『瑠璃子の舌』著者:鋤名彦名

 楽しみにしていたプリキュアショーを見終えて興奮気味の瑠璃子の手を握り、私たちは園内にある売店でソフトクリームを買った。四歳になる姪の瑠璃子は少し右側に傾いた白い巻貝のようなソフトクリームを落とさないように両手で持ってベンチに座わり、私にプリキュアの描かれた布マスクを外させてから、その白く照っているクリームに薄いピンク色をした舌を伸ばした。ソフトクリームの尖った先端がくるりと丸まった部分を舌先で少し突くようにして舐め、瑠璃子は隣に座っている私の方を向いて「ちめたいね」と言った。そしてまた舌を伸ばし、今度は渦巻の段々を削り取るような力強さでソフトクリームを下から上へと舐め上げた。唇の左端に付いたクリームは皮膚の体温でゆっくりと溶け、滴ると思った瞬間に瑠璃子は舌先で白いしずくを舐め取った。その一瞬の動きすら見逃さないように、私は意識の全てを傾けて瑠璃子の口元を見つめていた。小さな口から出たり入ったりするその薄ピンク色の舌。瑠璃子の舌がソフトクリームを舐め上げるたび、私は動悸が激しくなり、頭がぼうっとするような感覚になった。突如瑠璃子が「あっ!」と声を上げた。「あーあー、おっちゃった」と瑠璃子が言う。履き古したジャージのズボンからソフトクリームが滲みて太ももが冷たい。私は瑠璃子の舌の動きに集中するあまり、自分のソフトクリームを持っていた左手を傾けてしまっていた。暑さで溶けて緩くなったソフトクリームはコーンからずれて私の太ももへと落ちたのだった。瑠璃子が心配そうに私を見つめる。私は笑いながら「あーあー、おっちゃったねえ」と言うと、瑠璃子は肩から斜めにかけていたポシェットの中からポケットティッシュを取り出した。私がそのポケットティッシュでズボンに付いたソフトクリームを拭っていると、「あたしのたべて」と瑠璃子が私の口元へとソフトクリームを差し出して来たが、私はその瑠璃子の舌が通った跡をじっと眺めることしか出来なかった。瑠璃子が再び「たべて」と言うので、私はその舌の通った跡ではない部分を少し舌先ですくった。私が「おいしいね」と言うと、瑠璃子は微笑んでまたソフトクリームを舐め始めた。私は顔を太ももの方へ向け、手を動かしてソフトクリームを拭っているふうにしながらも、上目使いでなおも瑠璃子の舌の動きを伺っていた。もしあの舌が私の身体に触れたらと思うとめまいがした。舌が帯びたその熱でソフトクリームのように私も溶けてしまいたいと思う反面、あの舌は永遠に穢れを知らない無垢な状態であって欲しいとも思った。舌というのは不思議な器官だと思う。口腔内という身体の内外を繋ぐ場所にあり、その外見はまるで肉片のようで、意識的に動かすことが出来る。味覚と感覚を備えて人間の発声にもかかわる器官である一方、口腔内という不用意に外部から触れることが出来ない舌は、逆に言えば触れるものを選ぶことが出来て、それが特に顕著だと思うのは性愛の場面である。キスをする時に唾液をまとった舌を絡ませ合ったり、相手の性器を刺激するのは、不可侵な存在である舌がもう一方の不可侵な存在である粘膜に触れることで、互いの愛情を確かめたりする、いわば第二の性器と言っても良いのかもしれない。瑠璃子のあの舌が、いつかどこかの男の穢れた舌と絡まり、その男の穢れた身体を舐め、穢れた性器を舐めてしまう時が来る。そう思うと私は吐き気がした。例え瑠璃子がヤリマンと言われるような女に成長したとしても、その舌だけは守り抜いて欲しいと思った。瑠璃子の舌は私にとってそれだけ尊いのである。私は瑠璃子に「ベーってしてみて」と言った。今日で何度目かになるこの注文に瑠璃子は「またあ?」とやや不機嫌な顔をして文句を言いながらも素直に「ベー」と言いながら舌を出した。瑠璃子の舌は小ぶりで綺麗なUの字の形をしている。もし幼女の舌だけを写した写真が複数枚あったとして、そのなかから瑠璃子の舌を選びなさいと言われても、私は自信を持って瑠璃子の舌を言い当てることが出来る。