①
君が家の何処かで咳き込んでいて、その音は僕の部屋まで響いてくる。
僕は部屋から顔を出して廊下を覗いてみると、キッチンの手前あたりで床に寝そべった君を見つける。とても苦しそうで痛々しい。
「苦しそうな」と言うのは僕の主観でしかなくて、君は表情を少しも歪ませていない。
君の咳き込む姿が見ていられなくて、僕が苦しんでいるのかもしれない。
見ていることしかできない僕は、君が死んでしまうんじゃないかと心配になる。
僕にできること、と言うよりしなければいけないことは君を一刻も早く医者に診せることだ。心配している場合ではないのだ。
君を籠に入れると、かぼそい声でしばらく鳴き続けていて、僕はとても酷いことをしている気がして、通院をやめるか悩む。
いや、あれだけ酷い咳を見ておきながら通院しないのは飼い主として最低なことだと考え直す。
家から1km先の病院まで君を入れた籠を抱えて歩く。
でも今は真夏の炎天下だから、当然全身から汗が吹き出してくる。しかも意識が朦朧としてきて軽い熱中症になったみたいだが、病院に着いてすぐ待合室のウォーターサーバーで喉を潤すことができたから大丈夫だ。
医師に呼ばれて診察室へ入る。
「クーちゃん、こんにちは」と医師は笑顔で言うが、籠の中の君にとって僕以外の人間は恐怖でしかない。
縮こまる君を籠から出して診察台に乗せる。
医師は体重を計測したり、聴診器で胸の音を聴いたりしているが、君は身動きひとつできずに「お利口な子だね」と言われる。褒められたみたいだ。
「それでは、レントゲンを撮りましょう」
医師に抱え上げられる君は、肉球から汗をたくさんかいていて診察台を濡らしてしまっていた。
待合室に戻り、猫の雑誌を読んでいると意外と早く「クーちゃん、レントゲン終わりました」と呼ばれて再び診察室へ入る。
静かに診察台に座る君の姿を見て安心する。
医師はレントゲン写真を見ながら「肺に白い部分がありますね。これが酷くなると石灰化して命に関わります。ステロイドを服用しながら様子を見ていきましょう」と言う。
2万円近い支払いを済ませてから、また炎天下のもと、家まで歩いていく。
僕はまた朦朧としながら、10年前に君が家に来た日を思い出す。
②
当時の僕は、3年に渡る引きこもり生活から脱して、パニック障害と適応障害を改善させるために服薬治療を始めていた。
部屋の外に広がる世界は恐怖でしかなくて、近所にある病院への通院すら親と一緒じゃないと行けなかった。
そんな僕にとって、家族以外の人間への不信や、自分の心を癒すために「猫を飼ってみたいな」と思うのは当然のことだった。
両親とペットショップへ行き、ガラスの向こうにいる子猫達を眺める。
ロシアンブルー、マンチカン、スコティッシュフォールド。
初めて見る猫種の子猫はとても可愛らしい。寝ていたり、鳴いたりしている。
その中で最も気になったのがアメリカンショートヘアの子猫だった。
テレビcm等で馴染みのある黒とグレーの縞模様。正直に言って、他の子猫より値段が安くて両親の経済的負担が軽いという点が気にいったのだが、その小さな身体と目と鼻と口は見れば見るほど可愛らしく思う。
店員にお願いしてアメリカンショートへアの子猫をゲージから出してもらう。
恐る恐る腕に抱いてみると、僕のことを見つめながら大きく口を開いて鳴いている。
「アメリカンショートヘアのメスです。有名な猫種ですよ」と店員は言う。
性別によって性格が違うものなのかも知れないが、腕に抱いたときの今まで経験したことのない感触でこの子を連れて帰ると決めていた。メスだろうが、オスだろうがどちらでも良かった。
両親に目配せして、この子猫を家に連れて帰ることにした。
家に帰ってすぐに自分の部屋で籠から子猫を出すと、慣れない環境に警戒して周囲を見渡したり、臭いをかいだりしている。
自分で望んだ結果なのだけれど、いま目の前の状況はなんなのだろうと思う。
まるで夢でも見ているみたいな感じだ。
僕の部屋に、子猫がいるなんて。本当に、飼うことになるなんて。
その小さな身体を両腕で抱いて、「可愛いね」と言う。
本心では、住み慣れたところから勝手に連れ出してしまった背徳感と生まれて来てくれたことへの感謝が複雑な感情を作り出していた。
僕は、子猫に「クー」という名前を付ける。当時、ハマっていた漫画に登場する猫の名前から取った。
クーと生活を共にしながら日に日に精神が浄化されていく感じがする。長期間の引き篭もり生活で蓄積した「心の淀み」が癒えていく。
