場を知ってしまったのだろう。もしくは既読であり、その場面については伏せておいた方が他の人が読むときに良いのではないか、という意味にも取れる。
そこで私は思った。あなたのネタバレはどこから?
具体的な例をあげるとする。例えばミステリーやサスペンスでネタバレとされるものは、犯人は誰か、どういったトリックで犯行を行ったのか、といったことが挙げられる。作中であえて伏せられていること(実はAとBは裏で繋がっていたとか)を明かすこともネタバレとなってしまうし、叙述トリック的などんでん返しのオチを明かすこともネタバレとなる。
私は普段ミステリーやサスペンス系の小説は読まないが、もし読んで感想を書くことになったら、それらは隠しておくだろう。それらは読者を物語に引き込む重要な要因であり、作品の売りでもあり、いわゆる「読みどころ」とされる部分であるからだ。中にはそれら全てを先に知っても支障なく読めるという人もいるだろうが、ほとんどの人はネタバレされたらつまらないと感じるだろう。
ではなぜ私は『春琴抄』の感想に物語の山場となる場面について触れたのか。
それは個人的には重要なネタバレではない、と思っているからである。
言い訳みたいになるが、私は読む前に「佐助が自分の眼を刺す」というのは漠然と知っていたし、古典小説であるということからあえて伏せることでもないと思った、というのもある。
確かに佐助が自らの眼を刺して盲目になるというのは、登場人物のとった意外な行動という点でネタバレとなり、その場面を読んだ時の衝撃度合いは低くなるかもしれない。しかし、この場面だけが『春琴抄』の「読みどころ」では決してないである。
『春琴抄』の読みどころは春琴と佐助の関係性であり、先に佐助の行動を知ってしまったとしても、なぜ佐助がそういった行動をとるに至ったのか?が読みどころとなってくると私は考えている。さすがに私もこれ以上内容には触れないようにするが、『春琴抄』は少々のネタバレではびくともしない作品であることは確かである。
以上が私が最近ネタバレについて考えたことである。「読みどころ」をどこにするかは作品によって人それぞれだとは思うが、相手の読書欲を削ぐようなことは避けたいと思った。
最後に、「犯人はヤス」
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