【読書コラム】コインロッカー・ベイビーズ - 「絆」という名のコインロッカー 執筆者:KJ

こんにちは!今回も彩ふ読書会(2020年2月横浜)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。

ハシの苦悩とキクの苛立ち

1980年に発表されたこの「コインロッカー・ベイビーズ」という小説。今回のコラムでは、発表から現代までの40年間における日本の社会情勢を踏まえながら、現代からの視点でこの小説を考えていきたいと思います。


すでに読了済みの方はご存知の通り、この小説は出生直後にコインロッカーに捨てられ、数奇な人生をたどるキクとハシの物語です。まずは、この二人の行動や、その内面に着目してみましょう。


まずフォーカスしたいのがハシです。桑山家からの脱走、薬島での男娼としての生活、歌手としての成功、そして精神病院へと転落。まさに「ジェットコースターのような」という比喩がふさわしい、波乱万丈の人生です。


このハシの半生を振り返った時、共通して見られるのは「認められたい」「受け入れられたい」という欲求です。ハシはこの欲求に従い、幼い頃から他人からどう見られるかを極度に配慮し、歌手として大衆を惹きつけるための振る舞いを演じ続け、周りが期待する歌声を出すために舌を切り、ニヴァに刃を向けるまでに至りました。この「受け入れられたい」という感情は以下の部分にも強く表れています。


「みんなどうして僕に優しくしてくれないんだろう、僕はみんなが幸福になるようにしてるのに、ねえD、みんなが僕を避けるんだよ、

(中略)

僕のことをみんなが迷惑がってる、僕はただみんなから好かれたいんだ、ハシと一緒だと心の底から幸福になると言われたいんだ、それだけなんだ、それ以外考えたことがない、それなのに、僕は捨てられた」(*1、 488−489ページ)


この感情を象徴するのが、作品全体を通して何度も言及される「心音」です。母親の子宮の内部で聞いた音。ハシが求め続けていたのはこの「心音」であり、母性とでもいうべき「無条件の受容・承認」だったと考えられます。


結婚相手としてニヴァを選んだのもそれが要因と思われます。一見すると奇妙な組み合わせですが、ハシが母親ほどに年齢の離れたニヴァに「無条件の承認」という母性を求めたと考えれば、その選択にも筋が通ります。


これは深読みかもしれませんが、おそらく「ニヴァ」という名前は仏教等における安息の地を表す涅槃(ニルヴァーナ)をモチーフとしていると考えられます。ニヴァが天国の象徴たる「天使」の服を作ろうとしてことも偶然ではないでしょう。


しかし、ハシは他人からの承認を求め、その期待に答えるために繰り返し壁に当たり、そのたびに大事なものを犠牲にすることが必要でした。キクやタツオとの友情を捨て、自分の過去を否定し、声に迫力をつけるために舌を切り、そして最後にはニヴァを殺さなければいけないという脅迫観念に駆られました。そして、最終的にはその強迫観念に押し潰され、精神病院に搬送されるに至ります。


このように、「他人から認められたい」「絶対的な承認が欲しい」という行動原理に従って行動し続けるも、その欲求に飲み込まれ、押しつぶされる…それがハシの半生です。


一方でキクの方はどうでしょうか。


キクの行動原理を端的にいうと、衝動的であり動物的であり、肉体からの欲望に素直に従うものと言えるでしょう。女性的な側面の強いハシに対して、純然たる男性として振舞います。茶番が蔓延る世界に苛立ち、憎み、ダチュラによる世界の破壊を目論む…


母親殺害の事件直後から更生施設での生活では、一時的に大人しくなった時期もありました。しかしそれも長くは続かず、運動会のリレーにおける一悶着でキクの中での何かが吹っ切れ、再度その破壊的衝動に身を投じます。最終的には更生施設から脱出を果たし、アネモネと共にダチュラを見つけ、それを東京の地にばら撒くに至ります。


ここで考えたいのは「キクは何に対して怒りを抱いていたのか?」ということです。キクの感情は至る所に散りばめられていますが、ハシとの面会後の以下の文章に、それが明確に描写されています。


