【読書コラム】キッチン - memento mori 執筆者:KJ

こんにちは!今回も彩ふ読書会(2019年3月大阪)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は吉本ばななさんの「キッチン」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。



人はなぜ食事が必要か?

まずはこの小説のタイトルである「キッチン」という言葉について考えてみましょう。一度でも読んだ方であれば、この物語を語る上で「キッチン」という言葉に対する考察は避けられない、ということはご理解いただけると思います。

この「キッチン」という言葉の意味としてまず考えられるのが、暖かい人間関係の象徴でしょう。物語の中でいくつか食事のシーンがありますが、そのいずれもが微笑ましく、暖かい人間の繋がりを感じられるものとなっています。

しかし、今回はあえてその部分ではなく、人間の活動としての「食事」という側面に着目したいと思います。キッチンとは食事を司る場所であり、この「食事」という人間の活動に目を向けてみることで見えてくることがあるのではないかと考えたからです。

そもそも、人間はなぜ食事をしなければならないのでしょうか?

シンプルに考えると、人間が様々な活動をするのためのエネルギーを得る、というのが食事の目的であると言えます。今回は、そのエネルギーの源泉がどこにあるのかについて、もう少し踏み込んで考えてみます。

このエネルギーの源泉を一言で言うと、食事という塊が細かい栄養素になる時に放出されるエネルギーであると言えます。中学校の理科で教えられるように、人間の消化活動によって炭水化物は糖質に、タンパク質はアミノ酸に分解されます。複雑で大きな構造を持つ炭水化物やタンパク質などの分子を取り込み、それを糖質やアミノ酸という細かい分子にまでバラバラにした時、結合という形で封じ込められていたエネルギーが解放され、人間が活動するエネルギーとなります。これが人間の消化活動の大雑把な説明です。

要するに、「食べ物が持っているエネルギー」と「排出されるものが持っているエネルギー」の差分が人間のエネルギーとなると言えます。ここまでは、あまり専門的な知識をもっていなくともなんとなく想像出来るのではないかと思います。

ここで着目したいのは、その逆の反応は人間の体内で起こせないということです。塊をばらばらにしてエネルギーを取り出すことはできても、ばらばらなものにエネルギーを投入して塊を作り出すことができなせん。今回はこの「不可逆性」を軸にして話を進めていきたいと思います。

ピンとこない方のため説明しておくと、「不可逆性」とは、ある方向には現象が進むが逆の方向には進まない、という性質のことです。例えば、氷が溶けて水になる変化は可逆的な変化と言えます。なぜなら、氷が溶けてできた水を冷やせば、再度氷に戻すことが出来るからです。一方で、ガラスが割れる現象は不可逆です。ガラスを割るのは簡単ですが、割れたガラスを元に戻すことはできない、ということは明らかでしょう。

(正確に言うと、実は氷が溶けて水になる現象も不可逆です。しかし、ここでは「不可逆性」という言葉のイメージを説明することが目的なので、厳密な議論は無視します)


不可逆性という真理

この不可逆性を考える時、ポイントになるのが熱力学第二法則という物理法則です。理系で工学や理学を専門としている人以外にはあまり馴染みがないかもしれませんが、この法則が世の中の不可逆性を支配しているといっても過言ではありません。あまり専門的な話をするのはこのコラムの範疇を超えているので割愛しますが、現象の不可逆性を考えるうえで、この熱力学第二法則は外せません。

この熱力学第二法則を非常にざっくりと説明すると、「この世の中の現象は、必ず秩序だった状態から無秩序の状態へと遷移し、その逆の方向には起こらない」というものです。この表現は非常に大雑把なものであり、正確な記述とは言い難いですが、熱力学第二法則がまさに世界の不可逆性を記述した法則だということは間違いありません。ただ、この表現だけだと少し抽象的すぎると思うので、具体的な例を使って説明します。

例えば、暑い部屋と寒い部屋がドアを隔てて隣り合わせに存在しているとしましょう。ドアを開けて放置すると、この二つの部屋はどうなるでしょうか?これは誰もが直感的に想像できる通り、二つの部屋の温度はだんだん平均化され、最終的には二つの部屋の温度は同じになります。

これが「世界の現象は秩序だった状態から無秩序な状態に遷移する」という法則の非常にわかりやすい事例です。この事例を熱力学第二法則を踏まえて説明すると、暑い部屋と寒い部屋が分かれているという「秩序」だった状態から、温度が均一になるという「無秩序」な状態へと遷移した、というわけです。

