こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年6月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品はウィリアム・ゴールディングの「蝿の王 *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。
蝿の王に見るスケープゴート
まず、早速ですがこの話に出てくる「蝿の王」とはどういう存在なのか?それを考えていきたいと思います。もちろん、具体的なものとしては「豚の頭」だったわけですが、その意味するところを深掘りしていきます。
そもそも、子どもたちはなぜ狩りをしたのでしょうか?
物語の描写を見る限り、果物という食料はありましたし、少しばかりの魚やカニを食べることはできていたようです。食料事情の詳細な説明はありませんでしたが、そこまで食べるものに困っていたという感じはあまり見受けられません。そんな中、狩りが必要だった理由はなんなのでしょうか?
そこで、この物語の重要人物であるジャック・メリデューに着目してみます。この物語において、狩猟隊、特にジャックの狩りに対する執着は明らかに異常です。彼らは救助されるたえに重要な火の番をほっぽり出してまで狩りに熱中していました。
ジャックをはじめとした狩猟隊の狩りに対する執着の本質は「スケープゴーティング」ではないか、というのが僕の考えです。
「スケープゴーティング」とはユダヤ人の儀式に由来する言葉で、心理学的には投影という言葉に見られる考え方です。この言葉の定義は様々ありますが、ここでは「自らを不安にさせる思考や衝動を誰かに帰属させること」という広い定義で考えてみます。ちなみに、このスケープゴーティングで攻撃の対象となる物・人をスケープゴートと言います。
学校現場でよくみられる「いじめ」はまさにこのスケープゴーティングの典型的な例であると言えるでしょう。SNSでよくみられる「炎上」についてもまた、この「スケープゴーティング」の一例であると言えそうです。
この立場に立った時、狩猟隊が狩りにこだわり続けた理由として考えられる要因は以下の二点が挙げられると思います。
一つは、子どもたちを怯えさせていた正体不明の<獣>の存在です。実態の見えない相手への恐怖。その強いストレスのはけ口として豚をスケープゴートにするという行為にでた、そう考えても不思議ではありません。自らの弱さを受け入れたくないため、さらに弱い豚をスケープゴートにすることで、自らの弱さを隠そうとしたとも言えるでしょう。
もう一つがジャックの自己愛です。狩猟の失敗やそれをラルフに責められたこと、隊長の座をラルフに取られたことでジャックの自己愛は大きく揺らいでいたと思われます。自己紹介の際に、聖歌隊の首席隊員であることや、学校の首席監督生であることをアピールしていることから、ジャックがもともと自己愛が高いタイプであったことは想像に難くないでしょう。
そのため、ジャックは失った自己愛を取り戻すことが必要でした。だからこそ、名誉を挽回させる「何か」が必要だったのです。その「何か」を狩りに求めた、というのが彼らが狩りに執着したもう一つの要因です。焚き火を監視するという地味な行動では自己愛は回復できませんし、仮に船に見つけられて救助されたとしても、それは焚き火を提案したラルフやピギーの手柄となってしまいます。
精神科医M・スコット・ペックは「平気で嘘をつく人たち」という本の中で、虚偽と邪悪の心理学について考察しています。その本によると、邪悪は肥大化した自己愛によるものであり、それは集団における悪(虐殺や戦争)も同様であると述べています。また、集団はその肯定感を高めるためにスケープゴートを立てがちであることや、一度失敗した組織は悪に走りやすいとも主張します。これらのことは、蝿の王の序盤において、狩猟隊やジャックが陥っていた状況とぴったりと一致していることがわかるでしょう。
これらのことから分かるのは、狩猟隊は豚をスケープゴートにしていたということであり、それが狩りに執着した理由であるということです。自らの弱さを豚に転嫁し、毀損した自己愛を取り戻すことが狩りの目的でした。ジャックにしてみれば救助されることより、自己愛を取り戻す方がはるかに重要だったというわけです。