「あいつはあいつなりに必死なんだ、とキクは思った。ハシが可哀想でならなかった。怒りが込み上げてきた。会ったこともないような奴らがよってたかって俺達に勝手なことを言う。そうだ何一つ変わっていない、俺達がコインロッカーで叫び声をあげた時から何も変わっていない、巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺達は住んでる」(*1、449ページ)


おそらく、初めは漫然とした破壊願望でしかなかったのだと思います。それが東京という都市にまみれるなかで、イメージは自身の出生に関連する「コインロッカー」として結実する。ハシを発狂させた「コインロッカー」に…


「壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺達を蹴落とす。気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、壁はうまい具合に隠されている、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている、方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。」(*1、449−450ページ)


だいぶ長い引用になってしまいましたが、ここに現れているのはハシを発狂させたミスターDへの怒りであり、言うならば支配階級の者たちへの怒りです。「壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴ら」という表現はまさにそれを端的に表していると言えるでしょう。


おそらく、このイメージが多くの読者の共感をひいたのだと思います。漫然と抱いていた時代の閉塞感のイメージが、既存の体制・権力に結びつく。ビルの頂上から見下ろす者たちに圧迫される個人が、キクの怒りと共鳴し、広く支持される文学作品となったのでしょう。


地下からの破壊

1980年当時は高度経済成長が一息ついた時期で、それまで日本国民のモチベーションを牽引していた経済成長が停滞局面に入った時期です。特にオイルショックに伴う物価の上昇と、低い経済成長率で社会不安や閉塞感が広がった時期であると予想されます。


そんななか、この小説は国民の心に響きました。無機質なビル群に取り囲まれた都市風景の閉塞感が、ビルの頂上から庶民を見下ろす支配階級への憎しみに結びつけられ、その象徴たる東京の街を破壊することへの欲求を喚起する。


しかし、ここでは少し目線を変えて考えてみたいと思います。


着目するのは、ダチュラが「深海」に眠っていたこと、そして、キク達がダチュラをばら撒いたのは高層ビルではなく、民家を含む東京の都市全体だったということです。このことから、ダチュラによる破壊のイメージが向ける目線は、支配階級という「上方」ではなく、庶民という「下方」を向いているとも捉えることができます。言い換えれば、「地下からの破壊」です。


支配階級に対する破壊衝動であれば、高層ビルや高級住宅街にダチュラをばら撒けば済む話です。しかし、キクはそれをせず、街全体にそれをばら撒き、一般人の多くを犠牲にしました。


これが意味することはなんなのでしょうか?


ここで振り返りたいのは、近代国家の支配階層とはどのように定められるかということです。それは言うまでもありません。曲がりなりにも民主主義国家である以上、支配階層や彼らが実行する施策は庶民の欲望に基づいているのは明らかです。


当たり前のことですが、ビルが立ち並ぶ東京の大都市も、地方に張り巡らされた鉄道路線や高速道路も、その殆どは国民・庶民の欲望の帰結に過ぎません。だからこそ、キクはダチュラを「庶民」に対して散布したのではないか、それが僕の考えです。


それは、ハシがニヴァを刺したあとの再開のシーンでの、ハシの独白にも現れています。


「僕に殺された虫は僕のことを人間だってわからなかっただろう、ライオンだって思ったかも知れない、蝶々とは違うくらいはわかったかも知れないけどね、それと同じで虫みたいに僕は潰されても何から潰されたのかわからないって奴がいるんだよ、きっとそいつらの体は空気で出来ているんだ、ブワブワした風船みたいな奴らだ」(*1、536ページ)


僕はこの一文は物語全体にとって非常に重要な意味を持つと考えています。この文章においるポイントは、ハシを押しつぶしたものの正体として「空気」というキーワードが示されていることにあります。


すなわち、ハシを押しつぶしたのは支配階級ではなく、「空気」だったということです。すでに議論した通り、多くの人は、コインロッカーを国を牛耳る支配者が庶民を閉じ込めるために作り出したものであると捉えたのだと思います。しかし、村上龍の本当の意図はそこでは無いようにも思います。


