『マリィ』著者:鋤名彦名

 そこに死があった。ひび割れた灰色のコンクリートの上に横たわるそれは、死そのものを自ら誇示するかのように存在していた。それはやや青みがかった彼の眼球の表面に、発光するもののように映った。彼はその場所へと導かれるように歩みを進めた。


 それは犬の死体だった。犬種は分からないが中型犬といわれる部類だろう。垂れ下がった逆三角形のような耳、鼻面はそれほど長くはない。頭部は赤茶色の毛で覆われているが、首元辺りからは黒色に変わり、胴体は黒と白の斑になっている。恐らく雑種であろうと彼は思った。元は青色に塗装されていたと思われる革製の首輪が付いているが、表面はひび割れ、塗装はほぼ剥げていた。首輪が付いているという事は飼い犬だったのだろう。

 彼はその死体にマリィと名付けた。生きているあいだ、この犬はレオだとかカイだとか、もしくはモモだとかチョコだとか、そういった名前で呼ばれていたのかも知れない。彼はこの犬がオスなのかメスなのか分からない。ただ彼の前に横たわる犬の死体はマリィと名付けられた。だたそれだけだった。

 マリィが横たわるのは道路の上だった。そこは彼の家から500メートルほど歩いた丁字路の中ほどだった。その丁字路は彼の住む田舎町を貫く大動脈のような幹線道路と彼の家のある集落へ入る脇道との合流地点であった。

 マリィは車に轢かれたのだ。後ろ足の体毛は擦り剝け、肉は抉られ、骨は押しつぶされたかのようにひしゃげていた。この上をタイヤが通ったのだ、彼はそう考えた。口から垂れた舌には蠅がとまっていた。

 彼はマリィを抱き上げ、その開かれたままの黒目を見つめる。つややかなガラス玉のような黒目が陽光で白く輝く。その反射光が彼の眼球を鋭く刺した時、彼の目の前に巨大なゴムタイヤが現れた。ゴムタイヤは古びたコンクリート道路の表面を引っ搔くように削りながら回転しこちらへ向かってくる。後ろには削られた微細な粒が跳ね上がっている。それは巨大なやすりの壁のようにも見えた。彼はその場から逃げなければならない。ゴムタイヤと道路が擦れ、その熱によるゴムの焼ける重たい臭いが彼の鼻を覆う。彼はその場から逃げなければならない。彼はまず自らの右足を動かした。そして左足を動かす。そうやってその場から離れればよい。しかし彼にはマリィの後ろ足があった。やがて巨大なゴムタイヤは残されたマリィの後ろ足を踏みつけ過ぎ去って行った。彼は歩道からマリィの死があった場所を見つめた。マリィの黒目にはもう陽光は反射しない。


 彼はマリィを抱きかかえながら歩いた。どこへ向かうのか、彼もよく分かっていなかった。ただ彼はマリィを誰かに見せたいと思っていた。彼は幹線道路から住宅地を抜ける脇道、そして農道の方へ入り、いくつもの畑が広がる平地へと向かった。畑にはきっと鍬爺が居るだろう、彼はそう思った。鍬爺は一年中畑を鍬で耕している気違い老人だった。鍬爺は若いころ地主から譲り受けた農地で多様な野菜を育てる農家であったが、いつ頃からか野菜を育てるのをやめ、ただ畑を鍬で耕すことだけを繰り返すようになった。彼は鍬爺の畑へと向かうと、やはりそこには鍬爺が居た。

「こんにちは」

「なんだ?今は鍬入れ時だ。忙しいんだ」

 鍬爺は年中鍬入れ時と言っているのを彼は知っているが、そのことには触れなかった。昔そのことを指摘した者が鍬で殴り殺されたと彼は聞いたことがあった。

「見て、道路で犬が轢かれてたんだ」

「そうか、可哀そうにな」

「どうすればいいかな?」

「そんなのお前、埋めてやってくれ」

「じゃあ鍬爺の畑の隅に埋めていいかな?」

「ダメダメ、そんなとこ埋めても俺が耕して掘り返しちまう」

「じゃあどうすればいい?」

 彼はそう聞いたが、鍬爺はもう他所へ行けというように手を二度払い、また鍬を振り下し始めた。

 彼はマリィを抱えたまま家へと戻った。彼は老年の両親と一緒に住んでいるが、今は二人とも出かけている。彼はマリィを裏庭にある物置の陰に置いた。彼は疲れていた。物置の中には確かシャベルがあったはずだ。明日シャベルを持ってどこかへ埋めに行こうと彼は考えた。彼の上着にはマリィの赤黒い血が付いていた。彼は上着を脱ぎ、マリィの上に被せた。


