『三景 第三景「町田(後編)」』著者:へっけ

※前回の『三景 第三景「町田(中編)」』はこちら


第五節「言葉にならない、笑顔」

(1)

 深い呼吸、体重の減少。嶺は、少しずつ衰弱してきている。昨日よりも今日、今日よりも明日と日を重ねるごとに、その瞳の潤いが失なわれていく。食後の嘔吐が頻回に見られて、満足に栄養を摂取できていない。でも目が合うと、残り僅かな気力を振り絞って僕を睨めつけるのだ。夏子を部外者たる僕から守ろうとしているのか。でも僕は別に、夏子に危害を加えようなんて思ったこともないし、むしろ彼女の助けになろうと考えながら生きている。僕が考えている最善の案は、嶺にとっては受け入れ難いものだろう。冗談じゃないと思うだろう。しかし、仕方ないではないか。僕と夏子の時間、空間の中には、他に何も存在しない方が良い。

 今日は、先日夏子の家に泊まりに行った際に、突然部屋を飛び出して帰ったことを謝った。夏子は優しいから、全然、気にしていないよと言ってくれる。でも何か心配なこととかがあるなら正直に教えて、と気遣ってもくれる。僕が最も心配していることは、嶺に原因があるなんて口が裂けても言えないのだ。

 紅茶を1杯ご馳走になって、少し小説の話をしてから、早い家路につくことにした。玄関で靴を履いていると、僕のお見送りをしてくれていた夏子の足元から嶺が現れた。初めて歩いている姿を見たが、痛々しく足を引きずっていても非常に気品のある顔つきだ。猫は、人間以外の生物の中では、最も高等な知能と精神を有しているのかもしれない。そして、残念なことに人間の卑劣な部分も有しているようにも思う。それは、人間で言うところの軽蔑。大きな瞳で僕のことを下等な生物のように睥睨する。まるで自分こそが夏子に唯一選ばれし存在であり、お前との逢瀬など一時の児戯に等しいものだと思われているような気さえする。僕の妄想ではなく、僕は、僕を軽蔑する奴、見下す奴、無視する奴が大嫌いだ。だから許せなくて、リュックの中のサバイバルナイフを抜き取りたい衝動に駆られるが、夏子の手前、辛抱しなければと自制してマンションを後にした。

 外に出ると、息が真っ白になるほどの寒気に襲われる。室温とは大違いの寒さだ。僕は、寄り道することなく最寄りの駅から電車に乗り、新たな住処へと戻ることにした。


(2)

 人暮らしを始めた。情けないことに、現在の収入では築年数が古い4畳半のアパートしか借りられないのだが、丁度、横浜市港北区に条件に見合う物件があったため、実家を出ることにした。

 一方、夏子はと言うと、就労はもちろん、施設のボランティアに復帰することも困難なほど、心身のバランスが崩れていた。最早、服薬していることを隠そうともせず、食前後に猫のイラストが刺繍された巾着袋から錠剤を取り出して一息にコーヒーで服薬する。ある日、一日何錠くらい飲んでいるのか尋ねてみると、「10錠くらい」と答えていた。副作用によるものか、手や頭の振戦、強い眠気、食欲の減退という身体的な変化にも苦しんでいた。

 夏子の身体に負荷をかけないよう、ふたりで会う場所はおのずとお互いの家やその周辺になっていき、やることと言えば散歩や喫茶、読書の3通りくらいしかない。それでも僕は幸せだった。できないことが増えていっても、それはかけがえのない時間だったのだ。何故かと言うと、夏子が時折、文庫本のページをめくりながら虚な瞳で、言葉にならない笑顔を見せてくれていたからだ。

 僕は、東横線沿いのアパートに家具家電、その他の荷物を揃えるとすぐに夏子を部屋に呼ぶ。

 瓶タイプのインスタントコーヒーをぬるま湯で挿れて、夏子の好きな不二家のチョコレートと一緒に出した。夏子は、コーヒーとチョコレートを交互に口にしている。コーヒーを飲み干し、2杯目を挿れると大きさに統一感がない錠剤と一緒に、夏子の喉と脳は潤いを得る。


「世の中の綺麗なところも汚いところもちゃんと見たほうが良いよ。自分がいまいる場所とか、向かいたい方向が分からなくなっちゃうから」

 夏子は言う。目を合わせて、硬い声と表情で言う。夏子の手には、メタルフレームの眼鏡。僕は、その眼鏡を受け取ってかけてみると、歪んでいた視界が明瞭になる。年季の入った四畳半、野良猫の散歩道になっている庭、夏子の姿形。あまりに周囲の輪郭が見えすぎて眩暈がする。