むしろこのコインロッカーとは、大衆の「空気」によって生み出されたものなのだと考えられるのです。破壊すべきは東京のビル群ではなく、あくまでもそこに暮らす大衆であった…。だからこそ、ダチュラは東京の街全体に散布されたのです。


それが毒「ガス」であるのも、おそらく理由があります。つまり、淀んだ「空気」に対抗するための手段としては、そこに「ガス」を混ぜることが有効であるということです。だからこそ、爆発物のようなわかりやすい破壊イメージを使うのではなく、毒ガスという見えにくい手段を用いたのでは無いでしょうか。


話は変わりますが、この国は平成の時代に「地下からの破壊」として2つの大きな出来事がありました。そのうちの一つが、オウム真理教によるテロ事件です。その舞台が「地下」鉄であり、都市の破壊の手段がサリンという「毒ガス」であったのもおそらくこのイメージによるのでしょう。


いずれにせよ、村上龍は時代の閉塞感の元凶に対して極めて自覚的だったと思います。問題は支配階級にあるのではなく、市民の欲望の側にあったことを看破していました。だからこそ、「コインロッカー・ベイビーズ」という小説によって「地下からの破壊」を目論んだのでしょう。


「絆」という名のコインロッカー

ここで、もう少し深く「空気」について考察するため、一冊の古典的名著を参照したいと思います。それは山本七平氏によって1977年に発表された著作『「空気」の研究』という本です。この本の内容は「KY(空気が読めない)」という文脈の意味での「空気」についての考察であり、この国を支配する場の「空気」の性質やその功罪について述べています。


もちろん、この本の内容がどこまで妥当であるかは難しいところですが、一定の洞察を与えてくれるのは間違いないと思います。


この本によると、空気とは「前提」条件の絶対視だということです。何らかの価値観を客観的・相対的に捉えるのではなく、その価値観を絶対視したうえで、その前提に対する異論を「タブー化」する。それが「空気」の特徴です。


例えば、日本人のメンタリティーにある「欧米」の概念はまさにこの好例と言えると思います。最近はだいぶ減ってきたのかも知れませんが、日本のなにかを語る場合に「欧米」でのやり方を「絶対的に」正しいものとし、有無を言わさぬ「空気」が作り出されるということは良くあることでしょう(余談ですが、最近ではこのイメージは「北欧」や「シリコンバレー」にシフトしているように思います)。


本来は、日本にも欧米にも、それぞれに良いところと悪いところがあり、どれかが絶対に正しいというものではありません。それにも関わらず「欧米」を絶対的に正しいものとみなしてしまう、それが前提の絶対視という言葉の意味です(そもそも論として、ヨーロッパとアメリカは全然違うというツッコミもありますが)。


言うまでもありませんが、それは別に異なる文化を知る必要がないということでは全くありません。自らの文化と他の文化を相対的に捉え、そこから学びを得ることはとても重要なことです。問題は、「どちらが正しいか?」という極端な目線でしか物事を見られないことにあります。


このように、多人数でなにかを決める際に、すでに既定事実ができており、たとえ不合理であったとしても、それを口に出せる「空気」ではない、と感じた経験は誰でも一度はあるでしょう。その既成事実化されたもの絶対視し、それを前提にしていまうのが「空気」なのです。


ただ、この「空気」の概念自体は必ずしも悪いわけではないとも思います。特に、明治維新や高度経済成長期など、西洋諸国という疑う必要のないモデルがある中で集団を動員し、大きな力を生み出すには有効に働いたのでしょう。しかし、明確な方向性が見えない中にあってはそれが負の方向に働きかねないのも事実です。理不尽で不適切な価値観を盲信し、「空気」によって個人は縛られるというわけです。


これが1977年に山本七平氏が提唱した「空気」という概念ですが、この「空気」は40年経った今にもなお日本人を縛り続けていると考えます。当時と今の閉塞感の度合いを比較するのは難しいですが、現代日本にもある種の閉塞感・行き詰まり感が漂っているのは疑いのない事実です。「KY」「忖度」そんな言葉が蔓延る現代人もまた、この「空気」の呪縛の中にいると言えるでしょう。


それでは、村上龍が憤りを抱いた「空気」、つまり既成事実化した「前提」とはなんだったのでしょうか?


