『玉しゃぶりやがれ(1)』著者:片側交互通行

「うるせぇよ。玉しゃぶりやがれってんだ」

 と言いたいのを堪えて頭を下げる。

 というのは嘘だ。客に頭を下げたのは本当だ。言いたいことを堪えたという部分は、頭を下げ終わり、客が去ってキッチンに戻ってきたときにセリフと一緒に頭の中から沸いてきた妄想だ。

「加藤さん、今の客なんでした」

 臼井さんは折りたたみ椅子に座って携帯ゲーム機から顔を上げて尋ねてきた。

「漫画の巻が抜けていたのを怒られましたわ。ホンマゴミみたいな客ばっかりですわ」

「何の漫画ですか」

 少年誌の作品名を上げた。

「あ、その漫画俺も読もうと思ったんですけど、やっぱり抜けてますよね。十三巻でしょ。客がパクっていったんでしょうね。ホンマ腹たったんで冷蔵庫殴りましたわ」

「よく盗まれますよね」

「買うより盗んだ方が安いですからね」

 一番安い料金で入店すれば漫画一冊買うよりもお得だ。漫画を売ることができないように店名の入ったハンコは押されている。売らずに楽しむなら盗んだほうがいいと考えている客もいる。そうかといって、その客に怒りを感じることはない。盗まれようと盗まれてなかろうと、我々のバイトの給料に何も反映されないのだ。

 客が入店したチャイムが鳴る。カウンターに出ていき、会員カードを受け取った。希望の席を選択してもらう。会員カードを読み取ると客の個人情報が表示される。住所、氏名、年齢、電話番号などの一般的な情報にプラスアルファで店員がその客の注意事項を書いたりする。注意事項欄は従業員のおもちゃになっている。

 例えばこの吉澤浩勝という男の注意事項欄には、

『奇跡の男H☆I☆R☆O☆K☆A☆T☆S☆U☆』と書いてある。

 コンビニの店員が客にあだ名を付けるのと同じようなものだと思う。

 幾分笑いをこらえながら客を席に案内する。

 キッチンに戻り「奇跡の男が来ました」と言って、二人で笑った。客を笑い者にするのは最低だと思うが、楽しいのでやめられない。

「加藤さん今日なにか食べますか」

 臼井さんはそう言って冷凍庫を開ける。

「カツ丼にします」

「じゃあ、俺もそれにしようかな」

 臼井さんは冷凍のカツをフライヤーに入れている間に、卵を溶いて、そこに店の備品のめんつゆを入れる。カツが揚がるのを見計らって卵を電子レンジに入れて数十秒温める。丼に炊きたてのご飯を盛って、来店のチャイムが鳴る。

 舌打ちをしながらフロントに行く。

「いらっしゃいませ」

 酔っぱらいサラリーマンが二人来店した。

「あれ、満席?」

 客の見ているモニタには空席表示はされていない。奇跡の男が入店した後、すべての席を利用中にした。

「すいません。ご覧の通り満席なんですよ」

 近くにある別のネットカフェを紹介して帰ってもらう。実際の店内は三分の二が埋まっているくらいだ。満席に見せかけているのは客が多いと腹が立つし、フードメニューの注文を受けたりして相手をするのが面倒だからだ。自分が食べる分を作るのは苦ではないが、客が注文するものは、たとえレンジでチンするだけの冷凍チャーハン一つでさえ骨が折れる。

 キッチンに戻ると、臼井さんがカツ丼を提供してくれる。かつ丼は店のメニューにはないが、冷凍庫と冷蔵庫にある材料で夜勤組が開発したのだ。

 美味い。

 客の注文したフードをこんなに丁寧に作ることはない。

 臼井さんと話していると、怒りが自然と笑いに変わっていく。二人でシフトに入るのがこの店の楽しみだ。

「コーヒーでも飲みますか」

 臼井さんがマグカップを手にして聞いてきた。

「ええ、飲みます」

 ドリンクバーでコーヒーを入れる。夜勤を始めてからコーヒーをよく飲むようになった。一口すする。

「馬のションベンみたいなコーヒーですね」

 晩御飯が終わり、仕事を片付けに行く。深夜の二時ごろから軽く仕事をする。使い捨ての手袋をして客が帰った席を片付ける。

 客に置きっぱなしにされた漫画を本棚に戻し、溜め込んだグラスを片付け、ネットに繋がっているエロサイトを消し、精子のついたオシボリを捨てる。客はやりたい放題である。見たことはないが、語り継がれている話では実際にファックしていた客もいたらしい。

