『春』著者:S

 友人の音が亡くなり三度目の春が過ぎる。

 某スポーツ企業のマーケティング部で多忙な毎日を送っていた彼女は残業を終えた金曜、ご主人と暮らすマンションに戻り、早々と寝室に行きそして土曜の朝になっても二度と目を覚ます事はなかった。お酒が強くて麻雀が上手でお寿司が好物、名前は可愛いけど中身はおっさんだなと仲間内でからかわれていたのが音だった。亡くなった、とご家族から突然連絡が来た時もとても信じられなかった。だって音はまだ若く、どこも悪くない。音が死んだ?あの音が。音から職場の上司だという十五歳上のご主人と結婚すると紹介された日を思い出す。画家のアンディ・ウォーホルに似ていると言うその人は物静かで私は殆ど話をした事がない。まあ芸術家っぽいね、共通点眼鏡かけてるくらいだけど、と適当に言う私を音は鼻で笑った。それからずっとご主人の事はアンディと呼んでいた。


 ある夜、音から「今電話してもいい?」とSNSが届いた。いつもこっちの都合なんてお構い無しで連絡してくるくせに珍しいなと思いつつ返事を返すとすぐに電話が鳴った。電話の向こう側の声は少し興奮しているようでひとつ息を吐くと「好きな人が出来た。離婚したい。」と言った。

「なに?いきなり?」

「昔、韓国語習ってたって話覚えてる?」

「え?あー高校生の時?」

 音が高校生の頃、韓流バンド好きが高じて韓国語を一年程習っていた話は何度か聞いていた。彼女が言うには当時、韓国語クラスには山田さんという男性が来ていた。山田さんは会社を経営していて、ビジネス上で役に立つと韓国語を習いに来ていたそうだ。高校生の音はクラス内で最年少で、山田さんはそんな音を常に気にかけて優しく接してくれたそうだ。いつしか音はダンディーで優しい山田さんに想いを寄せるようになる。しかし山田さんには奥さんがいて、確か子供はいなかったけどまあだから私に優しくしてくれたのかも、と言った。「それで」音の喉がぐっと鳴る。

「もちろん当時は何にもなかったよ、私も一年で辞めちゃったしそれっきりだったんだけど。辞める時にメールアドレスを教えてくれてね、山田さんもいつでも連絡しておいでって。でも結局一度も連絡する事ないまま、大学生になって、社会人になって、結婚もしてさ。でも山田さんの事はずっと頭にあって、最近勇気を出してついにメールしたら、アドレスも変わってなくて、すぐに返事が来た。私の事も覚えてた。それから毎日メールで連絡取りあって三ヶ月くらい。好きになった。山田さんね、いま上海に住んでるの、私に上海に来ないかって」

 運命だ、純愛だ、プラトニックだ、と騒ぐ音に正直私は呆れていた。

「なに言ってるの?音も結婚してるし、山田さんも奥さんいるんでしょ?娘みたいに可愛いがってた音から久しぶりに連絡があって嬉しかっただけだって。今いくつなのその人?定年退職して時間があるから毎日メールが来るだけじゃないの?」

 そもそも山田さんの話なんてこれまで一度も聞いたことがなかった。大体どこぞの経営者が高校生と韓国語習うのっておかしくない?どこまで本当の話やら、と続ける私の声を音は遮る。

「私、今まで付き合った誰よりも何なら結婚した旦那より山田さんが好きだよ。心の片隅でずっと想ってた」音は普段口は悪いけど頭も良くて出来る女だ。感情に任せてこんな少女漫画のような事をいうタイプではない、私はご主人の顔を思い浮かべる。「アンディーと喧嘩したの?」神妙に聞く私に「違うよ、好きな人が私を好きだって言ってる。私、本気だから、上海行こうと思う。」

「ちょっと落ち着いてよ」さすがに私も焦って、とりあえず会える日を決めた。あれは音が亡くなる半年前だ。

 それからすぐに音に会い、ご主人や相手の奥さんの気持ちを考えて見ろ、とか、この年でご両親を心配させるな、とか、まるでドラマだと自分でも思いつつ人間はこういう時当たり前の事しか言えないのだ。当たり前の言葉の羅列は全く音に響かず、第一相談してきた時点で彼女の心はもう決まっていて、誰に反対されようと中国に行く気なのだ。音の気持ちは何を言っても変わらず、上海に行くの一転張りだった。

 当時、私は大学時代から交際していた彼と結婚したものの、浮気を繰り返す彼との結婚生活に疲弊していた、子供はまだいなかったが、結婚したからには簡単に離婚できないと、結婚生活を続けていた。「離婚なんてなんてことないよ、早く気づけよ」音が自分の事を棚に上げて私に言う。