ここで振り返りたいのが、平成に起きたもう一つの「地下からの破壊」です。それはすなわち、2013年3月11日の東日本大震災です。


この時期にメディアによって盛んに繰り返されたキーワード「絆」。これこそが村上龍が壊したかった、そして現代になってなお人々を束縛する「空気」「前提となる価値観」ではないか、それが僕の考えです。つまり、コインロッカーの正体とは人々の「絆」だったのではないか、それがこの文章で僕が言いたいことです。


一見すると、素晴らしい価値観のように見える「絆」という言葉。たしかに、なんらかの価値観や目標を共にする人が集まり、「絆」のようなものを感じて、その目標や課題解決に向かって協力できるなら非常に有益なものとなるでしょう。さらにその繋がりをもとにして、共に新たな課題を見つけていくことは明らかに好循環につながります。


しかし、「絆」とは結果であって前提ではないというのが大きなポイントです。目標を共にして、協力するから「絆」が出来るのであって、「絆」を前提として、目標の共有や協力を「強制する」というものでないのは明らかです。そのような「絆」のあり方を肯定する人はあまりいないでしょうし、だからこそ「絆」が空気の「前提」になれば社会の閉塞感は深まることになるのです。


さらに、この「絆」が「空気」になった瞬間に「前提」に対する懐疑はタブー化されます。『そもそも、素人が現地に行って力になれることがあるのか?』『そもそも、みんながみんな被災地にコミットしなければならないのか?』というような言説を声高に言える「空気」で無かったことは記憶に新しいでしょう。


だからこそ、被災地が大変な状態の時に、被災地でないところで娯楽的活動をするのが「不謹慎」として封殺されるのです。人々は困っている人を助けなければならないし、人は社会の期待に応えなければならない…


このような文脈で見れば、それがあまりにも不合理な議論であることは明らかです。しかし、そんなやりとりを平然と行なわせてしまうのが社会の「空気」なのです。一見すると暖かく、寛容なイメージのある「絆」という言葉ですが、それが「前提」を共有しない相手に対してひどく不寛容な性質を持つことは明らかです。


余談にはなりますが、その不寛容の要因はおそらく脳のホルモン物質に由来すると考えられます。人間の脳には「絆」ホルモンとも呼ばれる「オキシトシン」という脳内物質が存在することがわかっており、これは主として母子間や男女間の繋がりに対して多幸感をもたらすためのホルモンです。


人の心的繋がりを維持するためには不可欠なこの「オキシトシン」ですが、それが行き過ぎると「シャーデンフロイデ(他人の失敗を喜ぶ感情)」と呼ばれる感情によって、互いに足を引っ張り合うという不毛な行動にも繋がります。


仲間だと思って一緒に頑張ってきた人の成功を素直に喜べない人、妻の昇進を心からの祝福ができない夫(またはその逆)、子どもの親離れが受け入れられずに極力近くに置こうとする親などなど、可愛さ余って憎さ100倍というケースは数え上げればキリがありません。ホルモンの働きである以上、そういう感情が生じるのは仕方ないことですが、それを受け入れた上でどう行動するかは大事なことです。


いずれにせよ、ここまでの議論から明らかなように、この「絆」という人間関係のあり方が「空気」の「前提」になった時、極めて致命的な矛盾が発生します。つまり、「誰に対しても優しくなければならない(ただし、こちらの期待に応えてくれる人に限る)」という矛盾です。


「空気」は前提への懐疑を忌避するがゆえに、その前提を共有しない人を大事にできません。「絆」が「前提」になるということは、無条件の許容を謳いつつ、本質的に無条件の許容ができないという論理的な欠陥を持たざるを得ません。


ハシが絡め取られたのは、まさにこの構造です。ハシが求めたのは「心音」に象徴される「無条件の承認」であり、それを得るために様々な努力や犠牲を強いられました。しかし、これも論理的に明らかなように「無条件の承認を得るために、努力をする」という文章自体が矛盾をはらんでいます。すなわち、努力をしなければ獲得できない承認は、無条件の承認とは言えないのです。


