『十一月二十二日』著者:ののの

「わかちゃんってさ、変わってるよね」

「え?」

 それは、わたしに審判が下された日。

「こんなの書いててさ、なんか暗くない?」

 小学三年生だったか四年生だったか。記憶は定かではないけれど、まだわたしがそれほど周囲を疑わず、純粋だったころだ。クラスの子から喧嘩を売られた。唐突に感じたけれど、きっと普段から煩わしかったのだろう。彼女の名前はもう覚えていないのでAとしよう。Aは、わたしと友だちが二人だけで楽しんでいた交換ノートを手に持っていた。教室の真ん中で、鬼の首をとったかのように誇らしげにノートをひらひらさせた。クラスの子たちに注目されて興奮でもしたのか、彼女はノートの内容を面白おかしく朗読した。

「Bちゃんもこまってるって言ってたよ」

 Bちゃんとは、わたしと一緒に交換ノートをしていた子だ。彼女の名前ももう忘れてしまったのでBとする。

 BはAの後ろに隠れて気まずそうにしていた。わたしがAにいろいろと言われても、Bは何も言わなかった。

 初めはたわいもないやりとりをする交換ノートだった。思いつきで小説を書いてみたらBが褒めてくれた。Bが喜んでくれるならと、わたしは物語を書き続けていた。Bも小説を書くようになり、互いに小説を見せあうようになっていた。交換ノートの中身はいつしかリレー小説になっていた。

 Aによると、Bはわたしに強制されて書きたくもない小説を書かされていたのだという。そんなはずはない。そう思ったけれど、Bが何も言わなければ反論のしようがなかった。

 その日からわたしの居場所はなくなった。クラスメイトの誰とも目が合わなくなった。透明人間になったらしい。

 Bが自分可愛さにわたしを売ったのだと知ったのは、しばらくしてのことだった。B自身がわたしに謝ってきたのだ。Aに目をつけられ、言いたくもないことを言ってしまった。許してほしい、と。怒れば良かったのかもしれないけれど、そのころにはもう透明人間生活に慣れきっていた。Bは自身のもやもやが解消できて満足したのか、わたしの返事を待とうとはしなかったし、また交換ノートをしようとも言い出さなかった。

 AとBとは小学校を卒業して以来一度も会っていない。わたしにとってはどうでもいい二人で、どうでもいい過去だった。それなのに最近このことをよく思い出す。仕事をやめて時間が出来たからだろう。わたしという存在がいつからこのようになってしまったのか、その原因を見つけたいのかもしれない。このときのことが原因だったのだと、AとBのせいだったのだと、そう思いたいのかもしれない。

 確かにわたしはこのときから人を信じることが出来なくなってしまった。大人になった今も、友人や恋人との関係は長続きすることがない。親交を深めれば深めるほど、裏切られたときのことを強く想像してしまう。常に相手を試してしまう癖があった。自ら嫌われるようにふるまうことで、未来に負うであろう傷を小さくしようとする。そんな自分自身に嫌気がさすときもあれば、自分でも驚くほど冷めた態度をとれるときもある。

 そんな振る舞いを続けてきた結果が今につながるのだとするならば、それはどんなに人のせいにしたくとも、やはりわたしのせいなのだろう。けれど、わたしに疑心の種を植え付けたAやBの影響も大きい。ただ、遅かれ早かれそうなってしまっていた気もする。AやBのような人間はどこにでもいる。

 そんなことがあっても、わたしは生きてきた。まるで傷なんて負っていないかのように、AやBとの接点がなくなってからは普通の人を演じてきた。仮面はどんどん厚くなった。AもBもきっとのうのうと生きている。交換ノートのことなんて忘れている。わたしだけがとらわれているなんて不公平だと思ったのだ。そうして忘れることにした。けれど、どこかにひびが入っているような感覚は常にあった。小説は書き続けた。とめどなく言葉があふれてきたからだ。中学生時代が終わるころには普通の人を演じるのにも疲れていて、高校では自分の好きなよう振る舞おうと決意を固めたりもした。