 僕は今まで、世界を明瞭に見えていなかったことよりも、目の前の夏子のことさえぼんやりとでしか見えていなかったことを知って落ち込む。これからは、この眼鏡のレンズ越しに夏子を見ていける。初めてのプレゼントだ。夏子、ありがとうと思う。


(3)

 夏子の入院が決まった。その知らせは突然のことではあったが、なんとなく予想はしていた。夏子の心身の不調が改善される気配はなく、鬱状態、食欲減退、妄想等の症状はより酷くなっている。薬の副作用も強く出て、服薬治療に限界を感じていた。

 この頃から起きた出来事はよく記憶していて、夏子の表情、特にその悲しみに暮れている声はつい最近、聞いたことのように思い出せる。


 夏子が住むマンションの正面玄関を抜けると、最上階まで吹き抜けになった公園のような空間がある。住民は、そこにあるベンチに座り、植木を眺めたり、スマホをいじったりしながら、穏やかな時間を過ごす。

 夏子と僕がその公園のベンチで座っているのは、いつ退院できるか分からない入院を前に悔いなく話をしておきたかったからだ。

「夏子は限界までがんばったと思う。通院だけで、できることはやったよ」

 こんな何の意味もない励まししかできない自分が歯痒い。

 夏子は、堰を切った。涙の滴がポロポロと落ちていく。思い切り泣いた。いつまでも悲しみを振り切れないと、たくさん泣いた。僕も痛くて泣いた。人間に生まれた以上、死ぬまで悲しまなければならないのかと絶望した。でも僕が諦めたら、儚い夏子は本当にこの世界から消えてしまう。そんな確信があった。だから僕ががんばるのだ。歯を食いしばって涙を拭う。夏子にもらった眼鏡をかけ直す。僕は言う。

「夏子の悲しみが何処から来ているかは分かってる。嶺のこともそうだけど、あの部屋の小さな仏壇」

「・・・・私は今、消えて無くなりたいの。過去にも現在にも引きずられて、いったい何処に生きて良い場所があるんだろう。分からないの・・」

 夏子は泣きながら、精一杯、思いを言葉に変換してくれている。ハンカチを渡すと、夏子はそれを目に当てながら深い溜息をつく。 今どんな言葉をかければ良いのだろう。しばらく沈黙に耐えながら、見通せない未来への不安に引きずられている。

「本当は、夏子が生きちゃいけない場所なんてなくってさ、夏子は信じてくれないかもしれないけど。世の中、汚いことばかりで嫌になるよね。その中で夏子が経験したこと。あの仏壇のことだけど、夏子は全く責任を感じることはない。絶対に。入院する前に、一緒に終わらせよう」

「君の言うことを私も信じたいよ。でもダメなの。私にも責任がある。あれは重すぎて、悲しくなってしまう。抱えきれないんだけどね」

 僕は、夏子の息が整うまでじっと待つ。今日を逃したらダメだ。入院する前に終わらせる。夏子の息が落ち着いて、涙も止まったみたいだ。夏子の手を引いて、あの部屋へと向かう。


(4)

 夏子の腕が細くなっていることに気づいた。副作用で、満足に食事を取れないから酷く痩せてしまって、その細い腕は血管や骨が浮き出ている。肌の色は相変わらず美しくて、雪原のように白い。

 夏子は、コーヒーを飲み終えたマグカップを2つ洗うと、腕の細さを隠すようにまくっていた袖を戻した。

 リビングで休憩をして、心を落ち着かせた僕等は、あの部屋へと足を踏み入れる。

 以前に伺った時と変わらず、本に囲まれた部屋。しかし、精神病関連の本が新たに本棚の一角を占めている。以前から持っていたのだろうが、より症状が深刻化したこともあって買い足したのかもしれない。

 部屋の奥から滲み出る、禍々しい威圧感。季節は冬だと言うのに、全身から汗が吹き出してくる。夏子の心を壊した元凶。

 それは以前と同様に、とても小さな仏壇。僕の実家にある仏壇の半分くらいしかない。僕は仏壇の前に立ち、隣でたたずむ夏子の瞳を見る。泣き腫らしているけど、何か覚悟を決めているような鋭いな目つきだ。

 僕も覚悟を決める。狂ってしまったと思われたとしても、ここで終わらせないといけないのだ。

「夏子、ごめん。荒っぽいけど、もうこんなものなんてあっても仕方ないから」

 目を見開いて怯えた様子の夏子。

「にゃー」

 今、嶺の鳴き声が聞こえた?半死半生の状態で?