その成れの果てが「蝿の王」です。スケープゴートにした豚の頭。ジャックはこれを<獣>への贈り物と言っていましたが、これは「いじめっ子が、いじめに加担している教師にいじめられっ子を通報する」ようなイメージなのかもしれません。
蝿の王はサイモンにこう言います
「おまえは知っていたんだな。わたしがおまえたちの一部であることを。ごく、ごく、親密な関係にあることを!」(*1 252ページ)
この言葉は、「蝿の王」とは子どもたち自らの弱さの投影であり、スケープゴートを立てないと満たされない自己愛の醜さを言っているのではないでしょうか。
改めて物語を見てみると、この作品ではスケープゴーティングが繰り返しモチーフとして現れていることがわかります。物語冒頭ではピギーがスケープゴートになり、ラルフ自身もそれを自覚的に利用していたようにも思います。しかし、この段階では些細な嫌がらせ程度の話でした(もちろん、だから構わないというつもりはないですが)。
中盤のスケープゴートはすでに議論した豚であり、後半は他でもないラルフです。最後の段階までいくと、もはや食料や救助などの命に関わるものではなく、完全に大義も失った蛮行だと言えるでしょう。
一方、知性の側に立っていたピギーやラルフにもスケープゴーティングの兆候
なかったかと言うと、そんなことはありませんでした。以下は中盤のピギーとラルフの会話です。
「いや、あれじゃなくて……ぼくがいうのは……みんながでたらめをやる理由はなんなのかってことだ」
−−−−−−−−−−−−−−中略
「わかんないけど。あいつじゃないかな」
「ジャックか」
「そう、ジャック」(*1 245ページ)
これは明らかにスケープゴーティングの兆候です。うまくいかない要因を、なんとなくそれらしい一人の相手に帰属させているわけです。おそらく、でたらめをやる理由はジャックだけではないでしょう。ジャックがいなかったとして、この状況がうまくいったかというと甚だ疑問です。
ここまでの議論をまとめると、スケープゴートを変えながら暴徒化している子どもたちを描いたのが蝿の王だ、という読み方もできることがわかります。まさにスケープゴートの連鎖です。当初、ラルフはピギーへのいじめを唆したものの、その後は暴力的なスケープゴーティングには加担しませんでした。ジャックへの複雑な感情があったとはいえ、群集心理に抵抗しつづけたことは勇気ある行動だと僕は思います。
群集心理の暴力性と排他性
今回のコラムのタイトルにも入っている「群集心理」。前章の最後でなにげなくこの言葉を使いましたが、続いてはこの言葉について考えてみましょう。
ピギーへの些細ないじめでしかなかったスケープゴーティングが、なぜ森一帯を焼き尽くすところまでいってしまったのか。それは、成功体験によるスケープゴーティングの集団への波及と自己愛の肥大、そして一体感によって生じた群集心理によるものと考えられます。
スケープゴーティングは集団への波及がその大きな特徴と言えます。豚を殺したことでジャックの自尊心が回復するだけでなく、狩猟隊以外の子どもたちにも安心感をあたえ、自らの強さと肯定感を与えました。それは救助を待つ上では大した意味を持っていたわけではないですが、多くの子どもたちがその安心感に従い、豚への狩りに傾斜していってしまったわけです。
勿論、肉を食べられるという欲求も関係なかったとは思いませんが、いつ来るかわからない救助を待とうとするピギーやラルフよりも、かりそめとは言えすぐに目に見える結果を出し、束の間の安心感を与えてくれるジャックが魅力的に見えたのでしょう。一方、そうして配下を増やしていったジャックは失っていた自己愛を急速に回復させ、肥大化させていきました。この集団への波及とジャックの自己愛の肥大化の相乗効果が、スケープゴーティングを過激化させていったのでしょう。
そして何よりも、繰り返し出てくる歌と踊りによる一体感がそれをさらに助長させたのは間違いありません。はたから見ると狂気としか思えない歌と踊りが子どもたちの一体感・高揚感を生み出し、理性的な行動からの逸脱を促進しました。アルコールが入っているわけでもないのに、宴会のノリとテンションだけでサイモンの殺害に走ってしまったのは、この一体感・高揚感によるものだと考えるべきでしょう。
ここで、子どもたちの歌と踊りに「狂気」という言葉を使いましたが、この行動は、ある意味クラブ・ミュージックやアーティストのライブに興じる現代人と根本的には変わらないと思います(筆者はライブもクラブもほとんどいったことがないので想像ですが)。よくわからない言葉を叫んだり、音楽に合わせて体を動かしたりすることは、実はそこまで「狂気」とは言えないのかもしれません。