 ソファから離れ、冷蔵庫からチューハイを取り出す。二缶目はレモン味にした。頭がくらくらとしてきて心地良い。昼間からお酒を飲むのが日課になっていた。

 仕事をやめてからもう三ヵ月がたっている。早く仕事を探さなければならない。焦りは日に日に増している。いくら貯金があるとはいえ家賃や生活費のことを考えると心許ない。年内には仕事を決めておきたい所だ。

 仕事をやめたのは新型コロナウイルスがきっかけだった。これまでのありとあらゆる常識に疑問符が打たれ覆り始めたとき、わたしは働くことが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。人生を見つめ直したとき、自分にとって大切なものだけに囲まれて生きたいと思うようになった。けれど、仕事漬けの日々を送っていたわたしは、大切なものが何なのか分からなくなっていた。結局、お酒を飲む日々になっていることを考えると、働いていていた方が良かった気もする。実家に帰ろうかとも思ったけれど、決断出来ないまま日々が過ぎていた。

 壁にかけてあるカレンダーをぼんやりと眺める。今日は十一月二十二日。特に思い入れがあるわけではないけれど、この日のことをどこかで誰かと話したのを思い出した。

 チューハイに口をつけ、再び記憶の旅に出る。そうだ、高校三年生の時だ。わたしが「いい夫婦の日だね」と言うと、彼は盛大にお茶を噴いたのだった。


   ◇


 おどおどとした様子で、文芸部の元部長がわたしの教室にやって来た。一限目のあとの休み時間だった。教室の中には入らず廊下に立っている。いたずら心が湧いて知らないふりをしていると、入口で対応したクラスの子がわたしのもとにやって来た。

「わかちゃんに用事があるみたいだよ。部活についての大切なお知らせがあるって」

 それはわたしの常套句だった。普段はわたしが彼の教室へ行き、全く同じセリフで呼び出しているのだ。教室の前まで来たのは良いものの、初めてのことでとっさに言葉が出なかったのだろう。おどおどした様子を見ていると、彼の思考が手に取るように分かった。おかしくって思わず吹き出した。

 引退したわたしたちに大切なお知らせなどあるわけがない。つい、そんなの知らないと言いかける。対応してくれた子に悪いなと思ってやめておいた。

 彼のもとへと駆け寄ると、ボサボサの頭と眉毛が気になった。メガネも少し曇っている。ひげも剃り忘れている。制服もくたくたで、他人から見られることを意識していない姿だった。彼のことをフォローしておくと、普段はもう少しマシだ。おそらく昨日は徹夜でもしたのだろう。

「どうしたの?」

「夕方、部室に来れる?」

「うん」

「じゃあ部室に集合ね」

「何かあったの?」

「サイトが出来たんだよ」

 一瞬なんのことか分からなくて、わたしは文字通りキョトンとしてしまった。彼が怪訝な顔をしたのを見て少し慌てる。記憶の引き出しを開いていく。思い出すのに少し間があった。そうだ、彼と一緒に文芸サイトを作ろうと話し合っていたのだった。

「……あぁ!」

「忘れてたでしょ? ねえ、今の忘れてたでしょ!」

「覚えてる覚えてる」

 あっはっは、と笑いながら彼の背中をばしばしとたたいておいた。彼はため息をついた。

「……まあいいや。じゃあ、今日の夕方ね」

 そうして別れたあと、わたしの頭の中は夕方のことでいっぱいになった。すっかりうっかり忘れていたけれど、文芸サイトの完成はずっと楽しみにしていたのだ。さて、どんな作品を書こう。

 二限目からの授業はほとんど頭に入らなかった。


 引退した先輩が部室に顔を出すのは迷惑だろうけど、元部長に呼ばれたのだから仕方がない。そう自分に言い聞かせて、わたしは部室を訪れた。引退してそこまで月日はたっていないのに、もう懐かしい感じがした。

 文芸部では文化祭に向けて年一回部誌を発行する。文化祭が終わると三年生は卒業するのが決まりだ。文芸サイトを作ろうと提案したのは、部活を引退する少し前だった。正確には部誌用の執筆が終わったあとだ。彼は余韻に浸っていたかったようで露骨に嫌な顔をした。けれど、いつもの調子で提案にのってくれたのだった。