 姿を見せない嶺に惑わせられながらも仏壇に置かれた骨壺を厳かに両手で持つ。そのあまりの軽さに瞠目する。これがかつて人間の生命が宿っていたものの重さ。不思議な感じ。僕の最も愛する夏子が産み出した胎児。夏子の魂の分身なのだから僕にとっても可愛らしい存在であると思いたい。でも、この子には半分、犯罪者の血が流れていたから、やっぱり此処にあってはいけないなと思う。

 仏壇のすぐ脇にあるベランダの窓を開ける。凍てつく風が吹く。両手に持っていた骨壺を片手に持ち直す。

 今からすることは僕の独りよがりな行為で、人として間違っているのだと思う。でも、それでも僕は絶対に揺るがない。夏子の記憶には無かったことにしてやりたい。

 腕に血管が浮き出るほどの力を入れて、思い切り窓の外へ骨壺を投げる。薄闇の中、マンションの電灯で照らされる骨壺は、地面へ吸い込まれるように落ちていく。何とも呆気ない音が響いたが、ベランダに出て下を覗いても何処に落下したのかはよく分からない。夏子、勝手なことをしてごめんと思うけど、どんな反応が来るのか怖くて顔が見れない。

 いても立ってもいられず、すぐに嶺の部屋に向かって走る。途中、リビングで足を捻らせて転び、顔面を床に強打する。ものすごく痛い。顔を手で押さえながら立ち上がると、指の伱間から血が吹き出してきた。鼻血なんて久しぶりだ。一瞬、意識が無くなり再び床に顔面を強打する。朦朧とする意識、痛みが鈍い、というよりも全ての感覚が麻痺してきているようだ。気持ちが落ち着かない。アドレナリンがたくさん分泌されているみたい。背後から夏子の視線を感じる。ひとりで満身創痍になっている僕は頼りなく映っているんだろうか。いるんだろうなと思う。もうすぐ終わるから、あと少しだけ頑張らないといけない。シャツの袖で鼻血を拭い立ち上がる。リビングから廊下へ出てすぐ手前にある、嶺の部屋の扉を開ける。

「嶺っ!!!!!!!」

 僕はこれまでの人生で最も大きな叫び声を上げながら、部屋の中を見回してみるが嶺の姿は確認できない。またクローゼット中にいるのかと覗いてみると、なんだ?漆黒の穴が空いている?のだが生き物という感じではないので今は無視する。

「嶺っ!何処だ!!」

 さっきよりは気持ち抑えめに叫ぶ。いったい何処に姿を隠した?鳴き声を聞いてから、何分も時間は経っていない。あれ、ちょっと待てよと思う。何か違和感を感じる。何だったのだろう、さっきの穴。もしかしてブラックホール?星を飲み込み、光すら抜け出せない天体。銀河の中心に存在すると言われているやつだ。何故こんなところにあるのだろう。クローゼットの中に。嶺の寝床に。小説の世界でもないのだからブラックホールなんかではないと考え直して、もう一度クローゼットを覗いてみるとやっぱり穴が在る。でも僕が穴を視覚できているということは、光を感知している証拠だ。つまりこの穴は、本物のブラックホールなんかではないのだ。僕はブラックホール改め、漆黒の穴をじっと見て暗闇に目を慣らす。何を見ているのか分からなくなって気持ち悪い。口に広がる酸味ある唾を飲みこんで耐えていると、少しずつクローゼット内の輪郭が浮かび上がってきた。暗順応。嶺の餌皿や寝床のクッションが確認できる。そして漆黒の穴はというと、それは平面ではなく立体感のある楕円形だった。恐る恐るそれに顔を近づけてみると、美しい毛並みを持つ嶺であることが分かった。

 僕はズボンの裾に隠し持っていたサバイバルナイフを手にする。

 今、ここで終わる。僕の苦悩の原初を終わらせる。その感触が心地よい首根っこをつかんで腹部を裂こうとしたが、これ違うって思う。もう嶺は嶺じゃない。ピクリとも動かない。抵抗しない。

