今回はミヒャエル・エンデの『モモ』を読んで、私なりに考えたことをまとめました。彩読では過去に『モモ』が課題本だったことがあるようなので、私がまとめたようなことは皆さんにはもう分かりきった事かも知れないのですけれど、最後まで読んで頂けたら幸いです。
この物語は語りたいことが沢山あるのですが、今回は『モモ』における時間と心の関係を、第2部第6章に登場するフージー氏の例を参考に焦点を絞って話を展開したいと思います。
「」内は、『モモ』ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳 岩波少年文庫 から引用した文です。
『モモ』における時間の捉え方
第2部第6章の冒頭では時間の本質について述べられています。時計やカレンダーで時間を測ることは可能ですが、人間それぞれが感じる時間を鑑みれば、測ってみてもあまり意味はありません。というのも同じ1時間でも何があったかによって、「永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです」
さらに物語では「時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです」と続きます。
この「生きるということ」は人の心の活動を指すのでしょう。また、上記から時間を感じ取るのは心です。
『モモ』はこの「時間」と「心」の関係をめぐる話です。
時間を節約すると?フージー氏の例
この時間の本質について人間よりもよく知っていたのは灰色の男たちでした。灰色の男たちは人間から時間を盗み、自分たちの糧としていました。
灰色の男たちは人間から時間を盗む為、ちゃんとした暮らしの為に時間を節約することを勧めます。
まんまと引っかかってしまった人の例として、フージー氏の話があります。
無駄な時間
フージー氏は大都会で理髪店を営み、お客さんとのお喋りが好きな人でした。
ある日、フージー氏を灰色の男が訪ねます。灰色の男はちゃんとした暮らしができないのは時間を無駄にしているからだと責め立てます。
無駄にしている時間というのが、母の介護やインコの世話、ダリアさんに会いに行くことなどです。
灰色の男のいう「ちゃんとした暮らし」とは、金持ちになることだとか、ひとかどのものになることだと思われます。(p141、第2部第7章参照)
確かにその視点に立てば、フージー氏は時間を有効に活用しているとは言えません。
しかしながら、これらのことはフージー氏が好んでやっていることで、フージー氏の心にとっては必要なことであるはずです。
「時間」が置き換えられている
ここでは心が感じ取っていた時間が、いつの間にか時計で測った時間に置き換えられ、さらに成功する為に有効な時間を使っているかどうかという外部からの視点によって否定されています。
こうしてみると灰色の男は筋違いのことを言っているわけですが、「時間とは生きるということ」だと知らない人は騙されてしまいます。
フージー氏のその後
灰色の男の言う通りにすることに決めたフージー氏は時間を節約し始めます。
その結果、前の温厚だった性格は無くなり、イライラして怒りっぽい人になってしまいます。
時間を節約したことで心が荒んでしまったのです。
まとめ
時間とは生きるということそのものですから、節約すれば、それを制限することになります。
また、内面の活動を疎かにして、外部の評価(ちゃんとした暮らしをしている人か、成功した人か)を得ようとすることは、人の心を豊かにしたりはしない、とも言えます。
では、自分が時間を感じるのはどういう時か?『モモ』は楽しい冒険物語というだけでなく、読者も一緒に考えられるような奥深い物語です。
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