 部室にいたのは後輩が二人と元部長の彼だけだった。後輩の二人と少し話をしてから彼のもとへと向かう。

「これ」

 彼は、ちらっとこちらを向いて、またパソコンへと視線を戻した。彼の肩ごしにパソコンの画面を覗き込む。徹夜明けなのか、ほのかにわたしの好きな匂いがした。彼が席を立ち、代わりにわたしが座った。

 サイトを見て驚いた。わたしがリクエストしていたものが、そのまま再現されていた。曖昧に伝えたことも、それ以上のものになっている。見た目はシンプルだけど、どこか優しい雰囲気が出ている。彼の人柄がにじみ出ているようだ。文芸サイトのロゴがあり、管理人プロフィールには彼とわたしのペンネームが載っていた。本名や学校名など個人が特定されるようなことは何も書いていない。

 両手にお茶の入った紙コップを持ち、彼が戻ってくる。はい、と差し出されたカップを受け取った。席を交代して、わたしは素直に感想を述べた。

「すごい! わたしだったら作れないよ。作ってくれてありがとう」

「絵も描けたら良かったんだけどね。絵心はないから画像はフリー素材から引っぱることにしたよ」

「充分充分」

「ここに目次ってあるでしょ? ここは――」

 画面を指さしながら、彼がサイトの構成を説明してくれた。サイトのトップページには、これから投稿する作品のタイトルが新しい順に並んでいくのだという。投稿した順に番号もつけるらしい。まだ作品は一つもないけれど、自分たちの作品名が並んでいくことを想像すると心が躍った。お問い合わせページもあった。作品を読んでくれた人から連絡が来るかもしれない。サイト上からは分からないけれど、管理画面からは一日のアクセス数も分かるらしい。

「ひとまず完成だね」

「そうだね。今日中に間に合って良かったよ」

 大きく伸びをする。リラックスした様子で、彼はお茶に口をつけた。

「今日中に間に合わせたかったの? どうして?」

 特に期限を決めていたわけではないので不思議に思って聞いた。聞いた直後に今日の日付を思い出してわたしは気付いた。

「あ、そっか。そういうことね」

「ん?」

「今日はいい夫婦の日だね。ふたりの時間を大切にする日だもんね」

 わたしがそう言うと、彼は盛大にお茶を噴いた。何度かむせたあと、動揺した瞳がこちらに向けられた。

「どうしてそうなる!?」

「初めての共同作業かあ」

「一人で作りましたけど?!」

「まあまあ。今日中ってことは、そういうことでしょ? 君の気持ちは充分に伝わったよ」

「いやいや! 違うし! 明日休みでしょ? 一作目を書き始めるのにちょうど良いかなと思っただけだよ!」

 そういえば明日は勤労感謝の日だ。学校は休みとなる。

「なんだ、そういうことね」

「そういうこと!」

 もちろん答えは分かっていた。慌てふためくところが面白くて、ついからかってしまっただけだ。

「じゃあせっかくだし何か書いてみようかな」

 わたしは言った。今日の二限目からは既に頭の中で一つの物語が動き出していた。

「僕はゆっくり休むよ。ここしばらく徹夜続きだったし」

 落ち着きを取り戻した彼がまた大きなあくびをする。

「ところでさ」

「ん?」

「これ大丈夫?」

 わたしはキーボードを指さした。盛大に噴いたお茶がかかっている。

「あーっ!」

 部室に悲鳴が響いた。


 それにしても、彼はどれほど鈍感なのだろう。

 彼と出会ったのは一年生のころ、文芸部の入部初日だった。まだ顔と名前が一致しない時期、同じクラスだと判明し意気投合したのだ。正確にはその前に教室で会っているはずだけど、彼を彼と認識したのは入部のときだった。

 彼はわたしの思い付きによく付き合ってくれた。女装をしてもらったり、彼の一人旅をこっそり尾行したり、部室の扉をどんでん返しにしようとしたり。実現できなかったものも多いけれど、大抵は嫌々ながらもやってくれた。