 仕事中に読む漫画を物色しに本棚に向かう途中、先程の嫌な客とすれ違い、また何か言われるかと体が反応して硬くなる。客は気にする様子もなく通り過ぎた。気付かれないように息を漏らして緊張を解く。読む漫画を手にしてキッチンに戻る。

 その後は変な客が来ることもなく、日常業務を読書の合間にこなして仕事が終わった。

 小説や漫画の世界では、行動と同時に思考が働いている。私は思考が追いつくのがいつも遅い。一度でいいから同時進行を体感して、映画みたいなセリフを言ってみたいものだ。

 朝の九時前になって店長が現れた。三十代で化粧が濃い女の店長で、目を引くわけでもない今風の格好をしている。昼のバイトの人とは仲が良さそうだが、深夜組からは評判が悪い。

 店長がこの店にやってきてからまだ二か月だが、精神論的な話し方に臼井さんと二人で冷めた目を向けていた。「本気」とか「人脈」という言葉が好きなのかよく使っている。ネットカフェごときで人脈も何もないだろうというのがバイトの一致した見解だ。

「おはようございます」

 挨拶をして店長は前日の売り上げをチェックする。売り上げは大したことはない。その数字をキッチンの壁に貼ってある売上表に書き込んで、目標がギリギリ未達成なことに悔しそうにしている。深夜組のせいなのだが、まだバレていない。それが済むと店を一回りしてチェックが入る。

 粗探しをされているみたいで気分は悪い。

「臼井君。ドリンクバーの台が汚れてる。ちょっと来て」

 臼井さんは店長について行った。

「こういうところもちゃんと拭いてね」

 店長の声が聞こえてくる。店でトラブルがある場合、基本的には深夜組のせいにされることが多々ある。おかげで初めからゼロのやる気はマイナス方向に行き、仕事をさぼるようになった。


 被告人は救いようのないクズ野郎だった。もとい、アスホールだった。

 弁護士が書いた台本のセリフを復唱しているような印象だ。学校で教師に当てられて、嫌々朗読させられている中学生よりも心がこもっていない。

 被告がアスホールなら検察はプッシーちゃんだ。ぬるすぎる。裁判員裁判とはいえ攻めがぬるい。小学生の学芸会を見せられているのだろうか。これは模擬裁判なのか。

「あなたは、明け方に家を出る前にポルノ雑誌を読み、それでは満足できなかった。そこで黒のパーカーに黒のニット帽、黒のズボンに黒のスニーカーという格好に着替えて、カッターナイフを持って家を出ました。あなたはその時から猥褻な目的で出かけようと思っていたのではありませんか」

 若く見える検察官が裁判員にもわかりやすい言葉を選んで被告人に質問をした。

「いいえ違います」

 被告人は一切の抑揚をつけずに答える。

「では、なぜカッターナイフを持っていたのですか」

「なんとなくです」

「黒い服装だったのは顔を見られるのを避けようと思ったからではありませんか」

「いいえ、なんとなくです」

「あなたは駅から出てきた女性の後をつけて、人が周囲にいなくなるのを見て女性に後ろから抱きついた。これはその女性を狙っての犯行ですね」

「いいえ、歩いていたら急に性欲が出てきたからです」

「持っていたカッターナイフを首に突きつけたのはなぜですか」

「性欲が勝ってしまってよくわからなかったです」

 そんなやり取りの中で裁判官と裁判員はただ黙って席で聞いているだけだった。

 ふと思うことは「こいつら本当に頭がいいのか」ということだった。裁判員はともかく司法関係者はお芝居をしているような感じだった。

 筋書きを弁護士が考え、被告は台本通りに検察はアドリブで演じる。被告を連れてくる人物のポジションはシェイクスピアでの兵士一だ。裁判官は監督のポジションだろうか。法律の手続き上の手順が勝手に起承転結を作りあげる。

 冒頭手続きとして人定質問(主人公の紹介)に始まり起訴状朗読(事件のあらすじ)を終えて、黙秘権とかいろいろあるが、導入が終わる。そして冒頭陳述から検察官の事実の立証とかなんやらあり、証拠調べでどんでん返しが来るか来ないかとハラハラして、判決へと物語は収束していく。基本的にどんでん返しはやってこない。今まで一度も見たことがない。