僕は、当時の多くの人はこの小説を支配階級への反抗として読んだのではないかと想像しています。都市論や巨大資本主義と個人の対立という論点で語られたことも多いでしょう。しかし、ここまでの議論を踏まえて考えると、キクが(そして村上龍が)破壊したかったのは、支配階級の暮らす高層ビルではなく、この「絆」という欺瞞的な母性のようにも読めるのです。日本人を閉じ込めているのは、「絆」という名のコインロッカーであると…


母殺しとしてのコインロッカー・ベイビーズ

このように考えてみると、コインロッカー・ベイビーズという小説は「父殺し」ならぬ「母殺し」の物語だと考えることもできます。それは、キクが自身を産んだ母親を殺し、ハシが自身の母親の代替としてのニヴァを刺したことにも現れています。


「ハシの推理は間違ってはいない、屈折と透過を経て永遠に続くという安心感を与える音、心臓の音だ。あの精神医の部屋で聞いたのは、心臓の音だ

(中略)

あの女は、間違いなく俺の、母親だ、俺を産んで、夏の箱に捨て、俺の力を奪い、肉の塊り、閉じられてヌルヌルした赤いゴムの袋になって俺に教えようとした、俺が一人になっても生きていけるすべてを一瞬のうちに教えようとした。あの時周囲の視線に屈せず、俺だけのために立ち上がり、俺の傍に寄って、俺だけに呟いた、俺は、あの女を尊敬する、立派な母親だ」(*1、358ページ)


これはキクが更生施設でのリレーのシーンでの描写。この文章で言及している「俺だけに呟いた」内容というのが「あたしを、撃ちなさい」であることは極めて重要です。ここのキクの回想だけを読むと、母親に対してゆるしを与えているようにも思えますが、それは明らかに早計です。なぜなら、この後キクは「ダチュラ」の散布という更なる「母殺し」を遂行するからです。


では、この回想でキクが受け取ったメッセージとは何だったのでしょうか? おそらく、それは「一人で生きるためには、母性による庇護・他者からの絶対承認(心音)を諦める(=母殺しをする)必要がある」ということでしょう。だからこそ、母親をゆるすかのようなこの描写ののちも、「ダチュラ」による「絆」の破壊の遂行を諦めないのです。


「D、僕は、役に立つ? あんたにとって、役に立つ人間かい?

(中略)

答えてよ、ねえ、大事なことなんだよ、答えてくれよ、僕はみんなの役に立ってるだろうか、みんな僕のせいで幸福になってくれているだろうか」(*1、488ページ)


これはハシの庇護者であり、キクの憎しみの対象であるミスターDに向けたハシの言葉です。彼が「ホモセクシャル」という設定を持つ(=女性性を持つ)ことを考慮すれば、このミスターDという存在が、単に男性的な暴力によってハシをコントロールする支配者ではなく、欺瞞的な母性によってハシをたぶかそうとする存在として配置されていると考えることができます(念のため断っておきますが、この文章は現実問題としての同性愛に対してのものでは全くありません)。ハシが求め、キクが破壊したかった存在はことごとく欺瞞的母性(=「絆」)を伴うのです。


そして、作中に執拗に描かれるホモセクシャルの描写が「男性性を失った男」への揶揄として配置されているのは明らかです。


「胃腸が弱いもんでね、子供の頃から磁気の針をお尻に入れてたんだよ、胸ポケットにバッテリを忍ばせてコードの端にエボナイトの電極があるやつだ、おばあちゃんの言いつけなんだ、おれはずっとおばあちゃんに育てられたからおばあちゃんの言うことは従わないといけない

(中略)

俺をオカマにしたのはおばあちゃんだけど俺は恨んだりしていない、だっておばあちゃんは干魚の行商とカニコロッケの屋台をしながら俺を育ててくれたからね

(中略)

俺は肛門に電極を入れるとあれの先から白い液が出て耐まらなく気持ちが良くなるなんて知らなかったんだ、そんなこと小学生にわかると思う?」(*1、316−317ページ)


