はじめまして。今回初めて彩ふ文芸部に投稿させていただくKJです。今回は2019年1月の読書会で課題本になった西加奈子さんの小説『サラバ!』についてのコラムを投稿いたします。ネタバレは気にせず執筆いたしますので、未読の方はご注意ください。
姉という存在
この物語は主人公の歩がイランで生まれてから中年に至るまでを描いた小説です。その半生の中で様々な人と出会い、色々な出来事を経験していくわけですが、物語の中で特に重要な存在が姉の貴子です。この本を読まれた皆様は姉の貴子に対して、どのような感情を抱いたでしょうか?
姉の貴子は幼い頃からとにかく突飛な行動を「やらかし」て、周囲に迷惑をかけ続けます。家庭での母親に対する振る舞いやマイノリティであることに拘ること、サトラコヲモン様への異常なまでの執着、巻貝アーティストとしての活動など、どれも普通の人から見ると異常と言って差し支えないレベルの行動です。こう言った空気の読めない行動により、周囲を振り回し続けたことに対し、ネガティブな感情を覚えた方は多いのではないかと思います。
その姉の行動によって最も振り回された人物は、他でもない弟の歩でしょう。幼い子どもにとって安全な避難所であるべき家庭が、姉と母親による戦場と化していたことや、小学校に上がる時に姉の同級生から受けた恫喝的な行為が、歩の成長に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。成長してからも、学生時代にはサトラコヲモン様の信者の姉をもつという負い目を持って過ごし、フリーライター時代には巻貝アーティストとなった姉が恋人との破局の直接的要因となりました。
それでいて、ユダヤ教に改宗してからは開き直ったかのように振る舞い、あまつさえ凋落する一方の弟に対して説教までし始めます。歩から見れば、「自分の事を振り回しておいて良くそんな偉そうなことが言えるな」といったところでしょう。自分が堕落してしまった要因の一端である姉から、その堕落を責められることは筋が通らないと感じるでしょうし、尊大な態度であると感じてしまうのは無理も無いように思います。
このように考えると、我々が姉の行動に苛立ちを覚えるのは仕方が無いような気がします。
歩の人物像
ここで、主人公である弟の歩に目を向けてみましょう。幼い頃の歩の性格を端的に言うと「良い子」だと思います。破天荒で何をするかわからない姉の貴子に対して、歩は幼い頃から周りの空気を読むことに長けており、大人の手を煩わせない子どもでした。そんな歩が周囲の目を離れて過ごせる唯一の場が、ヤコブとのひとときだったわけですが、エジプトから日本に帰国してからはやはり周りに忖度し続ける少年に戻ってしまいました。
学生時代からフリーランスで活躍する30歳くらいまでは、その容姿の良さも相まって人気者としての人生を謳歌するわけですが、その後の歩の凋落はご存知の通りです。周囲の期待に沿って自分の行動を決めていたものの、気がついたら周りに人がいなくなってしまったため、何をしていいのかわからなくなってしまった、というのがこのときの歩の状態だと思います。
こうしてみると、姉と歩の人生は非常に対照的です。傍若無人に振る舞い、周囲を憚らず自分の信じるもののために行動を続けた姉が心の安定を得て、周囲との和解を果たしたのに対し、周囲に気を遣い続けた歩は精神を病み、孤独に陥ってしまいます。僕は、この対比こそがこの小説の核心的な部分ではないかと思いました。
嫌われる勇気とのアナロジー
この構図を理解したとき、僕の頭にはアドラー心理学の本としてベストセラーとなった『嫌われる勇気』という本が思い浮かびました。この本で主張されている内容は、人は他人の期待を満たすために生きているわけではなく、自分自身のために生きなければならない、ということです。だからこそ「嫌われる勇気」をもつべきだ、というわけです。
そのように振り返ると、姉の貴子こそ、この『嫌われる勇気』の体現者なのではないかと思うのです。確かに、姉の振る舞いは母親や周囲の人たちが期待するものでは有りませんでしたし、だからこそ衝突し、迫害され、裏切られ、傷ついたわけです。読者にすら嫌われている始末です。しかし、そうやって傷つきながらも自分を信じ続けたからこそ、最終的に自分の芯となるものを見出せたのではないでしょうか?