 そして多くの場合、観客は喜びや悲しみでなく、怒りを覚えて帰るところが実際の劇と違うところだ。

 これなら私でもできそう。というのが素直な感想だった。試験が難しいだけで、仕事内容は椅子に座って予め書いておいた台本をしゃべるだけ。更に責任はないときた。別に犯罪者の一人が刑期五年になろうと十年になろうと知ったことじゃない。彼らが塀の中にいる五年も十年も同じように自分の生活は安定して続いていくのだ。

 中学生くらいのときにこんな楽な仕事があることを知っていれば、私だって。

 せめて裁判員で日給もらいたいと思い、どれくらいの確率で当たるかを調べたら、約八千七百人に一人の割合という結果に驚き望みを捨てた。

 人の一生を左右する仕事と言う事はできるけど、この被告に対してそんな慎重になれないでしょ。とりあえず実刑確定で弁護側と検察側の間で懲役決めたらいいじゃない。と私だったらそう思う。

 世の中、情報が大切だということがよくわかった。嗚呼、裁判官になりてぇ。

 一旦休廷します。という幕間になったので退席することにした。

 その後時間の許す限り裁判を傍聴した。世の中、一日というわけではないが、これだけの事件が起きているということに始めの頃は少なくない衝撃を受けたことと、被告人が全員アスホールだということがわかった。小説や映画で描かれる事件のなんと見事なことか。実際の犯罪者のなんと愚かなことか。

 その浅はかな知恵と杜撰な計画と証拠の垂れ流しは絶句してしまうほどだ。罪を犯すリスクに対してあまりに小さいリターンしか考えていないというのには甚だ呆れた。

 三時頃になり疲れて帰ることにした。駐輪場からロードバイクを出して地面を蹴る。

 サラリーマンの溢れる街を走った。羨ましさ半分、哀れみ半分。街には若い女性の姿も多い。失意全開。スーツ姿の男女が楽しげに話していようものなら、「その男、この間ヘルスに行ってたぞ」と声をかけたくなる。ただただ妬ましい。これだから人の多いところにはいたくない。本当はヘルスがどこまでの行為をする店なのかも知らない。裁判所が街中にしかないのも腹が立つ。山の麓にでも作ってくれたら助かる。

 ギアを重くして目に入るものを踏み潰すようにペダルに力を入れる。華やかな大通りのビル街を走らず、一本内側の道を行く。たとえ路地から車が出てきて走りづらくても精神衛生上こっちのほうが良かった。

 帰り道は遠回りをして緑地公園に寄る。人が少なくて落ち着く。ベビーカーを押して歩く主婦、散歩中の老人、トレーニングで走る大学生くらいの若者。そして裁判所帰りの私。

 一般的な午後の公園だった。

 リュックからビニール袋と剪定ばさみを取り出して、草の茂るところへ入る。

 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、スズナ、スズシロ、ホトケノザ。これぞ七草。さらにタンポポ、ヨモギ、タチツボスミレ、カラスノエンドウ、足を伸ばせばナノハナ。と言いたいところだが、そんなに種類があるはずもなく、タンポポ、ぺんぺん草、ハコベラを摘んで公園を後にした。

 家に帰り炊飯器に残っている米を使って鍋で粥を作る。摘んできた草を適当に洗って鍋に放り込む。米はもちろん店から取ってきたものだ。同じく店から取ってきた中華系だしの素の調味料で味付けをして、火が通ったので完成。

 一応食べられる。

 ひと眠りする前に机の前に座り、ペンを持つ。描きかけの漫画に筆を入れる。自分でも何かが足りないと思う。プロの漫画を読むとこんなもの描けるかよ。と思う一方、デビューしたての新人の作品を見るとこんなものでデビューかよ。と批判的になる。結局「こんなものも」のレベルにも至らず筆を置いた。バイトに行く前にひと眠りする。


「加藤さん、まだ食費ゼロ続いているんですか」

「ええ、更新中です」

「もう二ヶ月くらい立ちますよね。続けるのってすごいですね」

「案外続き始めると楽ですよ。禁煙も最初が辛いっていうじゃないですか」

 幸いにもネットカフェは一応飲食店で、メニューの幅はファーストフードより多岐にわたる。汎用性の高い食材も扱っている。更に食料の買い出しは夜勤の仕事になっており、好きなものを買うことができるのだ。領収書は貰ってくるが、店長は合計金額しか見ていない。従業員は必要以上のものを買ってくる。