これは、更生施設にいるキクに会いにいく途中でアネモネが出会った、やはりホモセクシャルの男性のセリフです。物語全体にとってはなんてことのない箇所ですが、僕はこの男性のセリフに村上龍の日本人男性観が如実に現れていると感じました。


この本が書かれた時代を考慮すると、「おばあちゃん」という言葉が意味するのは太平洋戦争を経験した世代であるのは明らかです。さらに「ホモセクシャルの快楽」を、男性的攻撃性の否定と絶対的承認の心地よさの暗喩であると解釈すると、この文章に込められた村上龍の思いが垣間見えてきます。


すなわち、戦争を経験した世代による教育によって「攻撃性の否定」と「絶対的承認の快楽」を教えられ、それに安住するようになってしまった日本人男性、という構図です。


言うなれば、牙を抜かれた男とでも呼ぶべきものでしょうか。いずれにせよ、これこそがこの小説の中で執拗に描かれる「ホモセクシャル」が表すメタファーだと考えられます(繰り返しになりますが、これは「この小説」における解釈に過ぎず、現実に存在する同性愛の方に向けたものでは全くありません)。


もちろん、その根底にあるのは、自分の息子・娘の世代を犠牲にした戦争への強い憎しみであり、孫世代にはそれを押し付けたく無いという思いに基づくものであったことは間違いないでしょう。それを否定するのは酷というものですし、今更それを言ったところで何が変わるわけでもありません。


問題は「絶対的承認」なるものが、「空気」に流される日本人の特性上、欺瞞的なものにならざるを得ないところにあります。


おそらく村上龍はこの構造こそが当時の閉塞感の源泉であるとみなし、ここに怒りの矛先を向けました。それを小説として昇華させたのが、この「コインロッカー・ベイビーズ」である、というのが僕のこの小説の解釈です。


このように「コインロッカー・ベイビーズ」を見た時、その主たるメッセージは「母殺し」であり、今風に言えば「絆」による閉塞感からの解放だと言えます。しかし、現代からこの小説を振り返ったときに考えるべきは、その試みがどの程度功を奏したか、ではないかと思うのです。


再生産され続ける「絆」

この本が発表されてから40年の時が経った現代から見ても明らかなように、多くの日本人はいまだに「絆」というコインロッカーに閉じ込められてます。以前に比べれば遥かにマシになったのかも知れませんが、多くの人はいまだに「空気」に縛られているのが現状です。正確に言えば「絆」によって互いに互いを縛りあっていると言ってもいいのかも知れません。


ここで我々が提起すべき疑問は、なぜ40年も前の時点で「空気」の圧力に対して不満を感じながら、「絆」の引力はなくならないのか?ということです。僕は、この物語の結末にそのヒントが示されているように思います。


注目すべき点は、キクによる「ダチュラ」の散布によって多数の一般人の犠牲を出しながらも、最終的にハシに救済を与えているところにあります。


もちろん、この小説の結末が読者に与えるカタルシスは計り知れないでしょう。周りの「空気」を読み、才能を開花させて歌手としての成功を掴みながらも、その「空気」に押し潰されて精神病院に送られるまでになったハシ。そのハシが、「ダチュラ」による破壊衝動に突き動かされながらも、最後の最後でそれを前向きな形で制御することに成功する。物語全体をハシの成長の物語と読み取ることができ、ここに感動を覚えた読者も少なくないと思います。


しかし、これは結局のところ、別の形の「絆」でしかないのは明らかです。すなわち、ハシに救済が与えられたのは、同じくコインロッカーに捨てられたというキクとの「絆」によるものだということです。ダチュラの散布によって多くの人が犠牲になり、自らの衝動に飲み込まれて破壊・殺戮をしていることが暗示されている中にあって、ハシだけは犠牲にならず、悪者にもならずに済んでいるという点は注目に値するでしょう。


これは、この小説を語る上で非常な重要で、致命的な矛盾です。つまり、「絆」の破壊という試みによる帰結が、「絆」による救済であるという自己矛盾です。村上龍がハシだけを「悪者」にせずに物語を締め括る姿は、自分の子どもや孫だけは「戦争」に行かせたく無いという、戦争を経験した世代の姿勢と重なります。