実際にこの『嫌われる勇気』に通ずる考え方を象徴するシーンが『サラバ!』にあります。歩が宗教にはまっていた姉の過去を批難するシーンで、姉がこう言い返します。『でもそれは私のことよ。歩のことじゃない。』(*1)。更に『歩は、歩なのよ。他の誰でもない。』(*1)。続いて両親に迷惑をかけたことに話が及ぶと『あのふたりのことは、あのふたりにしか分からない。私やあなたは関係ないのよ。あのふたりは、あのふたりの信じることのために生きてる。』(*2)と切り返します。これはまさにアドラー心理学で言う「課題の分離」の考え方で、自分の人生は自分のものであり、他人のものではないという思想です。一見、姉が筋の通らない話をしているようにも見えるこのシーンですが、「周囲のことを意識し続けた歩に対して、姉が自分の人生を生きるべきだと説いている」という構図で考えると、姉の主張はとても筋が通っていることが分かります。意外かもしれませんが、姉の行動は物語を通してご神木のように一貫しています。
このコラムを書くにあたって『嫌われる勇気』を読み返すなかで、こんな文章を見つけました。『ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。』(*3)。ここでユダヤ教が出てくるのが偶然なのかどうかは判断できませんが、「自分のために生きること」の象徴としてユダヤ教が描かれているようにも見えます。
ここまで推論と思索を進めていくと、『嫌われる勇気』で描かれる「迷える青年」と「アドラー心理学を説く哲人」の構図と、『サラバ!』で描かれる「歩」と「姉」の構図のアナロジーが見えてきます。そのように考えた上で、僕はこの『サラバ!』という小説が青春小説のように映るのです。
青春小説としての位置づけ
つまり、「この小説は歩の半生を描くことで、周りに影響を受けやすく、周囲からどう見られているかを過度に気にする思春期を越え、確固たる自己を確立する過程を描いているように感じる」ということです。この場合の確固たる自己というのは、歩の人生で唯一周囲を気にせずのびのびと過ごすことが出来たヤコブとの思い出であり、その象徴である「サラバ!」です。
最終的な歩の年齢は30代半ばであり、青春というには少し年齢がいき過ぎているようにも思えますが、僕はまさにこのプロセスこそが青春であると思うのです。だからこそ、僕はこの小説が青春小説であると感じるわけです。
『嫌われる勇気』がベストセラーになっていることからも分かるとおり、周囲の目線を過度に気にせず、自分の人生を歩むという考え方は、多くの日本人にとってパラダイムシフトと言っていいほど強烈な価値観でした。僕はそれが良いのか悪いのかを判断する立場にはありませんが、この考え方によって多くの人たちの生きづらさが緩和されたことは間違いありません。読者の自己を確立した過去の記憶や、今まさに行きづらさを感じている人たちに、歩という主人公を通して寄り添う小説だからこそ、この『サラバ!』という小説が僕も含めて多くの人の心に響くのではないかと思います。
結び
今回のコラムでは、西加奈子さんの『サラバ!』という小説について、自己啓発書である『嫌われる勇気』を対比しながら、物語のなかで何が語られているのか?そして、なぜ僕を含めた多くの人が感動を覚えるのか?について考察を行いました。
「忖度」という言葉が流行語になったことからも分かるとおり、自分の行動を決める際に周囲の期待や反応を気にしすぎてしまう、というのは現代日本人を象徴する性質なのだと思います。今の時代に全く他人を気にしないというのは難しいですが、周りに流されず自分の信じた道を進むという考え方はこれからの時代を生きるうえで重要なのではないかと思います。
もちろん、今回のコラムの内容が絶対的のものではないことは承知していますが、僕が感じたことや考えたことを読んで、何かしら考えるきっかけになったなら幸いです。今後もこのような形で本についてのコラムを書いていこうと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
KJ
(*1): 西加奈子『サラバ!下』(小学館、2014)p245
(*2): 西加奈子『サラバ!下』(小学館、2014)p246
(*3): 岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013)p135
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