「なんだよ、嶺。死んだのか」

 嶺の身体にはまだ体温が残っているけれど、すでに死後硬直は始まっているようだ。僕は、深く溜息をつく。嶺は僕が殺さなきゃいけなかったと思う反面、殺さずに済んだと安心している自分が情けなくなってくる。でもまだ、できることがある。サバイバルナイフを嶺の腹部に当てる。刃の腹で少し押してみると中に詰まっている内臓を触った気がした。胃、腸、肝臓、脾臓。何の臓器だろう。最早、機能が停止した肉塊。直接、手で持って感触を味わいたいと思った。腹部から刃を離して、切っ先を腹部の中心に向ける。僕は血液が苦手だけれど、形容し難い衝動は抑えられない。

「嶺に何をするつもり?」

 夏子の声だ。犯罪者の魂は始末した筈なのに、まだ悲しそうな声をしている。じゃあやっぱり嶺がいけないんだ。

「夏子。君の悲しみの原初を全て断ち切らなきゃ。犯罪者の魂だけじゃダメだ。もうひとつ。嶺も今、此処で殺す。そして、夢みたいな心穏やかな日々を一緒に送ろう」

 その言葉は虚栄だった。僕は今日を境に夏子とは、何処へも行けなくなることを知っていた。「心穏やか」なんてものは夢物語でしかないことは分かっていた。それでも、夏子の笑顔を見たかった。あり得ない話をして、笑って欲しかった。

 うん?今、見えた気がする。ほんの数秒の幻覚だったのかもしれない。でもその言葉にできない泣きそうな笑顔は、僕を無力化する。

 サバイバルナイフを嶺から引いてもう一度、夏子の顔色を伺うと、その瞳に悲しみが少しも滲んでいないことに気づいた。何の感情も持ち合わせていないような、虚無の瞳。

「ナイフを引いてくれてありがとう。もう死んでるんだから、殺すことはできないよ」

「もう死んでるんだからって何?どうして分かったの?」

「私が殺してあげたの。あなたと会う前に毒餌を食べさせた。私が入院したら誰も面倒を見る人がいないから。餓死よりはましでしょ?もしあなたに預けなきゃいけなくなったら酷い死に方をしそうだったし。まさか死んだ嶺を切り刻もうとするとは思わなかったけど」

 そうか、僕が嶺を憎んでいたことなんて、見透かされていたか。そんなことよりも、あまり信用されていなかったことが辛い。

「私は誰も信用していないの。あなただけではなく、全ての人間をね」

 僕は、君しか信じていないのだ。

「弘君に酷く裏切られてからね。でもあなたと過ごした日々は本当に楽しかった。今まで生きてきて、こんなに幸せだと思ったことはないの」

 夏子は、瞳も声も表情も変化に乏しくとても静かだ。僕はその夏子の雰囲気に支配されたくなる。雑然としていた思考がクリアになる。今、伝えなきゃって思う。サバイバルナイフをズボンの裾にしまってから姿勢を正して、まっすぐな気持ちで言う。

「それは僕が伝えたかったことなんだ。幸せだったよね。夏子に出会うまでは、僕の人生はどん詰まりだった。もう何をしても駄目で、死にたくないけど、死ぬしかないのかなって思ってた。でも君に会って、大好きな本の話をして、音楽の話をして、手を繋いで歩くことができた。そんなかけがえのない時間に僕は救われたよ。今だけじゃなくて、明日の僕も来年の僕もきっと救われている」

「私も癒されたよ。ありがとう」

 別に完全に信用されていなくたって大したことはない。と言うのは嘘で、やっぱり結構ショックだった。でも夏子からこの言葉を聞けたから全部オッケーなのだ。

 僕も言う。

「ありがとう」

 少しだけ夏子の瞳に感情の揺れを感じたけれど、僕なんかよりもずっと強い人だから、もう泣いたりなんかしない。部屋に入る前に、たくさん泣いたし。僕はというと、また少し泣きそうになっているけれど涙はこぼさない。

「お医者さんの言う通り薬を飲むんだよ。ちゃんとご飯を食べて、夜更かししないでしっかり寝て。元気になったら帰ってきてね。待ってるから」

 人に言われなくなって、夏子は規則正しい生活を送って、元気になって、ひとりで生きていけるのかもしれない。でも僕は夏子がいないと生きていけないから、「待ってる」というのは自分のために言った言葉。