クーはとても臆病な性格で、雷の轟音はもちろんのこと、インターホンの音にすら驚いて何処かに隠れてしまう(インターホンが鳴ると、誰かが玄関に現れることを学習している)。
子猫の頃から鳴き声がとても小さかったけれど、成猫になっても他の猫と比べると小さな鳴き声だ。そんなところが飼い主に似ても仕方ないだろうと思ったり、可笑しくも思ったりした。
自分の王国をマンションの1室に築き人間を侍らせ、栄華ある生活を送っていたが、約3年後に外の世界から新たな王族が闖入する。
僕の母が職場の同僚から受け取ってきた、捨てられた子猫2匹。その同僚が、大阪観光中に拾って来て関東まで持ち帰ったようだ。
この2匹は兄妹でとても仲が良いから、兄妹合わせてもらって欲しいとお願いされたらしい。
オスはキジトラ、メスは白色を基色として多少、下半身にキジトラ模様がある。
名前は兄妹とも妹が決めた。オスが「ハル」、メスが「モモ」。ネットで猫の名前と検索して人気のあるものらしい。
ハルとモモはよく食べ、よく眠りすごい早さで成長する。クーはあっという間に背を抜かれてしまうのだが、クーの方が平均より小さな身体だったのかもしれない。
そしてこの兄弟は喧嘩も強い。
クーが廊下を歩いているだけなのに兄妹どちらかがちょっかいをだしたり、わざと近くで豪快にジャンプしたりして驚かせようとする。
でもクーも負けていなくて、ハルがのんびり歩いているときに突然猫パンチを顔面に放っているところを目撃したことがある。
以前は家族の愛情を一身に受けていたクーだが、ハルとモモの方が活発に行動するので目が離せない。手のかかる猫の方が可愛かったりもする。
僕に取って、初めて飼った猫で一番苦しい時期を癒してくれたのだが、年を取ってより大人しくなってきたこともあって、その存在は少しずつ薄くなっていく。
例えるなら空気のような、あって当たり前だけれど生きていく上で絶対に必要な存在。
③
光陰矢の如し。
クーは10歳の大台に突入して、僕ももう結婚して子供がいてもおかしくない年齢になった。
猫の10歳は人間に換算すると還暦を迎えているので、身体の不調が現れるのは自然なことだ。
またアメリカンショートヘアという猫種は、肺を悪くしやすく、咳き込むことが頻繁に見られるのは珍しくないみたいだ。
炎天下を動物病院まで往復したので僕の息は荒い。
自分の部屋で籠からクーを放す。すぐに猫界最強のおやつ「チャオチュール」をご褒美に出すと勢いよく舌を動かして舐めている。
猫はみんなこれが好きなのだ。
母が仕事から帰ってきてから、3日に1回の服薬を行う。
処方された粉状のステロイドを水に溶かして、シリンジを使って経口服用させる。
母に抱かれた状態で僕が服用させるのだが、その無防備な状態はぬいぐるみのようにふわふわしていて可愛い。
子猫の頃よりも可愛くなっている気がする。
僕が不慣れで、ステロイドを口の外に外してしまうことがあったが、今回はうまく口の中に入った。
しかしステロイドを服用したところで完治することはないので、薬量を調整しながら咳の回数を少なく抑えていきたい。
服薬の時間が終わると、クーは廊下に置いている椅子の上に飛び乗り香箱を作る。
僕は君の安心しきった寝顔を見ながら、これからあと何年くらい一緒にいられるんだろうと思う。
ハルとモモの影に隠れてしまっていたけれど、肺を悪くしたことでクーの様子が一番気にかかるようになった。
君は苦しいかもしれないけれど、家族からの愛情の比重が君に傾いていることは結果的には悪くない。
首を優しく触ってマッサージをすると、眠気に誘われていた君は起きてしまうけれど気持ち良さそうだ。
君が僕の心の淀みを癒してくれたことを覚えている。
5年後の僕も10年後の僕も50年後の僕も覚えている。
君が苦しんでいたら、少しでも楽になるようになんでもするし、最後まで目を逸らさずに見届けたいと思っている。
君が来たから僕は優しくなれた。それまでは、他人の行動が目についてイライラしていたけれど、そんなことはあまりなくなった。
本当に、心から感謝している。
僕は欲ばりな人間だから、もうひとつ君に望みたいことがある。
あと10年くらいは生きていて欲しい。
そうしたら僕は、僕が君に癒されたように、君の身体を癒すことに同じ年月を注げられるのだ。
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