 彼はその夜眠れなかった。窓際に寄せた椅子に座り、裏庭のマリィがいる場所をじっと見ていた。実際には物置の陰になっているのでマリィの姿は見えない。しかし彼の視線は確実にマリィを捉えていた。彼の脳裏にはくっきりとした輪郭と質感と重量を持ってマリィが存在していた。彼はワンと微かに吠えてみた。どこかで犬の鳴き声がした。もう一度ワンと吠える。またどこかから鳴き声が返ってきた。彼は楽しくなった。彼は部屋の中を四つん這いになって這いまわった。またワンと吠えてみると、それは紛れもなく犬の鳴き声になっていた。鼻をくんくんと鳴らすと、彼の部屋のかび臭い布団の臭いや、書棚に並べられた本のインクの臭いを感じた。彼はまた窓際に行き、マリィに向かって吠えた。それは喉を震わせ息を吐くような長い吠え声であった。すると突然彼の部屋の扉が開いた。そこには両親が立っていた。彼は両親の方へ四つん這いになって駆けだした。母親の股間の辺りの臭いをかぎ、父親の足の指を舐めた。両親は彼の頭がおかしくなったのだと思った。父親は彼の顔をそのまま足を蹴り上げた。彼は怖くなり部屋の隅へ逃げた。両親は彼の様子をじっと見つめたが、彼がワンとしか言わないのだと分かると逃げるように部屋を出て行った。

 彼は部屋の隅へうずくまるように身体を丸めている。結局一睡も出来ずに朝を迎えた。いつの間にか部屋の臭いを感じることもなくなり、ワンと言ったところでそれは彼の地声となっていた。舌先には父親の足の指を舐めた感覚がわずかに残っていた。今彼を捉えているのは恐怖だった。全身の震えが収まらず、時折扉をノックする音が聞こえると、そのたびに彼は身体をびくんと大きく震わせた。わずかに開いた扉の隙間から両親が覗き込んでいるが、彼はそちらを向くことは出来なかった。ただ部屋の隅でうずくまる彼を見て両親は声もかけずに扉を閉めた。そのあとで彼が扉の方を見ると、そこにはお盆に乗ったパンとスープ、そして一枚の書置きがあった。書置きには「少し家を空けます」と書いてあった。

 どのくらいそうしていたのか彼には分らなかった。一晩な気もするし、三日ほど経った気もする。ただもう彼を捉えていた恐怖は無くなっていた。扉の向こうから人の気配は感じない。両親はあの日以来帰って来ていなかった。彼はゆっくりとうずくまった身体を伸ばし、壁に手を置き支えながら立ち上がった。彼は軽い立ち眩みを感じた。彼は扉の方へ向かいお盆に乗ったパンとスープを見た。パンには薄っすらと埃が被っていて、スープは油分が分離し、すえた臭いを発していた。今彼には不思議と空腹感は無かった。彼は自分が最後に食事をしたのがいつかを思い出そうとしていた。そしてそれはマリィを拾った日の朝に何かを食べたのが最後だったと彼は思い至った。彼はマリィの元へと駆けだした。部屋を飛び出る時、彼はスープのお椀の縁を踏み、床にスープをぶちまけた。踏んだ右足にもスープがかかったが、彼は父親に舐めさせてそのあとで頭を蹴り上げればよいと考え、それでもう気にしなかった。


 彼がマリィの上に被せられた上着をめくると、マリィの全身には無数の蠅が集っており、後ろ足の皮が捲られ肉が露出した部分には蛆が湧いていた。腐肉の臭いが鼻を突く。黒いうごめく点と黄白色の粒が彼の存在を飲み込もうとしていた。一匹の蠅の眼に彼の姿が映ったのを彼は見た。それと同時に騒音が聞こえてきた。彼はその蠅となっていた。じりじりと羽音を立て、マリィの身体を舞う連中の中に彼は居た。そこで彼は気づいた。マリィは蠅や蛆の連中にとって、町であり都市であり国であった。連中はマリィの身体を貪る民であった。彼には蛆の一匹が鍬爺に見えた。無心で鍬を振り、畑を耕す鍬爺は、この世界における蛆と同じに見えた。我々は何か巨大な生物に集り、血肉を貪る蛆であった。マリィはやがて連中の営みの中で腐敗し、土へと還るだろう。そして蛆たちは蠅へと成長し飛び去っていく。いつか彼の身体も蛆に覆われる日が来るのだろうと彼は思った。その時にはもう彼の身体は彼自身のものではない。ただ蛆たちによって分解されていく様が妙に気持ちよく思った。そして今彼の内臓が蛆たちによって貪られているのを実感した。肺や胃や腸や脳や肝臓や筋肉を連中が分解していく。彼の体内で育った蛆が鼻孔や口など身体中の孔から溢れ出る。落ち窪んだ眼窩が蠅たちの住処だ。いやそれだけではない。何者であろうと彼は自らに住まわせることを思った。巨大なゴムタイヤが彼の身体を駆け巡り、鍬爺が彼の身体を耕し、両親は時折彼の身体をノックする。そしてマリィが死んだ彼を見つめる日が来るのを、心待ちにして・・・。

(了)

彩ふ文芸部

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