『全力疾走』著者名:ののの

 今日も上司に小言を言われた。わたしの勤務態度がお気に召さないらしい。

 ――ボクはいつも1時間前に出勤してるんだけどね。君は良いねえ。ボクは有給休暇なんて一回も使った事がないよ。君は良いねえ。え、もう帰るの? 君は良いねえ。

 えびす様のような顔つきと体型の上司は、優しそうな雰囲気に溢れている。笑う時はガハハと豪快でよく笑うから役員の方々からは非常に気に入られている。声を荒げて部下を叱責するような事もないし、よく話しかけてきてコミュニケーションも取っている。一見優しそうな人。でも、わたしは知っている。いつも目が笑っていない事に。元々細い目をしているからいつも笑っているように見えるのだけど、目の奥が全く光っていないのだ。物言いも別にこちらを責めているわけではないけれど、こちらが気にしてしまうような言い方をしていて、部署内の社員たちはついつい忖度してしまう。真綿で首を絞めるようにじわじわと蝕まれていった社員たちは、今では一時間前出勤、有給休暇取得ゼロ、定時イコール終電という、上司の理想の部下となった。まさに上司にとっては理想郷。そんな理想郷にまだ染まらないでいる最後の砦がわたし。

 一時間前出勤、有給休暇取得ゼロ、定時イコール終電なんて冗談じゃない。好きなお店に行って好きな料理を食べたいし、お酒を飲みたいし、好きな音楽を聴きたい。そのためには休みが必要だし、プライベートを優先させたい。というのがわたしの考え方なのだけど立場はすこぶる悪い。「これブラックだよねー」なんて酒を飲みながら愚痴っていた同僚たちも、今では上司と同じ口癖を最後に添えて、わたしの勤務態度を遠回しに責めてくる。孤軍奮闘状態。部署内の雰囲気は上司の理想郷ではあっても、わたしの理想郷ではない。そんな状態でもわたしはまだ染まらない。染まるつもりもない。染まらないための切り返し方も分かっている。

 ――そうなんです。わたし下っ端なんで! 良いでしょう? そうなんです。わたし下っ端なんで! 良いでしょう? はい、帰ります! わたし下っ端なんで! 良いでしょう?

 笑いながらこんな風に言って返すと、相手は次の言葉を放てない。何か言いたそうにしているけれど言葉を紡ぐ隙なんて与えない。さささっと定時に帰る。強気で行く。その分、部署内での孤独さは日に日に増している。ひしひしと感じる冷たい視線を退け続けるには、それなりにエネルギーが必要だ。必要なエネルギーが足りない時も当然ながらある。プライベートで何かあった時にはやっぱり普段以上に仕事のモチベーションが低空飛行で頑張れない。そんな時ほど仕事をミスる。ミスると上司は颯爽と笑顔でやってきて小言をちくちく。「わたし下っ端なんで!」って言葉が出てこなくって、愛想笑いも上手く出来なくって、小言がダイレクトに私の全身に留まる。消化しきれなくって周りに助けを求めてみても、既に上司の色に染まった社員たちしかこの場にはいない。フォローしてくれる人がいないから孤独さが増して・・・・・・悪循環に陥っているのが分かっているのに抜け出せない。

 今日も上司に小言を言われた。その言葉が直撃してしまった。その日わたしは残業をした。上司に小言を言われたからってわけじゃない、と自分に言い聞かせる。実際、今日中に提出しなければならない書類があったから残らざるをえなかっただけだ。

 二十二時を過ぎた頃、上司がわたしの傍に来て缶コーヒーをそっと置いた。

「良いね、良いねえ! やる気を感じられるよ。もうひとふんばりだね」

 とか何とか言って肩にポンと手を置かれる。その上司の言葉と行為に全身が粟立つのを覚え・・・・・・るはずだったのだけれど、その日は違った。ちょっぴり「嬉しい」と感じているわたしがいた。結局、終電までその日は仕事をする事になった。提出用の書類だけをするつもりが、気になって他の仕事にも手をつけてしまったからだ。

 翌日、わたしは一時間前に出勤した。昨日手をつけてしまった仕事を早く終わらせたかったからだ。どうせ昨日も終電だったし、たまたま早起き出来たし、たまには良いか、という気分だったのだ。早く出勤したつもりが、上司はわたしよりも早く出勤していた。わたしは二番目だったのだけれど、目が合うなり上司はパッと笑顔になった。