これは偏見かもしれませんが、ミュージッククラブで反社会的行動が起こりやすいことを考えると、歌と踊りに感化された子どもたちの暴力性にも納得しやすいのではないかと思います。また、日本ではあまり一般的ではないかもしれませんが、フーリガンと呼ばれる暴徒的なスポーツ観戦者の行動も、スポーツ観戦による高揚感の結果起こるものと考えてもいいのかもしれません。
また、多くの宗教で音楽が大きな意味を持つことにも関係があるような気がします。キリスト教で賛美歌が重要視されることは知っての通りですし、仏教で唱えられるお経はリズムとライムからなる音楽のようなものだと言えるでしょう。また、仏教の時宗では踊り念仏という行為も行われています。さらに、イスラム教の聖典であるコーランは、美しい韻律を基にしているため、他の言葉への翻訳は許されていないほどその響きに重きを置いています。
僕は宗教を悪いものだというつもりは全くありませんが、超越的な存在を信じるため、音楽によって理性を殺して感情を高ぶらせるという側面があることは否定できないと考えます。
このように、一体感や高揚感によって導かれる群集心理は暴力的で有り、排他的な行動を取りやすくするという性質があることは間違いないと思います。このような群集心理がスケープゴーティングのエスカレートを招いたと言えるのではないでしょうか?
群集心理の高揚と効用
さて、ここまで群集心理の暴力性について論じてきました。最後に、スケープゴートの社会的役割を踏まえ、なぜ人間に群集心理という負の機能が宿っているかを考えてみます。
ちなみに以下の議論は、食料をはじめとする各種リソースが現代のように安定供給できていないような狩猟時代を想定しているので、ご注意ください。僕は、少なくとも現代においていじめやスケープゴートを肯定するつもりはありませんし、むしろそれが無くても安定を維持できるような社会を構想するために、今回のテーマについて考え、この記事を書いています。
この文章の前半に述べた通り、スケープゴートとは集団の自己愛を増強し、安定させるために必要な犠牲です。ポイントは、必ずしもスケープゴートとなった対象に非があるとは限らず、スケープゴーティングをする側の都合でその対象が決まってしまうということです。
これはいじめを想像すると理解しやすいと思います。もちろん、ケースバイケースではあると思いますが、多くの場合、いじめられっ子がいじめを受けるに値するほどの過失はありません。一般的にいじめのターゲットはいじめる側の都合で決まるのです。
そして、スケープゴートが集団の安定のための機能だとすると、ここで一つの問題が発生します。それはすなわち、いかにして倫理の壁を超えるか?です。
もちろん、ターゲット側に明確に過失がある場合はそこまで問題になりません。程度の差こそあれ、盗みや殺しを働いた人を罰するのは倫理的に筋が通っていると言えるでしょう。しかし、相手に過失がない場合は問題となります。自分の集団の安定のためだけに他人に制裁を加えることは、多くの集団の倫理に反します。
こういうことを言うと、「いじめ」をする人は倫理感などないから問題にならないと思われる方もいるでしょう。しかし、僕はそうは思えません。なぜなら、そもそも倫理感のない人間は集団を維持することはできないからです。むしろ倫理的であり、集団を大事に思うからこそスケープゴートが必要になるのです。
ちょっと話が逸れたので、本筋に戻ります。上記に書いたジレンマをわかりやすく書き直すと下記のようになります。
⒈ スケープゴートを排除できない集団は、内部を安定させることが出来ずに崩壊する
2. スケープゴートを軽々しく排除出来るような倫理感のない人達は、そもそも集団を形成できない
このジレンマを考えた時、群集心理についての一つの仮説が立てられます。
ここまでの議論で、何の気なしに「群集心理よって、暴力的になってしまう(倫理の壁を超えてしまう)」と書いてきました。しかし、ここで提案する仮説はむしろその逆です。「倫理の壁を越えるため、群集心理が必要だったのではないか?」というものです。言い換えれば、群集心理とは、理性を殺すことで集団を守るための知恵だったのではないか、となります。