「何年先になるか分からないよ」

 夏子もちょっと嬉しそうに笑ってくれているから、僕達はなんとかなるのかもしれない。

「あなたも元気でいてね」

「僕は、これからもずっと元気だよ」

「本当に?生きてるといろいろあるんだよ?」

「本当だよ。いろいろあってもさ」

「それなら良いんだけどね。私も安心して治療に専念できるから」

 夏子は、自ら手にかけた嶺の抜け殻に視線を投げる。

「嶺を葬らないと。もう夜遅いけど。お墓作れるところないかな」

「心当たりがある。夜の内に終わらせよう」

 身支度を簡単に済ませた後、嶺の抜け殻をペットキャリーに入れて夏子のマンションを後にする。近くのコインパーキングに停めていたレンタカーに乗り、エンジンをかけようとしたがひとつ思い出した。ペットキャリーを膝に抱く夏子を車内に残して、再びマンションに戻り、敷地内の駐車場を散策していると見つけた。夏子の胎児の骨。骨壺が思ったよりも頑丈にできていたようでひびが入っているが、骨は散乱していない。僕は骨壺を両腕で抱えてコインパーキングに戻ると、レンタカーのトランクにしまう。

「何かあったの?」

 夏子は怪伬な様子で問うが、何でもないよゴミ屑を捨てに行っただけだと答える。

 エンジンをかけてゆっくりとコインパーキングから国道に出る。

 夏子と一緒に過ごせる時間はあと僅かなんだと思う。でも憂鬱なんかじゃない。むしろ、なんでかか爽快な気持ち。

 僕は、夏子と出会った時から変わらない思いがある。夏子の言葉と表情を記憶して、忘れないようにすること。ひとつでも多く。あと僕と話をしてくれてありがとう、という思い。君の話も聞かせてくれて嬉しかった。

 さて、最後だ。

 お別れだ。

 下を向かない、方向感覚を失いたくない。


第六節「朝」

 住み始めて何ヶ月も経っていない、錆び付いた老アパート。夏子が此処に来てくれたのは久しぶりのように感じるが、実際それほど経っていない。

 僕は胎児の骨が入った骨壺を、夏子は嶺の遺体が入ったペットキャリーを持って僕の部屋の中に入る。まさか夏子と一緒に戻ってくるとは思っていなかったため、室内は本や服で散らかったままだ。掃除は1週間くらいはしていなくて、夏子には見られたくなかった。恥ずかしい。でも夏子は、そんな些細なことなんて気にしない。脇目もふらずに奥のベランダの窓から視線を外さない。どうやら感づいていた、いや確信をしていたようだ。僕が思いついた葬る場所を。

 僕は、床に散らばる本や服をうまく避けながら部屋の奥まで進み、ベランダの窓を開ける。ベランダの柵とアパートの塀の間に、猫2匹くらいは通れそうな狭い地面がある。僕は柵に跨って塀に手をつけてバランスを取りながら地面に降りる。夏子にお願いしてクローゼットから軍手を持ってきてもらうと、僕はそれをはめた手で土をかき出していく。意外にも土は水気があって軟らかい。それほど時間をかけなくて済みそうだ。深い穴を掘りたい。野生動物に掘り返されないように深く、深く、深く掘る。額に汗が滴る。夏子が気づいて、ハンカチで汗を拭ってくれる。その何気ない優しさを忘れない。

 深さ70センチくらいの穴が掘れた。これは墓穴だ。夏子を追い詰める記憶を全て葬るためのもの。僕は夏子に、ペットキャリーから嶺を出すよう伝える。夏子は両腕で抱き上げて「ごめんね。待っててね。いつか私も行くから」と呟いていた。

「嶺は今、穏やかに逝ったと思うよ。夏子にまた会えるんだと期待して」

「うん。でも嶺と同じところには行けないかも。私が殺したんだもん」

 確かにそうだ。嶺は、夏子が送った。でも嶺は病で衰弱して酷い苦痛に長いこと耐えていた筈だ。夏子のしたことは、安楽死というひとつの選択肢だったのだ。そして胎児のことは、夏子が自責の念にかられることはない。殺されるような目にあったのは夏子自身だ。