瑠璃子の舌はイタリアのルネサンス期の画家であるイザベル・ロドが描いた宗教画の中の天使の舌にそっくりなのだ。私がその宗教画を見たのは中学一年の頃だったと思う。図書館の片隅で誰にも借りられたことの無いような大判の画集があり、私は興味本位でその画集を開いた。左のページにはカラーで絵画が載っていて、右ページにはその絵画に関する何やら難しい解説が書かれていた。私はただ漠然とページをめくり、裸に腰布を巻いた男たちや、木の下に佇んでいる裸の女たちを描いた絵画を見るともなしに眺めていた。そしてその絵画を目にした時、何か身体の底から突き上げられるような衝動が私を襲った。それは地面に倒れている老い耄れた男の周りを三人の天使が飛んでいるという絵画で、そのうちの一人の天使がいたずらっぽい表情をして口から舌を出していたのだった。私はこの描かれた舌がまるで本物のような色合いや質感を持つことに驚かされた。この舌だけが絵画の中である種完成されすぎた異物として存在していて、それが私を魅了した。それから私は休み時間になると図書館に行き、その画集を開いてはイザベル・ロドの絵画の天使の舌だけをじっと見ていた。私はその当時好きだった同級生の女の子に「舌出してみて」と言ったことがある。その女の子とは度々デートとは言わないまでも、一緒に遊びに出掛けたりしていたのだが、ある日のデートの別れ際に私は彼女にそう言い放った。彼女は最初嫌がったが、私が真剣な表情で繰り返し言うので戸惑いながらも唇の間から一瞬だけ舌をペロッと出した。しかし私はそれでは満足せず、「こう、ベーって感じで出して」と自ら舌を出し、彼女にも同じことをさせた。彼女は意を決したのか「ベー」っと言いながら舌を出した。そして私はその舌をじっと見つめた。彼女の舌はイザベル・ロドの描いた天使の舌よりは赤味がかっていて、Uの字というよりはVの字のような先細りする形をしていた。私はおもむろにその舌へと左手を伸ばし、親指と人差し指で彼女の舌を摘まんだ。彼女は驚いて舌を引っ込めようとしたが、私は指先に力を込め、決して舌を離さなかった。指先にかかる彼女の生温かい吐息が気持ち悪かった。彼女の舌は肉厚で弾力は硬かった。やがて舌が乾燥してきて、唾液の乾いた嫌な臭いがした。彼女は「いあい、いあい」と恐らく「痛い」と言いたいのだろうが、舌を動かせないので言葉にならない声を発している。私が舌を離すと彼女は私の顔を見て何か言いたげだったが、急に泣きだしてその場に座り込んだ。私はもうその女の子に対する好意は消えていて、彼女になんの言葉もかけずに、ただ指先に残った舌の感覚だけを意識していた。その後イザベル・ロドの描いた天使の舌の感触はどうなのだろうかと考えながら家路に着いたのを覚えている。四年前、弟夫婦に娘が生まれ、その娘の舌が私の求めていた舌であったことはもはや奇跡としか言いようがない。もし今瑠璃子の口から垂れ下がった舌に手を伸ばしたら、瑠璃子はどうするだろうか。舌を触らせて欲しいと言ったら瑠璃子は何を思うだろうか。まだ四歳の瑠璃子はそこになんの疑問を抱かないかもしれない。そのことが嫌であったとしても、この大人の男は何か理由があってそうしようとしているのだと思うのかもしれない。Uの字の形をした、小ぶりで薄く平べったい瑠璃子の舌は一体どんな感触がするのだろうか。そして今瑠璃子の舌には食べているソフトクリームの味が滲みているのだろう。もし許されるのならその口から垂れた舌に思い切り吸い付いてしゃぶってみたい。いつか穢れてしまうのなら、私がその尊い舌を穢してしまいたい。そんなことを考えていると舌を出した口で「もおいい?」と瑠璃子が言った。私は「ちょっとまって」と言って、ポケットからスマホを取り出して瑠璃子にカメラを向けた。そう言えば今までに瑠璃子の舌を写真に収めたことはなかったことに気づいた。私は指先で画面をタップしながら瑠璃子の舌へとズームして、フォーカスを合わせた。肉眼で見ている舌とカメラのレンズを通して画面越しで見ている舌とでは、どこか印象が違う感じがした。確かに美しい舌なのだが、なにか物足りないような感じがした。