 一年生のとき、部誌に載せたわたしの作品を読んで彼は泣いたらしい。

 透明人間が廃線跡を歩く話だ。

 橋梁を渡った先に長く暗く続くトンネルがあり、透明人間は一人で先へ進んでいく。光は差しておらず、出口は見えない。その暗闇の中、透明人間に向かって誰かが話しかけてくる。暗くてよく見えない相手と会話をしながら、透明人間はトンネルの中を進んでいく。会話を続けるうちに透明人間は誰にも理解されない苦しみを、その相手に打ち明けていく。オチもなく、出口の光も見えず、ただ延々と歩くだけの話。最後は書いた自分でもよく分からないけれど、透明人間はトンネルから抜け出せないまま死を迎える。

 わたしにとっては大作だったけれど、人を感動させようとか泣かせようとか思って書いたわけじゃない。自分自身の抱える感情を発散させたかっただけだ。自分自身、あとから読んで恥ずかしくなることがよくある。書かなければ良かったと後悔することは多々ある。この作品も内容もひどければ終わり方もひどかった。けれど、頭の中にとめどなく言葉があふれてきて、どうしようもなく苦しくて、わたしは書いていた。書くことで発散させるのだ。そんな作品の一つだったのに、彼はわたしのひとりよがりな作品を読んで泣いたのだ。彼は超がつくほどお人好しだった。純粋だった。まるで小学生からそのまま高校生になったような幼稚さと素直さも備えていた。昔の自分を見ているような気持ちにもなってきて、からかいたくなってしまう。彼の目で見る世界はどんなに美しいのだろう。彼の目でこの世界を見てみたい。

 三年間わたしの無茶な要求に付き合ってくれた彼は、きっとどうしようもなく馬鹿なのだろう。けれどおかげで、わたしにとっては楽しいと思える日々だった。こんな日々がもっと続けば良いなと、いつしか思うようになっていた。 

 文芸サイトには目標がある。

 十年で百作の作品を投稿する。一人五十作。わたしと彼の二人でやるのだ。そのために作ったサイトだった。それはつまり、高校を卒業してからもわたしの未来にあなたがいることを指している。そんな人はあなた以外にはいないのに、あなたはいつも気付かない。

 結局、彼とは何の進展もないまま高校を卒業した。


   ◇


 十年後の今日になって思い出すなんて、なんて淡白なやつだと自分でも思う。あのとき、もう少し積極的になっていれば、わたしの中で何かが変わっていたのだろうか。

 高校卒業後、わたしたちはそれぞれ違う大学に進学した。しばらくは連絡を取り合いながら、互いに書きたい時に小説を書いて文芸サイトに掲載していた。けれど長くは続かなかった。就職活動で忙しくなり、社会人になってからは仕事に追われた。鬱屈とした様々な感情には、いつしか蓋が出来るようになっていた。見て見ぬふりをして、大人だからと割り切って紛らわした。小説を書くという行為自体に意欲が湧かなくなってしまった。彼と連絡をしなくなってから、もう七年近くがたつ。彼からも連絡が来ることはなかった。

 大学時代、社会人だった時代を振り返ってみても、彼のような存在は見当たらなかった。何も気負わず接することが出来たのは彼一人だった。それは恋人というよりもどこか家族のような接し方だったのかもしれない。彼のことが好きだったのか、実はよく分からない。けれど、一緒にいて気持ち悪いと感じたことはなかった。匂いはわりと好きだった。何度も彼に嫌われそうなことや怒られそうなことを試して、試して、それでも彼はいつも変わらず接してくれた。何をしても拒まれることはないだろうと安心している自分は確かにいた。

 もちろん、あれから年月がたってしまって彼も変わっているだろう。人は変わる。わたしも変わった。変わらないことを望むのは自分勝手というものだろう。

 三缶目に口をつけ、スマホを手に取る。あの文芸サイトに久しぶりにアクセスしてみたくなったのだ。

 あのときは十年で百作なんて言ったけれど、現実はそう甘くない。そういう大きな目標を掲げたものはたいてい頓挫する。わたしたちのサイトも更新は止まっているだろう。けれど、それはそれで構わない。昔書いた作品を読んでみるのも悪くない。