「この人一生一緒にいようと思って結婚したんだから、そう簡単に別れられないよ。音の事も応援出来ない、相手の奥さんの気持ちを考えると耐えられない」

 音に怒っているのか、何度も浮気を繰り返す旦那に怒っているのか、現状を変えられない不甲斐ない自分への怒りなのか私は解らなくなっていた。

「もう好きにすれば」私が匙を投げた夜はいつだったか。

 音はそんな私に、もうどうしようもない、と絞りだすように言った。そんな音に腹が立ち勝手にしろと口走った。どうしようもないのが人生で、でも私達はもう充分に大人だ。どうしようもない気持ちを誰もが抱えながら生きていて、皆が好き勝手に生きていいのであればこの世は混乱しかない。こんな時も私は当たり前の事しか言えない、お互い黙りこくったまま、それから何となく連絡しなくなってしまった。


 ご主人に納得してもらえそうだとメールを貰ったのは音が亡くなる一週間前の四月初旬だった。「仕事は来月で辞める。山田さんと住むマンションを探してて、夏には上海に行く」他にも色々書いてあったけど、途中で読むのを止めてしまった。どう返事を返せばいいのかわからなかった。好きにしろとは言った、でもこれで良かったんだろうか。還暦を過ぎて急に離婚を言い渡される山田さんの奥さんも、十五も下の妻に突然離婚してくれと言われたアンディも不憫に思えた。相変わらず勝手に見える音に、私はとうとう返事をしなかった。好きというだけで一緒にはなれない、そもそも結婚しても他に好きな人が出来る気持ちはどうしても理解できなかった。既読になったままのメールを見て音は何を思っただろう。


 そして音は突然死んだ。迎えた葬儀、祭壇の白い菊の花を私は数える、一輪、二輪、三輪、左から右へ。まるで波のような花を。祭壇の中央、一番高いところで微笑む音はまるで質の悪い冗談だ。前日、冷たくなった音の顔を見ても全く実感が湧かなかった。死化粧を施した白い顔も、綿を含んだ唇も、胸の上で組まれた硬直した手も間違いなく死者だ、でもこれは音じゃない。音のご両親、ご主人が生前はお世話になりましたと言う。私はお悔やみを繰り返しながら音が上海で一緒になるはずだった山田さんを想う、山田さんは音が死んだ事を知っているだろうか。突然最愛の娘を亡くし意気消沈するご両親の前でまさかそんな事言いだせなかった。細い背中でどうにか立っているご主人にも聞けなかった。祭壇の上で微笑む音を見つめる、山田さんの事は私以外の友人には言っていないはずだった。でも山田さんは奥さんと別れて来るはずのない音と二人で過ごす準備をしているはずだ。そういえば山田さんはもう離婚してしまっただろうか。さっきから私はあんなに反対していた山田さんの事ばかり考えている。


 告別式の後、アンディに呼び止められた。目の下は窪み、まともに寝ていないだろう。青い顔のまま彼は「今日はありがとうございました」と言った。私も頭を下げる、ご主人は続けた。

「音と、人は亡くなったら何処へ行くかという話をしたことがあったんです、きっと残された人のすぐそばにいてサインを送っていたりするんじゃないかって、式の間そんな事を思い出しました」アンディがそう言った瞬間、私は思い出した。私達もまた、死んだら何処へいくかという話をした事があった。

「死んだとしても、魂はきっとしばらくは残ると思う」音は力説する。

「じゃあさ、そばにいたとしたらサインを出そうか、まだいますよ的な」

「わかった、じゃあ後ろから体が持ち上がるくらい羽交い絞めにしてやる、後ろにいるよって」と音は笑い

「そんなことされたらもれなく死んじゃうじゃん、ゆるく音楽かけるくらいにしといてよ」私は返した。音、羽交い絞めにしにきてくれなかったね。

 私は音のまっすくで少し変わったところがとても好きだった。音は好きな人が出来たとは言ったけれど、アンディを嫌いになったとは言わなかった。「旦那は納得した」とは言った、でも離婚することに納得していたとしても他に好きな男がいたなんてちゃんと言えただろうか。音は本当に離婚したかったんだろうか。それとも、好きな人と一緒になりたいという音の言葉が全てだったのか。目を閉じた最後の一瞬、誰を想っていたか。今頃、もう二度と音には会えない事実に気が付き私は絶望する。向き合う事を途中で放棄したのは私だ、どうして諦めてしまったんだろう、音の本当の気持ちをまだ聞いていなかった。どちらの男を想って死んだかわからない。あんまり突然死んでしまうから確かめようもない。顔を上げるとアンディは声も上げずに泣いていた、私も堰を切ったように泣いた。周りからすすり泣きの声が聞こえた。私達は置いてけぼりだ、置いてけぼりのまま音は骨となった。大事なことは永遠にわからないまま。


 それからしばらくして私は離婚した、音が言ったようになんてことなかった。少しくらい傷ついても、また毎日を生きている。アンディには結局何も聞けなかった、告別式の後、手紙が届いた。良い時も悪い時もいつも音のそばにいてくれてありがとうございました、と書かれたアンディの手紙を読んだときの胸をつかまれるような気持ちを私はきっと生涯忘れない。

 思えば私は山田さんの事は何一つ知らない。行った事もない上海にいる、会った事もない山田さんを私は今も時々想う、音は結局、上海に行けなかったから山田さんの記憶の中の音は高校生のままだ。


 春はもうすぐ終わる。

 山田さんはもう音を待っていないだろうか。

(了)

彩ふ文芸部

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