この舌を完璧に画として残すことが出来るのは、あの天使の舌を描いたイザベル・ロドしかいないのかもしれない。そう思うと私は瑠璃子の舌を写真に収めることがとても愚かなことだと感じて、スマホをポケットに仕舞いながら「カメラはまたあとでね」と言った。そして「はやくたべちゃいな」と瑠璃子にソフトクリームを食べることを促した。瑠璃子はコーンの上に少し残っているソフトクリームを、舌で舐めたり、時には小さな口を目一杯開けて上から頬張ったりした。そんな瑠璃子を見ながら「つぎなにしたい?」と聞くと目の前を指さして「めりーらんどのりたい」と言った。瑠璃子は「メリーゴーランド」と言えず、いつも「めりーらんど」と言う。瑠璃子はボリボリと乾いた音を立ててコーンを食べ終え、コーンに付いていた紙の持ち手を近くのゴミ箱へ捨てに行った。戻って来た瑠璃子に私は「えらいねえ」と言って頭を撫でた。再びプリキュアの描かれた布マスクを付けてやり、瑠璃子の小さな手を繋ぎながら、メリーゴーランドの方へ歩いて行った。メリーゴーランドには茶色いたてがみの馬と、遊園地のキャラクターである不細工な顔をした白い犬が優しいオルゴールのメロディと共に回っていた。瑠璃子は「いぬさんにのる」と言って不細工な顔の白い犬を目で追っていた。券売機でチケットを買ってから、子連れの家族が何組か並んでいる列の最後尾へと行き、二メートル置きに地面に書かれた印の上に立った。看板には「五歳未満要付添」と書かれているので、私も乗ることになる。ゆっくりと回転が止まり、メリーゴーランドの周りを囲っている柵のゲートを係員が開いて、客が出てきた。入れ替わるように並んでいた子連れの家族が思い思いに茶色いたてがみの馬や不細工な顔の白い犬にまたがっていく。私たちは一つの土台の上に小さな白い犬が二匹隣り合わせになっているところに座った。係員の注意アナウンスが終わり、サイレンが鳴ると、メリーゴーランドはゆっくりと回り始めた。瑠璃子は白い犬の頭の後ろから出ている取っ手に捕まり、最初は少し怖いのか不安そうに私を見ていた。私たちの乗っている白い犬はただ前後にゆったりと揺れているだけで、次第に瑠璃子は慣れてきたのか今では私を見て笑ったり、私たちの横で上下に動いている馬を見たりして楽しんでいる。徐々に回転が速くなってきて、メリーゴーランドの周りにいる客がすうっと視界を過ぎていく。その人混みの向こうに先ほどまで私たちが座っていたベンチが見えた。すうっと通り過ぎてはまた少しして視界に現れた。ある瞬間、そのベンチに座っている中年の男と小学校低学年くらいの少女の姿が見えた。男が何やら少女に言うと、少女は口から舌を出した。その光景が過ぎ去っていき、そしてまたそのベンチが視界に現れると、今度は老い耄れた男と二十歳そこそこくらいの女性が座っていた。老人が何かを言うと、女性は口から舌を出した。今私が見ているものはなんだろう。それは私がこうあって欲しいと願う光景なのだろう。いつまでも私は瑠璃子の舌を尊いものとして崇めていたい。それは私が死ぬまでそうでありたいと願っているのだろう。気が付くとメリーゴーランドは止まっていて、瑠璃子が私の手を引っ張っている。「たのしかったね」と言う瑠璃子に、私は「ベーして」と言って瑠璃子の口からプリキュアの描かれた布マスクをずらした。瑠璃子は一瞬何をされたのか分からない顔をしたが、「ベー」と言って舌を出した。私はその舌を見た瞬間、涙が溢れて止まらなかった。「どうしたの?なかないで」と瑠璃子は言う。いつまでも白い犬から降りようとしない私の元へ係員がやってきて「どうかなさいました?」と言った。係員は私が泣いているのを見て困惑し、どうして良いのか分からないという顔をした。瑠璃子は必死に私の手を引っ張り「いくよお」と言っている。私は肩を震わせしゃくり上げながら繰り返し「ベー」「ベー」と呟いていた。

(了)

彩ふ文芸部

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