「良いね、良いねえ!」

 拍手までする始末。それから間もなく他の社員たちも出勤してきた。わたしが早めに出勤しているのを見て皆も一様にパッと笑顔になる。そんな大げさな・・・・・・と思いながらも、少し嬉しいと感じるわたしがいた。その日は定時で帰るつもりだったのだけれど、同僚たちの仕事を手伝っているうちに定時は過ぎてしまった。

 

 仕事に追われている内に半年が経った頃、大学生時代の友達が突然家にやって来た。好きなアーティストが同じだったことがキッカケで仲良くなった子だ。社会人になってからもよく遊んでいたのだけれど、最近はなかなか都合が合わなくて会えていなかった。何の前触れもなく家の前で待っていたので、わたしは驚いた。一人暮らしなので、こういう時に家に招き入れておいてくれる家族はいない。

 いつから待っていたのか聞いてみると、二十一時くらいからだと彼女は言った。その日わたしは終電まで仕事をしていたので、三時間以上待たせてしまった事になる。連絡しといてよ、と言ったら、したよ、と言われて、慌ててスマホを見たら未読メッセージが残っていた。仕事の邪魔になるからとプライベート関連のアカウントを通知オフにしていたせいで気づかなかったようだった。謝って家に招き入れる。三時間以上も待っていたなんてよほどの事があったのかと心配して聞いてみたら別に何もないと言う。ただ会いたくなっただけ、と言われて拍子抜けした。その日もいつものように話題は好きなアーティストの話になったのだけれど、何故か会話が全く弾まなかった。

 翌朝、一緒に朝食を食べようと思って彼女に声をかける。彼女はまだ起きる気配がなく仕方がないので先に食べることにした。出勤前の準備を終えても彼女はまだ起きる気配がなかったので仕方なく鍵と書き置きを残して家を出た。

 わたしの部署では誰が一番早く出勤出来るかで競争している。半年ほど前から上司が企画した一種のゲームだ。月間トップの成績をおさめると上司から好きな食事を奢ってもらえる事になっていて、先月わたしはトップと大きく差をつけられての二位だった。今月はトップと僅差で、頑張ればトップが取れそうな位置にいる。

 十一時頃、自宅にいる彼女からLINEが届いた。ようやく起きたらしい。その内容によると、昨日彼女はわたしを心配して会いに来てくれていたらしい。最近LINEのメッセージも未読のままの事が多くなっていたし、仕事も忙しそうで心配だったから、というのが理由のようだった。メッセージの最後には「今の仕事、やめた方が良いんじゃない?」とまで書かれていた。その内容を見て、わたしは怒りを覚えた。職場の事を何も知らないで否定してくる彼女が理解できなかった。

 上司のおかげで部署の雰囲気はとても良い。チームワークも良くて、働きやすい環境を作ってくれている。やりがいも感じている。わたしの理想郷が、ここにあるのだ。その全てを否定された気分になって、わたしは部署の同僚たちにLINEの内容を見せた。すると、同僚たちも口々に彼女のメッセージを読んで非難した。こんな友達とは縁を切った方が良いよと言われて、私はその通りだと思った。そもそもわたしが辞めてしまったら仕事が回らなくなってしまう。辞めるわけにはいかないのだ。彼女に対して少しキツめの文章で返信すると、彼女は複数のURLを送ってきた。何だろうと思って開いてみると、ブラック企業や、ブラック企業で働く人の特徴について書かれたサイトだった。ブラック企業と一括りにされていることが、またたまらなく怒りの起爆剤となった。仕事に戻らなければならなくて、今すぐ反論出来ないのがもどかしい。また後で手が空いたら返信しよう。そう思いLINEを閉じようとすると、最後にもう一つメッセージが届いた。

 それは、わたしたちが好きなアーティストの動画URLだった。学生時代に聴いていた曲なので少し古いやつだ。二人で何度も聴いた曲だった。動画サイトにもアップロードされていたらしい。少し観てみたい気もしたけれど、それよりも彼女が何故このURLを送ってきたのか、こんな動画を送りつけて、仲直りしたいということなのか、と更に怒りは増すだけだった。少し意地も出て動画は観ないことにした。