「ぼちぼち買い出しに行きますけど、欲しいものありますか」

 臼井さんに声を掛ける。

「うちのトイレットペーパーが切れそうなんで。お願いします。ダブルで」

「わかりました。行ってきます」

 ダウンジャケットを着て外に出る。久しぶりに冷え込んだ夜だった。寒い外を暖かい格好をして歩くのは気分がいい。

 私は買い出しが好きだ。深夜のオフィス街で人がほとんどいない。洒落たビルに日中、人が入っているのを想像する。慌ただしく、鬱陶しい上司から無理言われたり、つまらない仕事に時間を使うことが絶望的に思えた。

 人々が去った街で意味のない優越感を持った。

 歩いて五分のところにある二十四時間営業をしているスーパーが見えた。店の入口脇にトイレットペーパーが積み上がっている。

 財布を忘れていないか確認してポケットに手を入れながら駐車場に入ったところで、後ろから敵意を感じる声をかけられた。

「おい、お前待てよ」

 突然の声に驚いて振り返ると、三十代後半のサラリーマンが顎を上げて見下すように立っていた。マフラーを首からダラリと下げてコートを着ている。垂れているマフラーの長さが左右非対称で酔っ払っている印象を受けた。

「お前さっきバイク倒しただろ」

「は?」

「さっき、あそこのマンションでバイク倒しただろ」

 酔っ払いは繰り返して言った。

「いや知らねぇよ」

 高圧的な態度。怒鳴られる恐怖。

「お前今から警察呼ぶから動くんじゃねぇぞ」

 なぜか店長に怒られることを想像した。買い出しをしなければと、足をスーパーの方に向けると、

「おい犯罪者。逃げるなよ」

 その一言で体がカッと熱くなる。だが何もできない。頭に靄がかかり体が動かなくなる。

 酔っ払いは携帯を取り出して電話を始めた。

「あ、もしもし、今バイクを倒した犯罪者を捕まえたんですけど、いえ、俺のじゃないです。場所は……」

 近くに見えるコンビニを伝えている。

「警察すぐ来るってよ」

 勝ち誇った笑みでニヤついたかと思うと、背中を向けてどこかに行く。すぐ近くの角を折れて見えなくなったため、それ以上付き合っていられず、買い出しのためにスーパーに行き、リストにあるものを買って店に向かう。帰る途中に自転車警察官とすれ違った。

 歩いている途中やり場のない怒りを抱えて、頭の中は爆発寸前だった。

 臼井さんに今の出来事を話して聞かせた。

「ホンマのゴミ野郎ですね」

「完全に頭がイカれたクソ野郎でしたわ」

 手にした包丁を鶏肉に打ち付ける。まな板が調理台にぶつかり激しい音を立てて食器棚のグラスを振動させる。何度も何度も「ファック」や「アスホール」と叫びながら叩く。肉は翌日のランチに使う予定のものだった。酔っぱらいに言われた言葉が頭から離れず、それを破壊しようと、あの状況に勝とうと思って包丁を振る。一番腹が立つのはあの状況で自らの正当性をあいつに証明できなかった自らに対してかもしれない。振り返ってみれば簡単なことだったと思う。

 電話を終えた酔っぱらいを捕まえて警察が来るのを待つべきだった。どうやってバイクを倒したのか聞いて、手なら指紋、足なら靴跡が残る。それを警察と確認すれば正しさが証明されただろう。酔っ払いが謝るとは思えないが、今ほどのストレスを感じることはなかっただろう。

 なぜ行動と思考が切り離されているのか。なぜ同時進行できないのだろうか。

 柔らかくなった肉を一口大に切り分ける。レシピ通りの調味料を入れていく。にんにく、生姜、砂糖、塩、コショウなど。イライラしていて計量を目分量で行い投入し完成。完成したものを二つフライヤーの中に入れて揚げる。二人で試食をした。

 美味い。唐揚げなら何でも美味い。

 試食は仕事内容に含まれていない。

 つまみ食いが済むと、臼井さんは換気扇をつけて一服を始めた。

「臼井さんはいつから吸ってるんですか」

「俺は高校の時からっすね。ゲーセンで一本もらってからですわ」

「また値上がりするそうですね」

「そうなんですよね。どこで出費を抑えるか悩みますね。俺も加藤さんみたいに店の食材を持って帰るようにしますわ。背に腹は代えられないですからね」

(続)

※『玉しゃぶりやがれ(2)』はこちら

彩ふ文芸部

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