そして、この逆の方向の現象は決して起こらない、ということも想像に難くないはずです。中くらいの温度の二つの部屋が、時間が経つにつれて勝手に暑い部屋と寒い部屋に分離するはずはない、ということは容易に納得いただけると思います。

もうちょっと身近な例えとしては、乱雑な部屋が挙げられます。たとえ整理整頓された部屋であっても、時間が経つにつれてどんどん散らかっていくというのは誰もが経験していることでしょう。そして、散らかった部屋が使っていくうちに勝手に整理されることはないということも同様です。上で説明した二つの部屋とは違って、こちらは物理的に厳密な具体例であるとは言い難いですが、この例の方が熱力学第二法則のイメージは捉えやすいと思います。

ここで、勘のいい方はこのような疑問を抱いたかもしれません。それは「クーラーはどうなんだ?」という疑問です。冷蔵庫やクーラーの本質は外部に熱を放出しながら内部を冷却することなので、「無秩序」だった部屋の温度を、クーラーを使って「秩序」だった寒い部屋と暑い部屋に分離できるのではないか?と言う反論はあってしかるべきでしょう。

確かにこれは一見、熱力学第二法則に反しているようにも思えます。しかし、この反論は正しくなく、その核心は先の例で僕がしれっと使った「勝手に」という言葉にあります。すなわち、『中くらいの温度の二つの部屋が、時間が経つにつれて「勝手に」暑い部屋と寒い部屋に分離する』ことはないというのがポイントです。

当たり前のことですが、クーラーを動かすためには電気を消費する必要があります。そして、電気を作るためにはどこかで秩序を破壊する必要があります(例えば燃料を燃やす)。言い換えれば、「無秩序」な部屋の温度を「秩序」のある状態に変化させるツケとして、電力を作ると言う形で、より大きな「秩序」の破壊を必要とするということです。局所的には「無秩序」が「秩序」に変化しているように見えても、トータルで見ると「秩序」が減る方向に物事は遷移し、熱力学第二法則はやはり健在だということです。

ここまでの議論を簡単にまとめると「世界の現象は秩序だった状態から無秩序な状態に遷移する」ということであり、秩序の崩壊を防ぐためには、その代償としてそれを上回る秩序の破壊、という不可逆な変化を伴うということです。これこそが世界の不可逆性を支配する法則である熱力学第二法則の本質であると言えます。


食事を摂る必要がある本当の理由

さて、長々と熱力学第二法則について解説しましたが、ここでようやく議論を食事の話に戻します。ここまで見てきた熱力学第二法則を元に、食事という活動について考察してみます。

言うまでもなく、人間をはじめとする生物は途方も無いほどに複雑な構造(=秩序)を持つ物質です(生物を物質と呼ぶことのに抵抗がある方もいるかもしれませんが、他に適切な単語が見つからなかったので仕方ありません)。人造人間はおろか、もっとシンプルな構造の生物ですら人間の手で再現することなど夢のまた夢でしょう。人間とはそれくらい高度に秩序だった構造物であると言えます。

熱力学第二法則によると、このような高度な「秩序」は、「無秩序」への遷移という崩壊が運命付けられています。悲しいことではありますが、それが世界の法則です。しかし、この崩壊に対して生物は全くの無力であるというわけではありません。定められし崩壊に抗う行為、それこそが食事なのです。

高度に構造化された生命という秩序を、(局所的に)熱力学第二法則に逆らって維持し続けるため、その代償として外部の秩序を破壊する。これが食事の本質であり、人間が食事を摂る必要がある本当の理由です。

つまり、我々人間が生きると言うことは、食事を通して外部に、秩序の破壊という不可逆的な影響を及ぼし続けていくことであると言えます。これはまさに、外部から供給される電気を利用して、暑い部屋と寒い部屋に分離した状態を維持しているのと同じ構図です。

このような視点で食事を捉えた時、食事を司る場所である「キッチン」の位置付けが浮かび上がってきます。すなわち、生きることに伴い避けることのできない不可逆性の象徴であるということです。