 その日、家に帰ると彼女はもういなかった。鍵は秘密の場所に隠してくれていた。

 

 月末にインフルエンザにかかってしまい、わたしは会社を休まざるをえなくなった。風邪程度なら出勤するけれど、さすがに体が動かなかった。早朝出勤レースはトップを狙えていたのに、これで脱落だった。

 二日以上連続して休みを取ったのは久しぶりだった。動けるようにはなっているので出勤出来なくもないけれど、あと数日は休まざるをえない。上司からは家で出来る作業を頼まれている。自宅で出来る範囲のことをしよう。そう思ってパソコンを開いた時、ふと、彼女から送られていた動画のURLを思い出した。動画検索をして、パソコンで動画を開く。画面いっぱいにアーティストのミュージックビデオが映し出される。澄み切った声で、彼が歌をうたい始める。歌声を聴いているうちに、ふと頭の中に空白が出来た。

 

・・・・・・わたしは何をやっているんだろう?


 ふと、そんな疑問がよぎった途端、わたしは涙が止まらなくなった。

 

 パソコン画面から流れるメロディと共に、大学生時代の思い出や、見てきた風景が頭の中に描き出された。曲が終わって、もう一度聴きたくなってリピートする。何度も何度もリピートする。聴けば聴くほど心が洗浄されていくようだった。わたしは自分に嘘をついていたのかもしれない。・・・・・・いや、洗浄される、と感じたということは、やっぱり汚れていたということだ。わたしは自分に嘘をついていたのだ。この動画を送ってくれた彼女は、あの日本当にわたしを心配してくれて家にまで来てくれていたのだ。そんな彼女に対して、わたしは心の中で何を思っていただろう。次の日も仕事なのに何でいきなり来たの、と思ってはいなかっただろうか。早朝出勤レースがあるから早く寝たいのに、寝かせてくれない彼女を恨んではいなかっただろうか。アーティストの話題が全く弾まなかったのは、そんな心境がありありと態度に出てしまっていたからじゃないだろうか。彼女も仕事をわざわざ休んで会いに来てくれていたのかもしれないのに、全く事情を聞いていなかったことに今更気づきもした。後悔の念が押し寄せて、わたしは居ても立ってもいられなくなって、彼女にLINEを送った。既読はすぐにはつかない。きっと、彼女は仕事だ。

 私は走った。全速力で。病み上がりであることも考えずに、熱がぶり返すかもしれないことも考えずに、後先考えずに。彼女のもとへと向かっているのか、どこまで行ったら戻るのか、自分自身でもそれは分からない。イヤホンをつけ、わたしのお気に入りリストを再生する。汚された全てを流したくて、ただひたすら走った。次第に気持ちが晴れてくる。その瞬間、会社は辞めようと思った。きっと、上司は引き止めるだろう。会社はどうでも良いのかね、なんて言ってくるだろう。そうなったら、こう叫んでやる。うるせえ!!知るか!!と。普段そんな言葉なんて使わないから不慣れな台詞。でも、少し荒い言葉が今のわたしの心境にはぴったりだった。うるせえ!!知るか!! 心の中で何度も思いっきり叫んでみた。叫びながら、わたしは走った。


 インフルエンザが治った次の日、上司に退職願いを提出した。上司は驚き慌てて別室に連れていこうとしたけれど、わたしは断った。決断を変えるつもりはないし他の社員たちに聞かれてもどうでも良いと思ったからだ。

 えびす顔の上司は理解出来ないらしく、私にあれこれと言葉を繰り出してきた。何か原因があるのなら改善しよう、と言ってきたけれど、わたしはその言葉を信用出来なかった。一時期は尊敬していた上司だったけれど、改めて見てみるとやはり目の奥は全く光っていなかった。彼は何も変わっていないのだ。自分を偽り、私が歪んだ方向へと見方を変えていただけの話なのだ。だからきっと、一時間前出勤、有給休暇取得ゼロ、定時イコール終電の体制を変えることを提案した所で、何も変わりはしない。上司は何も、変わらない。

 必死に引き止めようとしているけれど、もうこれ以上言葉を聞くのもうざったくなってきて、わたしは話を遮るようにして大きく叫んだ。

 うるせえ! 知るか! と。

(了)

彩ふ文芸部

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