 サイト名がなかなか思い出せず時間がかかった。いくつかの検索ワードを入れて辿り着いた。辿り着いて、わたしは思わず目を見張った。

 サイトは止まっていた。

 ただし、役目を終えて。

 スマホ用に表示対応はしておらず、ほとんど当時のままだった。違うのはトップページにある大きな文字と、更新され続けた作品群。目次には最新順で作品タイトルが並んでいた。その最新作は「とりあえず十年で」という作品だった。百番と番号が振られている。更新日時は今日の深夜。日付が変わったあとすぐに掲載したようだ。十数時間前に役目を終えるまで、このサイトは動いていたのだ。

 百作目をタップし目を通す。そこに書かれていたのは、わたしたちが文芸サイトを作ることになったときのやりとりだった。前後には彼の現在の様子が描かれている。自分自身が作品に登場していることに気恥ずかしさや、もだえたくなるような思いもあるにはあったけれど、何よりも作品作りを続けていたということにわたしは驚いていた。

 百作目の最後にはあとがきが添えられていた。


 あとがき


 長年のご愛読ありがとうございました。

 高校三年生のときに、この文芸サイトは始めました。同じ文芸部に所属していた友人と二人で作ったものです。

 当初からこのサイトは十年で百作の掲載を目標としていました。作品の出来は読んでいただいたままですが、僕自身はその時その時の気持ちを大切に創作をしてきたつもりです。全く更新出来ない時期もありましたが、十年という長い年月を僕はこのサイトとともに歩んできました。このサイトにはとても思い入れがあります。きっかけをくれた友人には今でも感謝しています。

 この文芸サイトでは新たな作品の掲載はありません。だらだらと続けたい気持ちはありますが、一度ここで自分自身にも区切りをつけたいと思っています。

 またどこかでお会いしましょう。

 ありがとうございました。


 過去作にも目を通すうち、彼と無性に連絡を取りたくなった。サイトにはお問い合わせページがある。電話番号やメールアドレスが分からなくても、そこから連絡を取ることが出来る。彼はどんな反応をするだろう。物語のような返事をするのだろうか。

 彼の最後の小説には三日後にわたしからメールがきたとあった。その文章を読んでわたしはひらめいた。というよりも、いたずら心が湧いた。

 ソファから立ち上がり、机の引き出しを探る。古い手帳をパラパラとめくる。最後のページにそれはあった。

 わたしは久しぶりに小説を書きたい気分になっていた。大学生以来だ。お金を得られるわけでも、お金にかわる何かを得られるわけでもない。こんなことをしている場合じゃないのはもちろん分かっている。これは現実逃避だ。仕事を探さなければならない。それでも言葉があふれてくる。この感覚は久しぶりだった。彼の作品群が、わたしを奮起させたのだ。

 小説を書くという行為は、わたしにとって心の膿を押し出す行為だった。でも、その感覚とはまた違っていた。今はただ、彼に読んでもらいたかった。わたしの作品を読んで泣いてくれた彼に。

 きっと今は目標を達成した余韻に浸っていることだろう。物語のように三日後の連絡を心待ちにしているかもしれない。けれど、彼の望む物語とは違う再会を演じてみたいと思った。

 思いついたのは、文芸サイトに百一作目を掲載するというものだ。

 止めたはずのサイトが更新されたら彼は驚くだろう。一度完結させてしまったものに手を加えられるのは嫌がられる可能性もあるけれど、彼なら許してくれそうな気がした。もともとは二人で管理していたサイトだ。共有パスワードは手帳に残していた。

 パソコンを開き、早速執筆作業に取りかかった。なるべく早いうちに書いてしまいたかった。物語は既に頭の中で動き出している。早く、早く、形にしたい。

 ブランクもあるから書き上げるのに時間はかかるだろう。推敲も必要だ。それでも、遅くとも年内には掲載したい。作品名は今日を記念して「十一月二十二日」にしよう。

 忙しくなる。この忙しくなる感覚が、今のわたしには心地よかった。

 長く続くトンネルから、ようやく光が見えた気がした。

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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