この仮説であれば、個人としては倫理的でありつつ、集団としては排除したいスケープゴートを攻撃出来るため、集団の安定した運営が可能になります。少なくとも、上記の1.2の人達に比べてはるかに生存確率が高いでしょう。そうやって今日まで生き延びた種族の末裔が我々であると考えて、なんら不思議はありません。
前述の通り、集団で歌や踊りをしている時の高揚感は判断力を鈍らせるものです。先の仮説に従えば、人は、高揚感によって理性が鈍ってしまうのではなく、「理性を鈍らせるために」高揚感を抱くようプログラムされているというわけです。それによってスケープゴートを排除するのが群集心理の効用です。
そう考えた時、我々がライブやスポーツ観戦で得られる高揚感や、他人との共感で得られる一体感は、もしかしたらスケープゴートを排除するための群集心理に起源を持っていると言えるのかもしれません。スケープゴートの排除を促進するための「報酬系」こそが、スポーツや音楽を通じて一体感・高揚感を抱く源泉なのだと考えられるわけです。我々はその快楽という報酬を求めて、ライブやスポーツ観戦に足を運ぶとも言えます。
野蛮人の子どもたちがサイモンを殺害する際、ラルフはその群集心理に飲み込まれそうにな
ったことを悔いています。それだけ歌や踊りによる群集心理の力は強いのです。いじめは恥ずべきことだとわかっていても、その場にいれば加担してしまいがちなのが人間なのです。ある意味、そのようにプログラムされていると言っても良いでしょう。
一般的にスポーツや音楽で高揚感を得ることや、仲間との共感による一体感は美しい物だと考えられています。しかし、上記の立場をとるなら必ずしもそれが美しいものであるとは言えないでしょう。我々の持つそのような特性は、他人の排除やスケープゴーティングとまさに表裏一体なわけです。
もちろん、だからライブやスポーツ観戦をやめるべきとは言いませんが、我々が一体感・高揚感に身を預けるとき、その暴力性や排他性に少しだけでも目をむける勇気が必要だと思うのです。
これも余談ですが、上記の2に相当する人たちは所謂サイコパスなのだと考えられます。サイコパス同士では集団を形成することができない一方、共感性を持たないため極めて理性的な判断をすることができ、個人としての生存能力は非常に高いので生き残ることができるわけです。多くの社会において、極少数サイコパスが存在すると言う事実はこの説を裏付ける根拠の一つと言えるかもしれません。
いずれにしても、この議論は専門家でもなんでもない僕の非常に個人的な考えでしかありません。専門家から見れば、的外れの指摘であると言われる可能性が高いです。それでも、一体感や共感は排他性・暴力性と表裏一体だということは意識すべきではないかと思うのです。
結び
今回はウィリアム・ゴーティング氏の「蝿の王」を読んで考えたことを書いてみました。読み終わった後も、読書会でこの本について話した後もかなり考えさせられる本でしたが、いつも以上にインスピレーションを刺激させられる物語だったと思います。さすがノーベル賞作家といったところです。
繰り返しますが、僕自身は「いじめ」やスケープゴート的な排他性を肯定するつもりは全くありません。人間にはそのような特性があることを受け止めた上で、苦しむ人をいかに減らせるのか、それを考え、実行していくことが何より重要なのだと思うのです。
いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。
それでは、また!
*1 ページ数および訳は全てハヤカワepi文庫版(新訳版)のものになります。
ウィリアム・ゴールディング『蝿の王』(ハヤカワepi文庫、2017)
参考文献
釘原直樹『スケープゴーティング現象の定義とメカニズム』(対人社会心理学研究(14),1−15,2014)
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』(草思社文庫「草思社」2011)
中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書「小学館」2017)
マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』(草思社文庫「草思社」2012)
オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫「早川書房」2014)
0コメント