「夏子は命を救ってもいるんだよ。僕のことね。大丈夫、きっと嶺のところへ行けるはず」

「そうなのかな。そういうことにしておくか」

 納得しきっていない夏子は表情を曇らせたままだけど、本当に大丈夫なんだよって思う。夏子は僕だけじゃなくて、これから続いていく長い人生の中でいろんな人を救う。僕みたいな人生行き詰まりの人も、酷い失恋をした女の子も、難病に蝕まれたおじさんも、夏子はその笑顔と声で救うことができる。だから大丈夫なのだ。夏子は、居て欲しいと思われているのだ。

「誰に?」

「あれっ!僕、今の口にしてた?」

「してたよ。心の声、丸聞こえだよ」

「気づかなかった。まあ、別に聞かれても良いか」

「それで私は、誰に居て欲しいと思われてるって?」

 僕はへえって思う。今ここには、人間の骨と猫の死体がある。僕等のように生きて動いていたのに今は動かない。それは人間にとって最も恐ろしい死だ。死を突きつけられいるのだから、僕も夏子も緊迫していて当然なのだ。つい自分自身の死にまで想像が広がってしまう。例えばいつか僕は、嶺のように死病に罹って死ぬし、胎児のように骨になって存在は風化していく。そうなったら僕の意識は何処に行くのだろう。天国?地獄?それとも無?やばい、死ぬのがすごく怖くなってきた。

 そんな死に支配された状況なのに、夏子は嘘みたいに微笑んでいた。

 ちょっと恥ずかしそうに手で口元を隠していて「何その反応?可愛い」というのが正直な感想なんだけど、うん?また口にしてた?

「そんなこと聞いてないし。答えてよ。私は誰に居て欲しいと思われてるって?」

「やっぱりまた無意識に言ってたか・・・それはいいや。君に居て欲しいと思っているのは、一言で言えば世界」

「世界?大きすぎるよ。そんなの。よく分かんない、どういうこと?」

「世界っていうのは、例えば家族とか、友達とか」

「そんなのいない」

「まだまだ他にも沢山いる。鷹橋書店の店員、菖蒲園のスタッフ。夏子が好きな本作りに携わる人達。そして胎児と嶺。夏子もみんなが居てくれて良かったって思わない?世界は個が集まってできている。そんなに強く意識することはないかもしれないけど、僕等はみんなが居てれくれて良かったって思っている筈なんだ。だってそれが、自分自身の存在を肯定することなんだから」

「世界は、みんなでできている」

 夏子は俯いて表情が見えない。何か考え込みながら、その手に抱いていた嶺を僕に預ける。その時、残酷だなと思ったのは、嶺から体温が完全に失われていたことに気づいたからだ。夏子のマンションにいるときはまだ温かった、突然息を吹き返すことだって無い話じゃなかった。でも今は完全に生きてる感じじゃない。

 冷たい嶺の身体を、僕が掘った穴の底にそっと置く。両手で掘った土をすくって嶺の身体にかけていくが、あんなに憎かった奴なのに死んでしまったらそんな感情も湧いてこなくなることを知る。嶺は土に埋もれて、見えなくなってしまった。いずれその身体は微生物に分解されて骨だけになって、その骨だっていつかは消えて無くなる。「いつか」が何十年、何百年先になるかなんて分からないけど、嶺がいたという記憶はこれから80年くらいは無くならない。何故なら、夏子と僕が生きているからだ。僕は70歳くらいで死んでしまうかもしれないけど、夏子は100歳まできっと生きる。そんな気がする。

 嶺は、土に埋まった。それでもまだ高さ40センチくらいの空間が空いているので、胎児の骨が入った骨壺を穴の中に置いて土をかぶせていく。骨壺も完全に埋まったので、最後に足で穴の入り口を踏んで固めた。

 軍手を外して部屋に戻ると、夏子がコップ1杯の水を用意してくれる。僕はそれを一息に飲んで喉が潤い、生き返る。

「夏子、これで終わりだね。今日から良い夢が見られるよ」

「幸せな夢を見てみたいな。変な夢ばかり見ていたから」

 もう日付が変わる時間だが、夏子をレンタカーでマンションまで送ることにする。到着したら、次に会うことはできないのかもしれない。だからこそ、車中で夏子と僕は本の話をする。あの作家の文体の癖とか、文豪の逸話とか、純文学における性描写の必要性だとか。初めて、夏子と施設で話したことを思い出す。まだ1年も経っていないのに、何年も前のできごとのように思える。あの頃には決して戻れない。ちょっとだけセンチになってしまうけれど、きっと大丈夫なのだ。僕等は、まだ死んでいないから。明日、いきなり死ぬということもあんまりないと思うし。