正直言ってこれは曲解のしすぎであることは自覚していますし、この本を書く際に吉本さんがここまで理系的な考察を行なっていたとは考えていません。しかし、このように考えると物語全体の持つメッセージにも筋が通るように思うのです。それをここから見ていきましょう。


memento mori

僕が小説「キッチン」を読んだ時に、非常に印象に残ったシーンがありました。それは物語の後半、みかげがバスに乗っている時、おばあちゃんと小さな女の子とのやりとりを見て、みかげの目に涙が溢れてくるシーンです。初めてこのシーンを読んだ時、自分で理由がよくわからないままに感情が強く動かされるのを感じました。

ここでみかげが泣いてしまった理由を考えると、その直前の文章にヒントがあることがわかります。

『おばあさんの言葉があまりにやさしげで、笑った子があんまり急にかわいく見えて、私はうらやましかった。私には二度とない……。』(49ページ *1)

『その時思いついた「二度と」のものすごい重さや暗さは忘れがたい迫力があった』(49ページ *1)

この表現から分かるのは、もう亡くなった祖母には会えないという絶望や悲しみです。ここまで読んだ方なら僕が何を言いたいかピンと来たかもしれませんが、これは明らかにこれまで議論してきた不可逆性に他なりません。ここでのみかげの涙の理由は人生の不可逆性をあまりにもリアルな形で実感したからではないかと思うのです

世界を支配する法則である熱力学第二法則。その前には人間はあまりにも無力です。単に人間関係からくる別れではなく、自然の法則によって決定づけられた絶対普遍の別離こそが「死」です。その不可逆性はときに人を絶望の淵に陥れます。

しかし、本当にそこには絶望しかないのでしょうか?

確かに大切な人との死別はどうしようもなく辛いものです。永遠に続く関係など無いという事実は、「どうせ別れが来るならば、人を愛する意味などない」という消極的ニヒリズムにもつながりかねない危険を伴うものです。

しかし僕は、終わりがあるから何をしても意味がない、なんて事は決してないと信じています。むしろ、終わりがあるからこそ今を大切に出来るのではないかと思うのです。キッチンの結末で語られるみかげの独白が、それを物語っているようにもみえます。

『ここだって、いつまでもいられない - 雑誌に目を戻して私は思う。ちょっとくらっとするくらいつらいけれど、それは確かなことだ。

ー 中略 ー

でも今、この実力派のお母さんと、あのやさしい目をした男の子と、私は同じ所にいる。それがすべてだ。』(60ページ *1)

これまで考察してきたように、キッチンとは暖かい人間関係の象徴であると同時に不可逆性の象徴でもあると思っています。不可逆性という定められた終わりと、終わりがあるからこそ大事さを実感できる人の暖かさ。この小説のタイトルが「キッチン」である理由は、このようなところにあるのではないかと思うのは、深読みのしすぎでしょうか?

突然ですが、ラテン語には「memento mori」という言葉があります。直訳すると「いずれ死が訪れることを忘れるな」ということらしいです。いずれ死が訪れるからこそ今を大切にせよというメッセージが込められた言葉であり、まさにこれまでの議論を端的に言い表した表現であると思います。

我々は、あまりにも日々の変化が小さい時、ともすれば退屈にも感じる日常が永遠に続くかのように考えてしまいがちです。この小説は、「memento mori」、つまり避けられぬ死と、それを認識して初めて分かる何気ない日常の大切さ、そんなところに改めて目を向けさせてくれるからこそ、これだけ長く愛されている作品なのではないかと思えてなりません。


結び

今回は吉本ばななさんの「キッチン」を読んで感じたことを書いてみました。この小説は長い間愛されている作品であり、僕個人としても思い入れの強い作品です。

この本を初めて読んだ時は目頭が熱くなるものをありながら、その涙の理由をいまいちうまく言語化できませんでした。しかし、今回自分なりに考察する事でその正体が少しづつ見えてきたように思います。

いつものことですが、この文章はあくまでも僕の個人的な解釈であり、小説の捉え方は読者の数だけあると思います。このコラムが何かしら考えるきっかけになったり、感じるところがあれば幸いです。

それでは、また!


*1 ページ数は全て新潮文庫版のものになります。

吉本ばなな『キッチン』(新潮文庫、2002)


参考文献

ピーター・W・アトキンス『エントロピーと秩序』(日経サイエンス社、1992)


彩ふ文芸部

大阪、京都、東京、横浜など全国各地で行われている「彩ふ読書会」の参加者有志による文芸サイト。

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