僕は、これこそがこの国が閉塞感に苛まれ続けている理由では無いかと思うのです。先に例示した二度の「地下からの破壊」を含め、日本はこの40年の間に、秩序を揺るがす国難ともいうべき事態を何度なく経験しました。しかし、どのような破壊が行われたとしても、その後に作られる秩序はやはり「絆」という空気に支配されるのです。


この矛盾は「ニヴァを殺さないといけない」というハシの独白を聞いたキクの反応にも現れています。


「あいつは、ハシは狂ってる、どうしたんだ? 誰があいつをあんなにした、あいつは完全に狂ってるぞ」(*1、449ページ)


ここで思い出して欲しいのは、キクがリレーでの疾走を通して得た洞察は、「一人で生きていくためには母親を(絶対的承認を)諦めなければないない」ということです。つまり、「ニヴァを殺さなければならない」とするハシの主張は、キクの洞察と見事なまでに一致しています。


にも関わらず、キクはハシに対して「狂ってる」と叫びます。キク自身は「母殺し」を行い、これから「ダチュラ」の散布に手を染めようとしているにも関わらず、弟分たるハシがその業(カルマ)を背負うのは耐えられないという葛藤です。これがこの作品全体が抱える矛盾を端的に表していると言えるでしょう。


だからこそ、平成における二度の「地下からの破壊」によっても状況は変わらないのです。オウム真理教のバイオテロのあとも、東日本大震災のあとも、「絆」と同調圧力が支配する社会の「空気」が再生産され続ける…


もちろん復興それ自体は必要なことだと思いますし、「絆」によって救われる人が多くいたことは過小評価するつもりは全くありません。ここで言いたいのは、破壊は必ずしもそれに続く創造を意味しないということです。長くこの国の「空気」の前提となっていた「絆」に代わる、なんらかのオルタナティブ(代替物)を提示できない限り、果てしない同調圧力の連鎖は止まりません。


もちろん1980年の時点で、欺瞞的な母性による同調圧力を看破し、文学作品として昇華させた村上龍の洞察力と小説家としての力量が並々ならぬものがあることは疑いないと思います。しかし、この小説で語られているのは、既存の秩序への不満であり、現状破壊の話に過ぎません。つまり、その先に対するビジョンが欠如しているのです。だからこそ、その試みは失敗し続ける…


現代を生きる世代に求められるのは、その先です。「絆」による欺瞞的で同調圧力を伴う優しさではなく、どのような形で人間関係を作り、どのような社会の「空気」を求めるのか、そしてそのために何を諦めるのか…


それがどのようなものなのかは、僕にははっきりとしたことはわかりません。というより、だれか一人が提示すれば解決するようなものでもないのでしょう。ただ、昨今議論されている「多様性」は間違いなくキーワードになるとは思います。


少なくとも、僕自身はその「絆」に安易に飲み込まれることへの反抗はしたいと思っています。「絆」の安住感を全面的に肯定するのではなく、それでいて「絆」に守られたい人を否定するのでも無く、適度な距離を取りながら孤独の時間を楽しみ、新たな創造とユーモアを追求したい。そんな中で新たなオルタナティブを見出せればいい、そんな風に思うのです。


結び

今回は村上龍さんの「コインロッカー・ベイビーズ」を読んで感じたこと、考えたことを書いてみました。読んだ方に対してなんらかの刺激になり、知的好奇心を満たすものであったり、何かしら行動・意識を変えるきっかけになったのなら幸いです。


この作品は後の日本文学に強く影響を与え、すでに様々な切り口からの考察がなされている物語だと思うので、あえて現代という視点から考えてみました。盛り込めなかった要素は色々とありますが、現時点での自分の思いは概ね出し切ったかなと思います。


それでは、また。


*1 ペ ージ数は全て講談社文庫 新装版のものになります。

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ 新装版』)


参考文献

山本七平『「空気」の研究』(文春文庫「文藝春秋」 1983)

鈴木博毅『「超」入門 空気の研究』(ダイヤモンド社 2018)

中野信子『シャーデンフロイデ − 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬社新書「幻冬社」 2018)

彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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