 夏子が、助手席から降りてマンションの正面玄関に入っていく。施設からの帰り道、駅まで送って行った時みたいに、振り返らないかなと期待したけど、僕の思い通りにいかない夏子が好きだったりする。でもちょっと憎ったらしくて複雑な感じだったりもする。


 僕は、レンタカーのアクセルを踏む。深夜、交通量の少ない道路を制限速度を無視して走る。何処かへ向かって走れているのだろうか?と疑問が浮かぶ。走れていても向かいたい方向が分からなければ、何れ燃料は底をつき、タイヤはパンクして、砂漠のど真ん中で停車してしまう。何処へも行けずに死ぬのは嫌過ぎる。

 その時、偶然通りかかったコンビニの駐車場にレンタカーを停めて、コンビニでチューハイを3本買う。アルコールに弱いのに、車内で3本とも一気に飲み干してアクセルを思い切り踏む。外の風景がすごい速さで後ろへ過ぎ去っていく。酩酊も合わさって、自分が今、生きているのか、死んでいるのか分からない感じで危険だ。

 なんかもうどうでも良いのだ。そんなことは。何処へ向かったら良いか分からない。何をしたいのか分からない。何を間違えたのだろう。

 ヘッドライトを消して、僕は暗闇に包まれる。肉体が失われつつあるのか、全ての感覚が空間に広がっていく。酩酊する意識。世界に溶け込んでいく。


 僕は、まだ死なない。

 意識が覚醒するよりも強烈な空腹に襲われたのが早くて、肉体が生きようとしていることを感じる。奇妙に思うのは、何かを不快に感じているということだ。近くに落ちていた眼鏡をかけて周囲を見渡すと、見慣れた家具、読みかけの文庫本、脱ぎっぱなしの靴下が確認できる。どうやら無事にアパートへ戻ることができたみたいだ。

 昨日から着替えもしていない感じなのでシャツを脱ごうとすると、不快感の正体が分かった。シャツの襟に吐瀉物の跡。鼻が詰まっていて気づくのが遅れた。洗面所に向かい、洗面とうがいを何度か繰り返す。頭にかかっていた靄が少しは晴れて心地良い。洗面所を出て左手の玄関を見てみると、吐瀉物がぶち撒けられていた。何とか、部屋の中までは我慢できたみたいだ。

 部屋の奥にあるベランダの窓を見てみると、カーテンの伱間から僅かな陽射しが漏れている。僕は、頼りない足取りで窓の前まで近づき、カーテンと窓を開ける。

 陽光が燦々と降り注ぐと同時に、風が僕の身体を舐めて、部屋の中へと過ぎていく。今の季節が分からなくなるほど暑い。少なくとも今日は夏にしておく。

 ベランダの柵越しに、アパートの塀。僕は、柵を乗り越えると、その下の地面にかけていた眼鏡を刺す。またベランダの柵を乗り越えて部屋に戻ろうとしたところ、アパートの塀の上を気怠そうに歩く猫がいる。黒く、艶のある毛。鋭い顔つき。なんとなく、今日初めて会った気がしない。

 僕は、猫に吸い込まれるように、柵に体重を預けて、前のめりに手を伸ばす。ゆっくり、慎重に、この猫に触れてみたいと思う。猫は、威嚇もせずにただ無表情に立ち止まり、僕のことをじっと見ている。人に慣れた地域猫かもしれない。それなら触ることができそうだ。手を、猫の頭に近づける。

 刹那、鈍い痛みが手の甲を襲う。噛まれたのか?猫がいない。いくら俊敏な動物と言えど、こんな一瞬で姿を消すことができるのだろうか。まるで、白昼夢でも見ていたような感じだ。あの猫はいったい何処から来て、何処へ行ったのだろう。

 痛みの引かない手を見てみると、噛まれたような傷から血が滴っている。やはり白昼夢なんかではなく、実在したみたいだ。

 滴る血を無傷の手のひらにためて、血に反射する世界を覗く。何もかも真っ赤な世界。空も、山も、海も、僕も。

 鈍い痛みが少しずつ引いてきた。酷い傷ができたって、血がたくさん出たって大丈夫。

 僕は、何も痛くなんかないのだ。

(了)

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

0コメント

  • 1000 / 1000